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心を動かす演技テクニック

芸大時代に受けた印象的な授業の一つに、演出家の篠崎光正先生の「演劇論」があります。
篠崎先生は、ロングランを達成したミュージカル作品『アニー』の初代演出家として知られる、大ベテランです。

そんな篠崎先生が、演劇作品に隠された心を動かすテクニックを教えてくださりました。

それは、本音を言わないこと。


たとえば、こんな場面があるとします。

Aちゃんのことが好きなB君。しかしAちゃんはB君の好意に気づきません。
そんな彼女の前でB君は、好きだということを表には出さず、なんてことない会話をしています。
すると、観客はこう思うわけです。

 「もっとアプローチすればいいのに」
 「Aちゃん気づけよ・・・」と。

つまり、役の感情が直接表に出なければ出ないほど、
みている観客の感情は動くのです。


しかし、このテクニックには役者の演技力が求められ、「分かりにくい」という難点があります。
セリフの内容ではなく、表情やちょっとした仕草や間合いなどで、「言外の意味」としての「本音」を観客に感じさせる必要があるからです。

この難点を解消したのが、ミュージカルだと篠崎先生は言います。
ミュージカルでは、歌やダンスで本音を表現しうるからです。

ミュージカルの舞台において歌やダンスの部分は、物語内の時空間からいったん遊離し、かつキャラクターの本音感情を強烈に凝縮した特殊な時空間として挿入されます。

これによって、「観客にはB君の本音がわかるが、他の役には本音がわからないことになっている」という状況を、――時にリズミカルなビートや甘いメロディで観客の本能的な心地よさに直接訴えながら――表現することができるわけです。

物語内の時空間に変化をもたらす歌やダンスを例外として、
舞台では登場人物の本音をとにかく隠す。
それが、篠崎流演劇論でした。

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時を経て昨年、私は立命館大学映像人類学先端研究会主催の、濱口竜介監督による短期ワークショップ(講義と映像等素材の講評)に参加しました。
その頃は濱口監督が『ドライブ・マイ・カー』でアカデミー賞国際長編映画賞などを受賞される前でしたので、今思えばとてもラッキーなタイミングでした。

さて、ワークショップで驚いたことの一つは、
濱口監督が撮影の前に役者にとにかく台本を何度も音読させるとおっしゃっていたことです。
それも、棒読みのように、まるで無感情のように、20回も30回も読ませる、と。

濱口監督は講義で、最も影響を受けた映画監督の一人にフランスのロベール・ブレッソンを挙げながら、作為的な「演技」ではなく、身体と環境のなめらかなフィードバックを役者から引き出すことを強調していました。

だとすると、彼が役者に台本のことばと徹底的に向き合わせるのは、一つ一つのことばを大切にしているからだけではないように思えます。

ことばがそのことばとして完全に役者の身体に入ったときに初めて、
あらかじめ用意された「演技」ではない何かが現れるから、なのでしょう。


こうした理念の結果か、濱口作品では登場人物はほとんど「感情表現」をせず、淡々としたトーンで物語が進むことがしばしばあります。

しかしそれは決して「無感情」の世界ではありません。
そのような淡々とした映像を観ている観客の心はむしろ、色とりどりに波打つ感情の渦に巻き込まれることも、少なくないのです。

一切の作為的な感情表現を排す。
それが、濱口流の映画論でした。


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演じる、というと、人は「感情の演技」をしたがります。
驚くシーンでは「ええ~!?」と目を見開き、悲しいシーンでは泣きじゃくる振りをします。

しかし、私が二人の演技のプロフェッショナルから学んだのは、
演技とは感情の表出ではない、ということです。

演技とは役者ではなく観客の心に感情を入れていくことであり、
むしろ本音の感情は隠せば隠すほど、排せば排すほど、
なぜか観客の心は強く揺り動かされるのです。

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