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相手に理解して欲しいと思わなければ、大抵のことは「そっか」で終わる。

相手の望みを叶えることが、愛だった。

なので、
私の望みを叶えてくれない=愛されていない
という認識になっていた。

相手の望みを叶えるために、
自分を犠牲にすることも、愛になっていた。

相手より、自分を優先することは、
愛ではなく、ワガママとされた。

つまりは、そういうこと。

前提が間違っていた。
私の勘違いだった。

愛って、相手のニーズを満たすことじゃない。

けれど、
相手のニーズを満たすことが、
愛されるための条件だった。

だから、勘違いしてしまった。

愛されるための条件が、
私にとっての愛となった。

相手のニーズを満たそうとするから、
理解できない相手の反応に戸惑い、
愛されない不安に襲われた。

理由を知ろうとして、
人をパターン化することで安心した。

人と接するたびに、無数のアドバイザーが現れた。

「そうじゃない。こうした方がいい」

アドバイスに従って、うまくいくこともあれば、
逆効果だったこともある。

自分を信じられなくなった。
自分を信じられないから、
アドバイスを受け入れたのかな。

自分を疑うようになり、
アドバイスが盛んになるほどに、
相手の望みをかなえるために、
自分を犠牲にすることが愛だと
思うようになった。

自分のニーズを満たすことは、ワガママ。

そんな幼い頃の価値観のまま、
愛されようとしてきたんだね。

自分を偽らないと、愛されない。
ここにいてはいけないと思って。

ごめんね、自分。

誰よりも先に愛さなければならないのは、
自分だったのに。

自分を愛することができるから、
誰かに伝わる愛を生み出すことができるのに。

愛は条件じゃない。
相手を理解することでもない。

理解できない状況を、
納得するための理由なんていらない。
何でも学びに変えようとしなくていい。

好きにならなくていい。
嫌いのままでいい。

相手を理解したいのは、
私のことも理解してもらいたいから。

理解させたいという欲が、
愛にすり替わっているのですよ。

理解して欲しいと思わなければ、
大抵のことは「そっか」で終わる。

相手は、自分じゃないんだもん。

理解できなくて、当然でしょ?
自分じゃないんだもん。

つじつまが合わなくたって、いいじゃない。
自分じゃないんだもん。

あいつ、訳わからん。
あり得ない。
アホちゃう?

なら、
訳わからんままでいいの。
あり得ないの。アホなの。

それが、私の本音でしょ?

なのに、なんで本音を疑って、
そう思う自分を至らない人間とか思ったり、
解釈し直して、悪者にしないようにしようとするの?

私が願う平和な世界に、
相手を当てはめたいだけじゃん。
押しつけているだけじゃん。
自由を奪っているだけじゃん。

私の理想に相手が従う道理はないんだよ。

だから、相手の理想に私が従わなくてもいいの。

相手のニーズを満たすことは、愛ではない。
私のニーズを満たさないからといって、
愛していない訳ではない。

みんな自分のルールに従って、
愛したり、愛さなかったりしているんだよ。

私も、私のルールで生きていい。

私たちは、愛することで、自由を得る。
自由の対局は、責任なんかじゃないのかも。

自由は、愛すること。
愛せないから、不自由だったのかな。


愛に制限はない。たぶん。
誰も、何も、縛らない。

ただ、そこにあるもの。
最初からあって、輝いているもの。

愛は、幸せと同じ。
条件ではなく、状態。

愛されるために相手のニーズを
満たすことが条件的な愛。

私がしたくてしたことに
自分で勝手に歓びを感じられている状態が愛。

他者は関係ないのかも。
対象は、なんでもいいのかも。
モノでも、人でも、自分でも。

誰に対してでも、何に対してでも、
同じレベルで湧き上がるもの。

私がしたいことをして、
歓喜に溢れている状態。

それが、私の愛なのかな。

なんか、お節介なおばちゃんになりそうだけど…
彼女たちは、愛に溢れているだけなのか。

誰かに喜んでもらいたいとか、
お返しを期待してとか、
そんな打算はないのかな?

ただ、自分が愛に溢れてしまって、
やらずにはいられないのかな?

世の中って、
そんなに愛に溢れているのかな?

私は、そんな愛に満ちた世界に
生きているのかな?

だとしてら、
この世界には、私が受け取れなかった愛で
溢れているのかもしれない。

fumori

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