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跳ねる犬たちの月夜

8月中旬、月が出るみたいなので天体観測会をします、というお知らせが流れてきた。集合場所の北池袋のくすのき荘に行くと、軒先で月や宇宙をテーマにした本に出迎えられた。私も、絵本『zoom ズーム』と萩原朔太郎の文庫本を並べる。ここは、オンラインサロンでご一緒させていただいているお友だちのFさんが軒先読書会と題して開いている図書スペースだ。本の棚の奥にはFさんのお友だちの天体望遠鏡が黒く光っている。

あとから遅れてくる友人を待って、外のベンチで萩原朔太郎を読む。文学に詳しいわけではないけれど、文豪の中では萩原朔太郎が1番かっこいいと思っている。少なくとも、作品世界に魅かれていることだけは確かだ。筑摩書房の文庫本を手に取ったFさんに詩の朗読をお願いしてみたところ、人間の心の奥底にある情景の詩を事もなげに読んだ。Fさんのキャラとはミスマッチの作品であったので、2回目は私がかわりにおどろおどろしく読む。

そんなふうにして月の出を待っていると、散歩の犬が軒先近くまで入ってきて、興味津々で鼻づらを向けてきた。台風の前とあって、夕方頃には風が強くなり、涼しい晩だった。散歩から戻りたくないのか、軒先で座り込んでしまう犬もいる。くすのき荘の目の前は登り坂になっていて、道を通り過ぎていくほとんどは小型犬だ。犬たちと飼い主さんは顔を合わせると挨拶を交わし、そのうち犬たちが戯れ合うので飼い主さんは坂道の前で立ち止まる。犬たちの行動から性格が分かるような気がして全く飽きない。いつの間にか萩原朔太郎本は膝に乗せて、私もベンチから興味津々でその様子を見つめていた。タヌキのように顔の大きな犬だけが、いつまでもコンクリートの地面に踏ん張って帰りたくないと訴えていたものの、飼い主さんに抱っこされて、この社交場を去って行った。

犬と入れ替わりに、Tさんがやってきた。やっぱりオンラインサロンのお友だちで、Tさんも来るかなと思ってお誘いしたところ、カラオケ帰りに寄ってくれたのだった。くすのき公園に月の出の方向を確認しに行くと、すでに月は建物に引っかかるように大きな顔を覗かせていた。満月の1日手前の大きな月をみんなで眺める。7月がスーパームーンだった影響で、8月の月も少し大きめだということらしかった。

私たちが観測会をしているのは、くすのき公園の芝生広場で、ここにもまた、家に帰りたくない茶色の小型犬が地面に踏ん張っていた。小さな身体全体から、自分はまだ絶対に芝生広場にいたいのだという強い意志が溢れている。小型犬はきゃんきゃん吠える印象で、勝手に苦手意識を持っていた。けれども、無口ながら自分を曲げない彼の姿になかなか骨のある犬だと感心して眺めていた。飼い主さんも無理に引き連れて行こうとはせず見守る様子だ。お互い自分の相棒の性格を熟知している。月明かりの中に、一人と一匹の美しい関係性があって、赤の他人には野外劇場のように感じられる。

覗きこんだ天体望遠鏡は、月のクレーターのボコボコした感じも捉えていた。眩しく金色に輝く月と真っ黒な宇宙の端境が特に綺麗だと思った。芝生広場では、涼しい風に吹かれながら一人と一匹がまだ座り込んでいた。全く違う目的で同じ空間にいるひとに対し、普段ならイベントの最中に話しかけたりはしない。けれども、そのとき私は思わず、話しかけてしまった。まだ犬がその場を動けない様子だということ、よかったら望遠鏡を覗いてみませんか、ということ、それらの言葉は思った以上にサラサラ口から流れ出た。池袋の住宅地にぽっかり空いた芝生広場にいたそのひとたちも、同じ空間で月と雲の動き、夕方の涼しい風を感じている気がしたからだった。
犬の飼い主はお兄さんで、礼儀正しく嬉しそうに黒い望遠鏡を覗き込んでくれた。Fさんも、いつも間にか増えていたFさんのお友だちも朗らかに見守っている。お兄さんの相棒は、まだ芝生の上を動かない。夏特有の藍色の空に月はもう上り始めたというのに、彼は長い間いったい何を待っているのか。もしかしたら月を見ていたい犬なのかもしれない、などと浪漫的なことを考え始めた矢先、芝生広場に来訪者が現れた。首輪のライトの光が小さく揺れ、夕闇の中を確実にこちらに向かって進んでくる。

これこそがお兄さんの相棒である茶色の小型犬の待っていたものだった。一目散に挨拶を交わした茶色の小型犬は、まだ6ヶ月と小さいながらも、強い眼差しで大きな犬の前に進み出て、飛び上がったり跳ねたり吠えてみたりした。きっと、会った時に話したいことがたくさんあったのだろう。それは、喜びが隠せなくて身体の動きに出てしまう幼い子どもたちの姿によく似ていた。犬たちの飼い主さんもそれが分かってか、すごく嬉しそうだ。そこからはもう、何匹集まったのか分からない。続々と多様な犬たちが姿を現す、芝生広場はまさに彼らの社交場と化していった。

月と交互にその姿を眺めていた私は、気がついてしまった。コロナ禍でなかなか会えなくなってしまったランニング仲間と会えた時の自分たちも別段変わらない。犬たちのように身体表現はしなくても、気持ちは飛んだり跳ねたりしていて、多分こんなふうだ。今は、個人個人で活動する時だけれど、またみんなに会えたらどんな話をしようか、思いを巡らせながら、ずっと犬たちを見ていた。Tさんは隣で、自分もペットを飼いたいと話している。私は、あのお兄さんと茶色い犬みたいになれたらいいなと思った。