感銘を受けたことは、未来に必要なこと。
私という人格は、自我が選んだ都合のいい価値観の寄せ集め。
なりたい自分に相応しい価値観を善、正義として、それ以外の自分を否定する。無意識に。そんな洗脳チックな思考回路で、本音を支配するものだから、当然、心は苦しくなる。
そんな世界で生きるのは、もう嫌だ。
と、思っているのに、気づけば同じことをしていたりする。
ノートに書き出しているフレーズは、ああなりたい、こうなりたい。今の自分以外になることばかり。
自我の支配パターンから抜け出したいなら、なりたい自分を手放せばい。けれど、これからを生きるためには、これまでと同じ自分ではいられない。世は無常。変わる先にいる自分も必要。
でも、それって、なりたい自分と何が違うの?
なりたい自分も、変わる先にいる自分も、未来の象徴。
未来を手放したら、迷子になってしまう。
どういうことだろう?
価値観を手放すことも、未来を見出すことも、どちらも間違いとは思えない。
なりたい自分を思い描きながら、それを手放し続ける?
そんな無茶な発想に、岡本太郎を思い出した。
若かりし頃に出会った彼の言葉は、もうすっかりあやふやなのだけれど、「毎朝、自分を壊して生まれ変わる」みたいな決意に心が震えた。
ま、私にはできないけどね、とも思ったし、信条にしするつもりもなかったけれど、結局、似たような場所に行き着いてしまった。
感銘を受けたことって、未来に必要なものだったりするのかも。
毎朝、生まれ変わる。
なぜ、できない、と思ったのだろう?
私が、価値観の寄せ集めなら、価値観を持たない自分だって存在する。それを繰り返すだけなら、難しくはない。というより、多分、ずっとそうしている。
なりたい自分であり続けることなんて、できないから。
それなのに、無理だと判断した。
芸術家って凄い。そうやって境界線を引くことで、自分を守ろうとした。面白い価値観と思いながら、私には相応しくないと判断した。
生まれ変わりたくないのは、変わりたくない過去があるから。
承認欲求に食い潰された人生を、無意味で無駄で愚かの極み。そう決めつけてきたけれど、無意味とは思わなくなってきた。
私は、この世界を肯定したかった。
突き詰めれば、自分を認めたかっただけなのだけれど、そのために、関わる人を好きになろうなんて、アホみたいな努力を自分に強いてきた。
できもしないことへの努力は、本当に本当に無駄でしかないけれど、愛せないものをなんとかして愛そうとすることって、無意味なこと?
全てを肯定しようとして、その全てが偏っていたから、苦労も倍増でしたけど、やろうとしてきたことは、ストイックで切実で、純粋な願い。
出来もしないことで、人生を無駄にすること。道理に納得したフリをして、理想を諦めること。どっちがよかったんだろうね?
人生を無駄にした過去って、無駄にしても構わないと思えるくらい自分に価値を見出せていたからかもしれない。
それが、無知による見誤りだったとしても、傲慢な思い上がりだったとしても、痛い目を見て後悔しても、気持ちの悪い自己愛かもしれないけれど、今とは比べ物にならないくらい強い気持ちがあって、有り余っていて、溢れていた。それは、確か。
そんな失われた現役感みたいなものが、なんだか微笑ましい。
とっとと挫折して、身の丈を知って、地に足をつける。
それに越したことはないけれど、実はなくても無意味な人生なんてないのかもしれない。そう思えるようになったのなら、人生を無駄にした甲斐はあったのかもしれない。
なんて過去に対して補正が入るのも、自己肯定感があればこそ。
人生の無駄を繰り返さないよう、死ぬまで手放さないようにしたい。
それって、過去への執着か?
なら、手放しても問題にならないようになりたい。
いや、これ、なりたい自分では…?
うん。欲しいものを手放すって、無理かも。
こんな私が、毎朝生まれ変われるとしたら、夢の中くらいなものかもしれない。
fumori
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?