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ツバメのおじさんと僕のこと

その駅はビーチまで直線で300メートルのところにある。駅の2階からはビーチへと続く椰子の並木道と水平線も眺めることができる。

心地よい海風が通り抜けるその駅構内に、いくつかのツバメの巣がある。去年まで使っていた巣を一生懸命直しているなと見守っていたら、風が少し暖かくなった頃にいつの間にか雛が孵っていた。僕は親戚のおじさんの気分で、毎日のようにその雛に会いに行っている。

「こんにちは」と不意に声をかけられた。聞き覚えがある声だけど誰かはわからなかった。そんな僕の心の様子を知ってかしらずか「声で誰だかわかるかな?」と少しいたずらっぽい、でも優しい声で問いかけてくる。ああ、この優しさのこもった声には確かに触れたことがあるけれど、誰だかわからない。こういう時、どうやって「誰ですか?」と聞くのが相手にとっても自分にとっても心地よいのか、まだつかみきれずにいる。

「ええと、誰ですか?」と僕は笑顔で尋ねる。この優しい声とのやりとりはいつも笑顔だった感じがしたからだ。すると「Aです」と彼は名乗ってくれた。頭の中で僕が知っている「A」という知り合いを検索しても該当する「Aさん」にはヒットしない。

彼はそんな僕の様子を知ってか知らずか話を続ける。「もう東京に行くことがなくなっちゃいそうなんだよね。俺、もう65歳だし本当は定年なんだけどさ、これからは市内の路線バスの運転だけすることになりそうだよ」

僕の頭の中で「Aさん」がヒットする。僕が通勤で乗っている高速バスの運転手のAさんだ。バスの運転手はきっと15人くらいいて、その中で5人くらいは僕の顔と名前を覚えてくれているし、僕も彼らの声と名前を覚えている。Aさんはいつからか「いってらっしゃい」とか「おつかれさま」と声をかけてくれるようになって、僕もそんなAさんの名前と声を覚えた。、

いつもはバスの中で聞く声を、いつもと違う場所で不意に聞くとここまでわからないものかと思いつつ、僕はAさんと言葉を交わす。寂しいですと正直な気持ちを伝える。

「6月いっぱいは東京行きのバスを運転するからさ」とAさんは言い、僕はそれまでに彼が運転するバスにもう一度乗れることを願った。もう2ヶ月近く出勤をしていないし、この先1ヶ月も出勤できるかどうかわからない。できたとしても彼が運転するバスに乗れる確率がどれくらいあるのか。

でも僕は願った。願えば叶うことを知っているから。

「じゃあまた」と彼は座っていたベンチから立ち上がり歩き始めた。カランからんと山歩きの時につける、熊よけのような大きな鈴が歩くたびに鳴っていた。Aさんの趣味はハイキングなのかも知れないなと思った。今度バスの中で会った時に聞いてみよう。

そういえば彼の運転するバスには、大きなツバメが描かれている。

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