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言葉に惚れこまれたいからnoteを始める


ついにド本命の挑戦がはじまった

今月、人生で初めてのKindle本を出した。

たくさんの勇気を使って書いた、自己開示の本。

「脳内言語化」というタイトルの本で、
文字通り、わたしの脳内にあるものを生っぽいままに書いたものだ。

こわかった。

書き出しをすこしだけ、ご紹介。

私は、これまでの人生で、3度、暗闇に落ちた。

1度目は母親との関係。
2度目は自分との関係。
3度目は恋人との関係によるものだった。

3度目は最近の話で、私はこの2年間、
たくさん泣いて、
泣きながら、また新しい扉を開いたように思う。

「脳内言語化」自著


わたしは昔から言葉が大好きで、

言葉に対しては異様な程、こだわりや思い入れが強い。


だからこそ、

ずっと逃げてきた。



「わたしの文章を死ぬほど好きになってくれる人と、たくさん出会いたい」

「わたしの言葉のセンスに惚れ込んだ人からの、称賛の言葉を浴びたい」


そんな欲求と、ガチンコで向き合い、挑戦することから、

ずっと逃げてきた。


言葉が大好きだからこそ、

挑戦して、失敗して、傷つきたくないから、逃げていたんだと思う。

40歳を目前に、ついにこの挑戦を始めたというわけだ。

昨日の涙が、私をnoteに向かわせた


昨日は、おどろく出来事があった。

遠いむかしの知り合いから、数十年ぶりに連絡をもらった。

それは、よく考えると
本を出さなければ、起こらなかったことだった。


その女性は、私の本を買ってくれたそうで、
読み進める中で連絡をくれたらしかった。


彼女は私に、あるものを渡した。

「ほかの人には絶対むりだけど、あなたになら」と。


私は それを受けとった。

嬉しかったし、すこしドキドキもした。


私は1人で、そっと開け、ゆっくりと触れてみた。

あたたかいものではなかった。


こわいほど暗い、冬の海みたいだったり、
勢いよく噴き出す、真っ赤な血みたいだった。


でも、彼女そのものが、そこにあった。

わたしは、気づいたら泣いていた。


今朝起きても、まだ余韻が残っていて、こんなツイートをした。



その涙は、
単に「かなしい」とか「かわいそう」とか
そんな表面的な感情によって出たものではなくて、

(もちろんその要素もゼロではないけれど、)

もっと、その奥にある何かから、溢れ出ていたように思う。


「彼女を思って」だけじゃなく、

「自分を思って」だけでもなく、

生きることとか、

しぬこととか、

人間というものとか、

この世に存在するどうにかしたくてもどうしようもできないこととか。

そういう色んなものに対して、溢れ出ていたような気がする。


noteを書こうと思った。


そして、彼女に送ろうと思った。


彼女が「あなたになら」と渡してくれたことを
私がどう思ったかも、

それをどんなふうに受けとったかも、

言葉にして直接伝えると
何か別のものになってしまう気がしたから、

こうしてnoteに書くほうがまだ、
私が彼女に渡したいなにかを 渡せるような気がした。

彼女がnoteを始めるきっかけをくれた


だいぶ昔、一度 noteをやろうとしたことがある。

3記事ほど書いたのだけど、
その後、人生の変化もあって、静かに幕を閉じた。

実は本の執筆も、2年前に違うかたちで書き始めていた。

しかし、うまくまとめられず、
書きたい内容も変わってしまって、挫折した。


そして今回、まったく予想外のところから
再び本を書く話がわたしの人生に登場し、
無事に一冊目を書き上げることが出来た。


noteにも、再びチャレンジだ。


期せずして昨日の彼女が、そのきっかけをくれることになった。

とても嬉しい。


noteで何を書くかは、決まっている。


それは、今回のエピソードのように、

本を書いたことで起こったこと、すべて。

それは、言い換えると、

"さらけ出す恐れ" を超えたことで 見えた光、すべて。


それをこのnoteに綴っていく。


冒頭に書いたことをもう一度 書いておこう。


「わたしの文章を死ぬほど好きになってくれる人と、たくさん出会いたい」

「わたしの言葉のセンスに惚れ込んだ人からの、称賛の言葉を浴びたい」


言葉に救われて 生きてきたから


わたしは言葉に救われて 生きてきた。

わたしも誰かを 言葉で救いたい。




2023.4.29

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