期待に応えられない私を意識することはできても、期待に応えられた私に気づくことは稀かもしれない。

ずっとお膳立てしてもらって生きてきた。

そう思う出来事があって、反省した。
これまで私の代わりに、
お膳立てをしてくれていた人々がいたから、
呑気に生きてこれたのでした。感謝しかない。

そういった事が好きな人もいるし、
得意そうな人がやっているように見えたし、
少なくとも嫌いじゃないから引き受けているのだろう。

私には向いていないからそういう役回りが来ないだけ。

なんて気楽に考えていたけれど、
私を含めたみんなの為を想って
仕方なく引き受けてくれた人もいたかもしれない。
今回の私のように。

向かない作業は、思った以上にストレスだった。
やり終わって、不思議になった。

いくら逃げ越しだからって、
お膳立てしてくれる人々の間だけで
生きてこられたのは、妙じゃない?

コミニュケーションがクソみたいな私の周りに、
そんな優しい人ばかりが存在する?
どう考えても、異様だ。

いくら優しくても、
あげるばかりでは、そのうち嫌になるだろうに…

なぜ、お膳立てに乗っかるだけの
私に付き合ってくれているのだろう?

もしかしたら、
私にも与えられているものがあるのだろうか?

あるとすれば、無意識にやっていることになる。
今まで気づかずに生きてきたくらいだもの。

意識して、考えてやっていたら、
受け取れるメリットには思い当たるはず。

………

考えてもわからない。

だって、無意識にやってることだから。
意識できません。

なら、それは、育つ過程で培ったものかもしれない。


期待に応えられない自分が許せなかった。
与えられる全てが、重荷に感じていた。

自分の価値観を押し付けないで欲しかった。

身につかなかったことばかりに目が向いて、
当たり前のように受け取ることのできたものに
気づく事ができなかった。

今の私を助けてくれているのは、
受け取れなかった私ではなく、
期待に応えられた私なのかもしれない。

私の中には、案外多くの
受け取ることのできた私がいるのかもしれない。

全てを受け取れなかったわけではなく、
受け止めきれないほど与えられていただけだったのかもしれない。

ただ愛されていただけかもしれない。

過剰な愛は暴力だけれど、
与えられたものが身につき、
今の私の助けとなっているのなら、
私はその過剰な愛によって救われ、
苦しんでいるだけなのかな。

もしかしたら、
羨ましいほどに愛されて育ってきたのかな。

そうは思えないけれど、
困った事に辻褄は合いそう。

fumori

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?