歩くこと

 僕が歩くという言葉を使うとき、ほとんど旅をすることと同義である。

白神山地の携帯の電波も通じないくらい山深いキャンプ場で、焚き火を囲んだときのことだ。
いっしょに旅した二十人くらいでミーティングをした時、その日の感想を求められた。少し考えてからこんなことを言葉にしてみた。

 今日、湿原の木道を歩いていて、感じたのだけれどみんな前の人に連れられるように何も考えないで歩いているように見える。
僕は一人で歩き、足元にいろんなものが落ちていたり、小さな変化があることを改めて感じた。
注意深く観察していると、歩くこと自体が楽しくなるし、そこがここに来た意味なんじゃないかなと思う。だから明日は、歩き方に意識を置いてみてほしい。

言葉にしてみて、自分が歩くという行為にこんな意味を見出していたのか、と不思議な気分になった。

でも、自分の好きな歩き方、興味の赴くままに歩いていけなくなったら、終わりではないかという気がしてくる。

戦時中はきっと、自由に歩くことも許されなかったのだ。
極めて弱い光しか発しないこの言葉は、しんとした深い闇の中で、静かに死んでいった。

しばらくして、この言葉をずっと心の中で拾い集めてくれた人がいて、そのおかげで、僕は今歩くことができているのかもしれない。

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