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山形マット死事件と山口、伊藤事件における、刑事と民事の判決の違いはなぜ起こる?

93年1月13日に発生した山形マット死事件。被害者の児玉有平君、当時13歳が体育館の用具室の中で円筒形に巻いて立てられたマットの中心部に逆さに突っ込まれた状態で発見されたこの事件は、五日後、7人の少年が逮捕・補導され、刑事事件に於いて7人全員の有罪が確定していた。
その後、95年12月16日に有平君の両親がこの加害少年7人と新庄市に対して、慰謝料など1億9300万円の損害賠償を求める民事訴訟を起こした。
しかし、2002年3月19日山形地裁は原告側の訴えを退け、有平君への日常的なイジメは遭った事は認定するものの、イジメと事件の関係を否定するという驚くべきものだった。

明倫中の生徒の中には、ロール状に巻かれて立てかけられていたロングマットに頭から入るという遊びをしたことのある者もいるのであり、このことからしても、ロングマットに逆立ち状態で入っていたということのみで、有平が自分の意思に基づかず他人の力によってロングマットに入れられたと即断することはできない。遺体発見時のマット室の状況は、何者かが有平に対して暴行を加えたとするには整然としすぎているし、指紋その他有意な物的証拠もない。供述証拠のみでは、被告元生徒らと本件事件の結びつきはおろか、本件事件のいわゆる事件性すら認定することができない。
「裁判官が日本を滅ぼす」門田隆将著

刑事事件で加害少年全員の事件への関与が確定しているにも関わらず、民事では事件性はなかったと認定されてしまったのである。
この事件では加害少年達の自白に頼った捜査であり、公判開始後には、被告少年側は「自白は強制されたもの」と供述を翻している。それに対し、警察・検察側は自白のみで物証に乏しかったため、被告少年達が事件当時、現場にいたという確実な証拠が提示出来なかった事も要因としてあるにしても、被告少年達には人権派弁護士が付き、被害少年よりも加害少年達の人権が重視され、被害者の人権が踏みにじられる結果となってしまった。
有平君の両親は仙台高裁に控訴し、2004年5月28日、仙台高裁は一審判決を取り消し、被告少年7人に5760万円の支払いを命じた。少年らは上告するも2005年9月6日に最高裁は上告を棄却。被告少年7人全員が事件に関与したと判断したため、5760万円の支払いを命じ、不法行為認定が確定した。

高裁でひっくり返したといっても、被害者遺族にとっては地裁での判決は許しがたいものだったと思われる。
仙台地裁の手島徹裁判長は有平君が自分でマットに潜り込み、そして死んだのだと認定したのだ。普通の常識で考えてそんな事を一人でやる少年がいるだろうか?電灯も付いていない用具室に一人で入り、扉を閉めてマットに頭から潜り込む。そんな事があり得るのか?
元気に登校した筈の息子が変わり果てた姿で戻ってくるなんて、両親の気持ちを慮ると胸が締め付けられる。
なのに、この両親は司法に寄って裏切られ、翻弄された。

なぜ、こうした刑事と民事で逆転する判決が出されるのであろうか。
直近の事件では、伊藤詩織さんと山口敬之さんの事件が思い起こされる。あの事件では刑事事件では準強姦罪で不起訴、検察審査会でも不起訴相当と認定されたものの、民事訴訟では不同意な性行為があったとして山口さん側に不法行為が認定され、伊藤さんには薬物を使った等の記述は名誉毀損であると認定された。
注目すべきは、犯罪性は無かったと刑事事件では認められているのに対して、民事では不同意な性行為があったという不法行為を認定したという事である。
刑事と同じ、もしくは同等の証拠でもって判断されたのに、なぜこうも違う判決が出るのであろうか。

裁判官の裁量判断とは一体、どういうものなのか?伊藤、山口事件では密室内で2人にしかわからない事実を裁判官の裁量で不同意な性行為があったと認定している。何ら客観的事実に基づいたものではなく推認されるという事でだ。
山形の事件では逆で、刑事事件では犯罪性が認定されたものが、客観的事実に乏しいという事で民事で加害少年達の責任はないと認定している。
裁判所という閉鎖空間においては、その裁判官の裁量で無罪、有罪が判断されてしまう。これはとても危険な事ではないだろうか。
どんなに社会的常識に照らして、私達一般市民がそれはおかしいと声を上げても裁判官の裁量如何で、どうとでも判断されてしまうのだ。
可視化して、全ての問題が解決される訳ではないが、ある一部のイデオロギーに支配された裁判官の暴走は止める事は出来るのではないか?
ある意味、大衆の目がそうした暴走や誤りを是正する事が可能なのかもしれない。

記事作成 eve

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