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不惑のプリエ

バレエを習うことになった。
「バーレッスンを教えてくれる先生がいるから、行ってみない」
同じ職場の方に誘われ、気がつくと見学に行くことにした。彼女は子どもと一緒にバレエを習っているという。普段から姿勢が綺麗で、すらりとした腕の動きも端正だ。

バレエには興味があった。
小学生の時、借りた本の中に「白鳥の湖」や「くるみ割り人形」があり、舞台でどう演じられるのか気になってバレエ入門の本を借りた。多くの演目があることに興味を持つと同時に、森下洋子さんというプリマドンナの半生の漫画を読み、表現者の厳しさと美しさ、脈々と続く伝統を体現する歴史の重さを幼心ながらに感じた。
でも、人見知りが激しく内向的な私にとって、バレエを習うなど、異世界の出来事のようだった。
大学で舞台を経験した時に、バレエ経験者の方から簡単なポーズを教えてもらい、難しさに驚いて、更に「足をつると足の甲が高くなって美しくなるんですよ」という言葉に叫び声をあげた。

そのような私が、それも四十を過ぎて初めて体験して良いものか。教室の扉をくぐる時は緊張した。ドアの向こうは、学校の教室ほどの鏡張りのスタジオだった。バーを片付けている子どもたちが何人かいた。お団子にまとめあげた髪が、バレリーナの姿そのものだった。
お人形のような可愛らしい先生が、明るい声で こんにちは と声をかけてくれた。大人のレッスンはこれからだ、という。
まずは、真似をしてください、と先生にいわれた。
バーにつかまってストレッチをしたあと、手や脚のポジション(位置)やポーズを教えてもらった。
まずは、プリエ(膝を曲げて沈みこむポーズ)から。
プリエ、戻る、またプリエ、戻る、今度は深いプリエからのお辞儀、戻る…鏡には、不恰好なブリキの玩具のような自分の姿が鏡に映った。
様々な部位の重心が下がった中年女性の姿を消したくなった。
「前屈みにならないで、脚の内側にしっかり力を入れてくださいね」
「あごはあげて、笑顔で」
先生は、にこにこしながら教えてくれた。
美しく見せるため、立っている時も、深く沈み込む時も、股の内側にしっかり力を入れて、腕も身体の軸も巻き込んで細く見えるように…ただ立っているだけでも、苦しくなってくる。これを、舞台の演者たちは当たり前に、それもマリオネットのように跳んだり回ったり軽快にステップを踏んだりしながら、笑顔を振り撒いているのか。

たった一時間半のレッスンでぐったりしながら、もう無様で惨めな自分の姿をさらしたくない、という気持ち以上に、もっと上手くなりたい、そして、バレエの世界や舞台に立つ人たちの世界をもっと知りたい、と思うようになった。
はなかなかレッスンに通えないため、自宅でプリエの復習をしたり、バレリーナの配信しているYouTube動画などを観て、基礎レッスンや用語を学んだ。
偶然、あるプロバレエダンサーの解説動画がきっかけになり、娘が推しているアイドルグループに、いわゆる“沼落ち”するきっかけにもなった。
2、3回のレッスンは、私の世界を確実に広げていた。

10代の娘たちのはつらつとした美しさ、20代の女性たちの持つ未来と自由さ、30代の女たちの成熟し自信に満ちた希望や母性、では、40代は?
劣等感を覚え、隠れていた自分。意図せぬ妊娠、出産も離婚も経験した。古傷は忘れたと思っていたが、女としての自信はズタズタにされた。値踏みされ、耐えてきたと思えば時代が変わっている虚しさ。それを知っているからこそ、味わえるプリエとバレエがあるのかもしれない。

しばらく休んでいるが、子どもの受験が終わったら、もう一花咲かせにいこう。

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