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推し休みがはじまった

やめることにした
正しくいえば、一旦休むことにした
いくつかの学会、同好会、ファンクラブを。
今、活動しているもの(または活動の余地のあるもの)を残して。
冷めたり嫌いになったわけではないから、これからまたそれに戻るかもしれないし、戻らないかもしれない。
ただ、見える世界が変わってしまった、それだけのこと。

「好き」や「個人活動」の場は、自分のペースで続けてていた。対価として、会費やわずかなグッズ費用を支払い、たまに発表の場でささやかなデータ提供をすればいいだろう、と思っていた

でも、コロナによる制限が次々解除された辺りから、感覚が切り替わってきた。
止まっていた時間を埋めるかのように、世界は目まぐるしく活動を始めた。逆行するように私は身体を壊し、経済的にも余裕がなくなり、次第に動けなくなっていった。
数値や実績、利益に繋がらないものは存在してはいけない、まるで世界からそう言われて、締め出されたように感じた。皆が皆、そのような考えをしてる訳ではないことは分かってる、でも、身の置き場が失くなっていったのは確かだった。

そのような折、応援していた推しグループのメンバーたちが、次々と海外ブランドのアンバサダーやパーティーに顔を出すようになっていた。
最も応援している推しが、海外ハイブランドのパーティーに招かれて海外のセレブ達と戯れる様子の動画や画像がSNSに流れてきた。
その瞬間、カチッ、と音を立てて何かが切り替わった。

アイドルは偶像であることを知っていた。同時に、自分が大変な時、歯を食い縛って乗り越えたい時、動画やテレビの向こうで振り絞って歌い踊り、演じる様子に心を支えられた。別世界の存在である偶像に、地を這うように日々を乗り越える自己を投影し応援する、微妙な気持ちの揺らぎに身を任せる推し活の楽しみと醍醐味を知った。
舞台裏を見た瞬間、そのバランスが崩れた。
偶像はあくまでも偶像、パトロンや太客がいて成り立っている、それに気づいてしまった。

憧れの世界のパーティーに招待された推しを応援するメッセージが、SNSで溢れている。
でも、私は素直に喜べなかった。
彼の大好きなハイブランドで身を固める姿より、ジャージとスニーカーでメンバーと一緒に汗だくになってレッスンする姿の方が、崇高で美しく見えた。
身勝手に理想像を押し付け、身勝手に夢からさめる自分は、模範的なファンになれなかった。

今日も相変わらず、バスの窓から見える街路樹の葉は雨の中でも繊細で力強く繁り、森林公園の草花は輝き、YouTubeの中で繰り広げられる推したちのパフォーマンスは生命に満ちている。
一週間は容赦なく始まる。
それでも世界は美しくて、私は途方にくれた。









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