昔話や子守唄の機能

8月某日、筆者の学生時代の恩師で、教育人類学者の鵜野祐介先生から、昔話や子守唄の担ってきた機能についてお話をうかがいました。インタビューはZoomにて実施しました。


■日本とスコットランドの子守唄
──今日は、先生の研究のおはなしを素話(ストーリーテリング)のように語っていただけたらなと思います。よろしくお願いいたします。
はじめに、研究テーマを子守唄にされたきっかけからお話していただきたいのですが。

わかりました。どのへんから話したらいいですか?

──授業の中で先生は、スコットランドで子守唄を採録されていたとうかがいました。日本の子守唄との共通点もそこで見出されたとのこと。やはりヨナ抜きの音階というか、音の感じから入られたのですか?

そうですね。歌詞はゲール語だからよくわからないのに、メロディーが懐かしい感じで日本の唄に似ているので「なぜ似ているんだろう」と思いました。歌詞を調べてみたら、テーマが全く同じというわけではないけれども、共通するものがありました。

──その共通点のところから、過去の人々が目の前の大事な誰かのために唄った唄として興味を持たれたのでしょうか?

時代や社会によって、唄は変わっていくものだと思います。その一方で、変わらないもの、共通するものもある。そういうものの具体例に出会えたということですね。先ほどの子守唄の話を具体的にお話しすると、スコットランドのバラ(Barra)という島で、あるご高齢の女性から最初に聴いた子守唄「カトーハチャーミー」があります。「歌詞は何ですか?」と聞いても何も言ってくれなくて「とにかく私のあとについて覚えなさい」ということで、ワンフレーズずつ彼女の後をフォローして唄うことを繰り返しました。2番まで唄えるようになったところで「よく唄えたね」という感じで、そのときは意味も全然分からなかったのですが、大学に戻ってから資料集で調べました。ゲール語の辞書で歌詞の意味を調べたところ、子守唄として伝承されているけれども、内容的には子守唄とは全く結び付かないようなラブソングであり、恋人を失った女性の嘆きの弔い唄だったのですね。

それは、ある意味でそれまでに考えていた子守唄観を覆すような内容でした。「なぜ、これが子守唄として何百年も歌い継がれているのか」という思いと同時に「なぜ、日本の竹田の子守唄のメロディーと似ているのか」とも思いました。竹田の子守唄も、子どもを寝かしつけるための歌詞とは思えない内容で、自分自身に言い聞かせる唄であると同時に、離れて暮らす親に呼びかける唄でもあります。その点で「カトーハチャーミー」が自分にとってかけがえのない存在の魂に呼びかける唄であり、自分自身への慰めでもあるという意味で、共通するテーマが子守唄として唄われている。子守唄の伝統というのはそういうものじゃないのかなと思い、子守唄の研究をはじめたのかなというのがありますね。

──授業を思い出しながらも、今回は授業のときとはまた違った感想を持ちました。どうにもできないどろどろした思いを何度も何度も唄うことで、何とか自分自身を保ち、会えるわけではないかけがえのない存在に呼びかけることで心を守る、それを持たずには生きられなかったのだというふうに思いました。

今言ってくれたような意味で、その時は全然思っていなかったけれど、東日本大震災の後、昔話や民話を語り継ぐということも同じような「機能」(function)があるのではないかと考えるようになりました。つまり、自分の力ではどうにもならないような理不尽や不条理な出来事は人生の中で次々と起こってくる。それに対して何とか正気を保って生きていこうという、流行の言葉で言えばレジリエンスを持つために語るという行為があるのではと思いました。

■昔話の聴き手論と語り手論
少し話は変わるのですが、日本昔話学会シンポジウムでこんな話題がパネリストの先生からありました。聴き手側からの物語の発生について考えようとすると、まっさきに出てくる昔話は、例えば「3枚のお札」「食わずにょうぼう」という恐ろしい相手から逃げる話のほうが一番大事な話として刻まれたのではないか。これまでは、柳田國男も言うように、語り手側から考えた昔話の発生ということで、英雄の生涯や成功する話がはじめにありました。しかし、子どもの立場から考えると、「恐ろしい敵から何とか逃れることができました」というような「逃走譚」のほうがスリリングかつ「あー、よかった」と安心できるので、一番記憶にとどめられるのではないか。それを聞いた時に、語り手の立場から考えても、同じようなことが言えるのではないかと思いました。

これは、50年以上昔話の採訪活動をされている小野和子さんという方が、宮城県のあるご高齢の女性から昔話「猿婿入り」を聴いた時の話です。「猿婿入り」では、親の一存で猿の元に嫁いだ末娘が自分の才知で猿を退治し親元に帰ってきます。「お猿さんかわいそう」と小野さんが言うと、語り手のおばあさんは「この話しか語れない、この話を語るとすっとする」と答えられたそうです。おばあさんの気持ちに合点がいかなかった小野さんが、よく聞いてみたところ、この昔話はおばあさんの人生の話と重なっていました。
15,6歳で嫁ぎ、婚家では人間扱いされず、戦争で子どもを亡くし、高齢になってからは親戚に引き取られ辛い人生を歩んできたという語り手だったのです。「猿婿入り」の主人公である末娘は、おばあさん自身が叶えられなかった「こんなことができたらよかったのに」ということ、つまり「自分の家に帰り親と一緒に幸せに暮らすこと」を自分の代わりに実現しています。末娘は、おばあさんにとっていわばヒロインでした。だからこそ、この昔話しか語れないくらい強くお話を頭に焼き付けて「これしか語れない」と語ったのです。自分の人生の不条理を、克服するというよりも、引き受けるツール、生きる拠り所として、正気を保つための最後の砦みたいなものであったのではと考えることができます。
そう考えると、「子守唄」の中にも、人生のいろんな不条理や理不尽を引き受けるような唄があります。引き受けるだけではなく、告発するような。それを歌ったり語ったりすることによって何とか正気を保っている。つまり唄い手や語り手というパフォーマーの立場から考えても、唄や語りの中心にあるものなのではないか。そういうことを小野さんは『あいたくてききたくて旅にでる』(2020)の中で書かれています。

──小野和子さんも、研究者でいらっしゃいますか?

小野さんは「採訪者」として50年以上、昔話をきくという活動をされていて、現在、みやぎ民話の会の顧問をされています。

──「猿婿入り」を語るとき「すっとする」という言葉を使った語り手のおばあさんのように、自分の思いを言葉にできるような環境ではない中、昔話を語ることを通してやっと吐露できる、そんな状況が少し前まで本当にあったということに思いを馳せました。どんな思いも、いろんなレベルの言葉で流すことができ、告発も社会運動もできる私たちは、そうしたことを忘れてはいけないのだと思いました。先生や小野さんが、語り手から昔話を聴くという活動は、語り手の内面や思いの部分、人生を記録するということにもつながりますね。

■子守唄の唄い手論
子守唄の話で言うと1992年頃、徳島のご高齢の女性が唄った「守子唄」があります。赤ちゃんが泣くということで、姑から家の外に出るように言われた彼女は、家の横にある川の土手の上で唄ったそうです。子どもを泣き止ませるために唄った子守唄は、自分はまるで子守娘のような扱いを受けている(=人並みな扱いを受けていない)ということを訴える内容の唄だったそうです。唄い手の女性は、万一「変な唄を唄っている」と姑に糾弾された場合に「自分が小さい頃に聴いた数少ない子守唄なのだから」と答えようと思っていたといいます。実際糾弾はされなかったそうですが、戦略ですね。
なぜ子守唄のなかで「守子唄」が日本にこれだけ残っているのかというと、研究者はこれまで、それだけ守子制度がひどいものであり、江戸時代の終わりから明治時代にかけて全国的に広まっていったからだと説明しています。それは間違いではないものの、守子唄の担い手が子守の少女たちだけではなかったことが関連しているのではないかと思われます。嫁の姑に対する糾弾、或いは、嫁である若い女性が嫁ぎ先で何とか正気を保つための拠り所として使ったのが守子唄なのではないかと思います。親としての喜びや子どもを可愛がる気持ちを表現する部分、自分は子守娘のような境遇に追いやられているという怒りや辛さをリリースする部分、両方のタイプの唄を持ち合わせてケースバイケースで唄い分けていたのではないでしょうか。そう考えると、子守唄の中に残酷な唄やネガティブなものがたくさんあることの理由が説明できると思います。

■『遠野物語』の女性たち
もう一つだけ言うと柳田國男『遠野物語』には、失踪する女性の話がたくさんあります。そして、失踪した女性が山中で猟師と再会する話もあります。なぜこんなに失踪する女性の話があるのか、その理由について、柳田は触れてはいませんが、いろんな解釈があります。その中に、こうした女性は、嫁ぎ先にいられなくなり出ていった、或いは精神に異常をきたして追い出された女性だったのではないかという解釈があります。
このことを考えあわせると、「猿婿入り」を語った女性や、姑に向けて守子唄を唄った女性といった極めて困難な状況にある女性が、正気を保ち、死の世界に足を踏み入れないための最後の砦として「唄」や「昔話」は機能していたのではないか。

さらには、高齢の女性が幼い孫娘に対し、それを唄ったり語ったりしてきかせていたのではないかという仮説を立てることができます。このことは、伊丹政太郎、阿部ヤエ『遠野のわらべうた』(1992年)に詳しく書かれています。わらべ唄の隠れた意味については、10歳ごろになるまでに幼い子に唄い、思春期になったらその意味を伝えていたようです。また、上臈さんとお坊さんの不倫話や権力者を揶揄する寓意性のある比喩に富んだ唄も教わったといいます。
同じようなことが昔話についてもあります。年長の女性から年少の女性に対し昔話が語られる「娘宿」というような世代の異なる女性が集まる場がありました。そこでは、山姥が出てくる話、残酷な話、理不尽な話が好んで語られていたようです。

そんなふうに考えると、現在の私たちが幼い子どもたちに対してほっこりさせるような話は、数ある昔話のうちのごく一部、氷山の一角であって、水面下にある深い部分にこそ、うたや語りの本当に大切な機能がある。つまり、理不尽な現実を受け入れたり、何とか凌ぐための拠り所としたりして、うたは唄われ昔話は語られてきた。このことを何とか知ってもらいたいなと思います。コロナのことも震災のこともそうですが、理不尽なことや不条理なことは過去のものではなく、今もあるいは将来も私たちの身近なものとしてある。だから、そういうときに、私たちがどのように正気を保つかという点でも、昔話やわらべ唄は参考になるということを知らせたいと思い活動しています。

──最後は、講義のように聴き入ってしまいインタビューではなくなってしまったような気がします。国内外で世代を超えて昔話やわらべ唄が残ってきたのは、それを担ってきた語り手、唄い手の意志の力だと感じました。
鵜野先生、ありがとうございました。


〈略歴〉
鵜野祐介
1961年岡山県生まれ。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。2004年英国エディンバラ大学にて「スコットランドと日本の伝承子守唄の比較研究」で博士号(Ph.D、人文学)取得。専門は伝承児童文学の教育人類学的研究。日本、韓国・中国、英国スコットランドを主なフィールドとして、子ども期の伝承文化(遊び・子守唄・わらべうた・民間説話など)や児童文学・児童文化が子どもの人格形成に及ぼす影響について研究。鳥取女子短期大学、梅花女子大学を経て、立命館大学文学部教授(教育人間学専攻)。アジア民間説話学会日本支部代表。また「うたとかたりのネットワーク」を主宰し、うたやかたりの実践・普及活動のネットワーク作りを進める。


鵜野祐介『センス・オブ・ワンダーといのちのレッスン 子どもの文化ライブラリーよりよく生きる』に掲載された略歴を記載しました。


<参考文献>
・鵜野祐介「五十嵐七重の語りを聴く―小野和子の民話採訪と「未来に向けた人類学」―」、うたとかたりの研究会『論叢うたとかたり第3号』所収、2021年。
・鵜野祐介「不条理と向き合う地蔵説話の伝承―「笠地蔵」「みちびき地蔵」「地蔵の予告」―」、うたとかたりの研究会『論叢うたとかたり第2号』所収、2020年。