めまぐるしいめまい

 曾祖父が残してくれたこの家は古くて、廊下は歩く度にぎしぎしと鳴る。廊下に組んだ板からは地面が見えて、それでも少しも怖いと思わない程度にはわたしはここに住んで長い。海が近いこの土地では、家が朽ちるのも早いのだろう。けどここまで来るとさすがになんとかしなければだめなのかもしれない。せめて白蟻駆除は頼んでみようか。

 帰宅したのはちょうど夕暮れの頃だった。海の向こうに日が沈むのが見える。その角度で季節は分かる。もうすぐ春だ。そういえば沈丁花の香りをかいだ気がする。

 カーテンを閉めた。同時にぐうう、とおなかがなった。冷蔵庫を開いてみる。牛乳と、きゅうり。絶望した。河童にでもなれというのか。

 結局わたしは仕事から帰ってきた格好のまま近くのスーパーへ向かった。この町唯一のスーパーでは、知り合いに必ず会う。仕事よりもなによりも、実はそれが一番疲れる。けど背に腹は代えられない。なぜなら背と腹がくっつくほどおなかが空いているから。

「あらあ、ヒナちゃん今日はもう帰り? お疲れさま」

 パートのおばちゃんがなれなれしく寄ってくる。

「今日はきゅうりが安いわよ」

 そう言われるともう、買わなくてはならないのだ。もううちの冷蔵庫ぎゅうぎゅうにきゅうりが入っていたとしても。わたしは愛想笑いをして、きゅうりをかごに入れた。

 仕事でもないのにどうして愛想笑いなんてしなければならないのか。空しい。あじの南蛮漬けが食べたい。ああ、胃があじの南蛮漬けを求めている。あじの南蛮漬けはきっとわたしの心の穴を埋めてくれる。

 ああ、あじの南蛮漬け。

 総菜棚に一パックだけ、あった。

「あ」

 手を伸ばそうとした瞬間、それは先に他人の手に渡ってしまっていた。わたしも手を伸ばしかけていたので、気まずい。

 つん、とした臭いがした。アンモニアとか硫黄のような臭い。後ずさりする。あ、このひとしばらくお風呂に入ってないんだ。のっぽで、随分と上からわたしのことを見下ろしている。のばしっぱなしのひげに、ちょっとだけ白いものが混じっている。

「どうぞ」

 彼はわたしにあじの南蛮漬けを渡そうとした。え、あ、う、とかよくわからない声を出してなかなか受け取ろうとしないわたしのかごに、それをいれようとする。

 つい、そんなことをする彼のかごの中身を覗いてしまった。三割引き、半額などのシールが貼られたお総菜ばかり。

「いいです。どうぞ」

 このひとはわたしみたいに、すすめられたから、という理由だけできゅうりを買うひとじゃないんだ。

「おやさしいんですね」

 恥ずかしい。

「やさしいなんて」

 初めて彼と目が合った。笑っていた。卑屈そうでも何でもなくひたすら穏やかに。

 光彩が淡い。白目が子どもみたいに白い。

 きゅう、とおなかがひきつれたみたいに痛くなった。このひとは、きっと清い。

 このひとを、洗ってあげたい。このひとを、おなかいっぱいにしてあげたい。

 わたしは彼のかごごとひったくって、

「ここで待ってて」

 と伝えた。行かないで、とは言わなかった。行ってしまったら行ってしまったで、わたしは別に後悔しない。だってこれはただの気まぐれだ。

 二つのかごをレジに通した。エコバッグに買ったものを詰める。そのとき彼はやってきて、

「ボク、手伝いましょうか」

 とぼそっと行った。彼はわたしを待っていたのだ。戻れないなあ、とぼんやり思った。

「もう、できたよ」

 彼はどうしたらいいか分からない、というように眉を下げている。

「うち、来ない?」

「けどボク、あやしいですよ?」

 わたしはぶはっと息を吐いて笑った。

「わたしも大分おかしいから大丈夫」

 彼はわたしの腕をつかんだ。

「ついていきます」

 清い目だ。彼は美しい。

 

 

 家に帰ってまず、風呂を沸かした。彼の服をひんむいて体を洗ってあげる。ちゃんとした人間になれ、ちゃんとした人間になれ。そう思いながら脂で固まってかちかちになった彼の髪を洗ってやった。

 米を炊いてあたたかいカレーを食べさせた。半分ほど食べたときに彼は泣き出した。

「幸せです」

「幸せ?」

 わたしにはよくわからなかった。この前幸せを感じたのはいつだったかな。わたしはその時確かに幸せを感じていたはずなのに覚えていない。

「幸せです」

 彼は何度もくりかえしその言葉を口にし、何時間も泣いた。

 あじの南蛮漬けはパックに二つ入っていたから、一つずつ分け合って食べた。

 

 

「ボク、ここに住みたいです」

 二人並んで皿を洗っていたら、彼はぼそっとそう言った。

「なるほど。あんたやっぱりあやしいんだね」

 きゅっ、とわたしは皿を拭いた。彼が皿を洗い、わたしが使い終わった皿を拭く。

「けど、あなたもおかしいんでしょう」

 のっぽの彼がわたしを見下ろす。白目が光っているように見えた。

「おかしいからイエスと言ってくれると思ったんです」

 彼は蛇口をひねり水を止めた。うちの蛇口は三角形の古いもので、お湯はもう壊れて出ない。そして回すとお皿を拭くときより高い、きゅっ、という音がなる。

「うん。おかしいから、住んでもいいよ」

 かけてあった手拭いで手を拭き、その後彼にそれを渡した。彼は無邪気に笑っていた。

「客間、使って。わたしは自分の部屋があるから」

 そういえば客なんて来ないくせにそこは客間という名前だった。これからどのくらいかは分からないが、彼がこの部屋の主だ。

 

 

 窓口業務は笑っていればそれでいいんだから楽でいいよね、なんて言われるけど他の仕事と同じでちゃんと心は削られていく。わたしは市役所で働いている。短大を出ておいてよかった。非正規雇用としてでも雇ってもらえる。

「ヒナちゃーん、俺と結婚してくれー」

 うるさい。おまえも働いてこい。とも言えず愛想笑い。

 定時に帰れるのだけは他の仕事よりはやっぱり楽なのかもしれない。職場から自転車をこいで二十分。ちょうど足が疲れだした頃につくのが我が家だ。潮臭い町の、今すぐ朽ちそうな我が家。

 からからから。

 玄関を開けると大層な音がする。それだけで彼は犬のように走ってくる。

「お帰りなさい」

 そう笑いかける彼の歯が黄色い。そうだ。明日は土曜日だ。彼の歯ぶらしを買いに行こう。服も、靴も。彼は春だというのにビーチサンダルをずっと履いている。

「今日はさばの煮付けとほうれん草のおひたし、たけのこのきんぴらと玉ねぎのお味噌汁です」

「うん」

「昨日の残りのビーフシチューもありますが食べますか」

「そんなに食べられないよ」

 ふふふ、と笑った。

「じゃあボクが食べますね」

 ふふふ、と彼も笑った。

「おふろもわいてます」

「うん。あとでいいよ」

 家事全般は、すべて彼が担ってくれている。彼は本当にまめだ。おかげで随分と部屋がきれいになった。

 わたしのブラジャーやパンツまで洗濯してくれている。畳んでわたしの部屋の前に置いてあるそれらを見て、ああ慣れているんだな、と思った。

 彼とは境界線がなかった。あれはわたしがやるから、とかそれはボクがやりますから、とか面倒くさいことが一切なかった。同じ家に住んで同じものを使っているはずなのに、ぶつかることがなかった。

「遠慮しているの?」

 と聞いたことがあった。彼は少し考えた後、

「それはないです」

 と答えた。その『少し考えた時間』で、ああ本当にそう思っているのだなと分かった。

「おいしそうだね」

 彼が作る料理は見た目がもう、おいしい。

 自室で着替えてきたわたしに彼はほかほかのごはんを渡してくれた。テーブルについて手を合わす。

「いただきます」

 少し前までこんな挨拶もせずに食べていた。これを言うだけでこんなにも味が違うのに。

「今度鍋しませんか」

「いいね。水炊きで、しめはラーメンとかがおいしそう」

 灯油ストーブがじりじりと鳴る。

「灯油、買ってきた方がいいでしょうか。まだ朝晩は寒いですもんね」

「お願いできる?」

「はい」

 かちゃ、と箸置きに箸を置いた。

「ごちそうさまでした」

「おふろ、入ってきて下さい。あなたなんだか疲れているみたいです。あとはやっておきます」

「うん」

 そんなに疲れて見えたのだろうか。

 しゃこしゃこ体を洗ってどぶりと湯船に浸かる。思ったより熱くて心臓がはねた。

 ああ。やっぱり疲れていたんだ。

 温泉の素のしゅわしゅわ溶けだしているのをじっと見つめてそう思った。疲れると、よくない。

 自分の胸に触ってみた。やわらかい。乳首にも触ってみた。年々くすんで茶色くなっていく乳首。乳首は触ると固くなる。

 下の方の毛に手を伸ばす。びっくりした。濡れていた。

 ざば、と湯船から出る。自室に、早く。

 疲れているのだ。疲れると、よくない。

 彼と廊下ですれ違って、何か言いたそうだったけど無視した。思えばこれが最初に彼を無視した瞬間だった。

 たん、と自室のふすまを閉じてずるずるとへたり込んだ。電気はつけたくない。隠れたい。それなのにふすまの隙間から廊下の電気が漏れて真っ暗の中にはいられなかった。

 体が熱い。服を脱いだ。ベッドに乗った。

 股のあたりを触ってみる。ぬるっとした。

「はあ」

 空しい。

 胸にも触ってみる。乳首がこりっとして気持ちがよかった。

「はあ」

 女は三十代の頃が一番性欲があるらしい。それなら後幾日かで三十を迎えるわたしはもうとても欲が深いのだろう。

 空しい。

「ヒナコさん」

 とんとん、とふすまをノックする音が聞こえた。

「ヒナコさん。大丈夫ですか。具合悪いですか」

「だいじょうぶ。だから入ってこないで」

「ヒナコさん」

 ととと、とゆっくりふすまが開く。大量の光がわたしを照らす。

 見られた。

 半裸でひとり股を開いているところを。興奮してはあはあ言っているところを。乙女ならともかく、二十九の女が自慰行為をしているところを。

 目をつぶった。

「ヒナコさん」

「出てって」

「ヒナコさん」

「いいからもう」

「ボク手伝いましょうか」

 彼が部屋には行ってくる。後ろ手でふすまを閉めた。廊下から漏れている光が少なくなってまた部屋が薄暗くなった。

 彼はわたしの股に触れた。体が素直に鳴く。

 気持ちいい。

 声を上げるわたしの耳を彼はかんだ。それも甘かった。

 涙が出た。

「気持ちよくて泣くんですか」

「きもちいいよお」

 わんわん泣いた。そしてわたしは彼の股に触った。触ってみても、ふにゃふにゃしているだけだった。

「ごめんなさい、ボク、ヒナコさんじゃだめなんです」

 彼は苦しそうに眉を寄せた。

「けどヒナコさんが気持ちよさがってるの、ボクうれしいです」

 一緒に気持ちよくはなれないのか。わたしは急に現実に戻った。そこに、彼とわたしの境界線があるのか。

 彼はわたしが泣きやむまでわたしの半裸体を抱きしめてくれていた。

「もうよくなりましたか」

「うん。よくなった」

「ボク、明日灯油買いに行きます」

「ありがとう」

『ありがとう』という言葉に引っ張られてわたしは笑えた。『ありがとう』と言えてよかった。彼を嫌いにならなくてよかった。

 

 

「きれいですね」

 天気がよい日だったので縁側で二人、花見をしていた。庭に、桜の木があるのだ。古い大木で幹には大きなうろが空いている。

「ボク、こんなに近くでゆっくり桜見るの、初めてです」

「そうなの?」

「はい」

 わたしは彼がいれてくれたお茶をすすった。彼はお茶をいれるのすらうまい。スーパーで安くなっていたみたらし団子のパックは四本入っていたので、二本ずつ分けて食べた。

「こう見ると、全部ピンクじゃないんですね」

「どういう意味?」

「ほら」

 彼は指さした。

「花びらの先は白くて、中の方は赤っぽい。枝も間から見えて茶色。葉っぱも目立たないけどちゃんとある。それぞれ合わせて、ピンク。すごいです。とてつもなく大きいです」

 彼はにこっと笑った。

「そっか。わたしちいさいころ全部ピンク色に塗ってたな。もったいないことしちゃったな」

 さらさら、と風が吹いて桜の花びらが散っていく。散っても、まだまだピンク色だ。

 日の光がちょうどよく縁側に当たって、わたしたちをあたためる。みたらし団子の照りが、光っている。

 不思議だなあ。さっきまでは冬だった。けど今は当たり前のように春だ。

「そろそろ庭の草刈りもしなくちゃ」

「ボク、やります」

「いやいやわたしもやるよ」

「じゃあ今からしますか」

「ううん。今日はゆっくりしようよ」

「はい」

 言い出しつつも、彼も今日はゆっくりしたいんだろうなと思った。それくらいいい日だった。

「なんかおひるねしたい気分」

「しますか」

 彼がとんとん、とわたしの背中を叩いた。そのリズムはわたしの心臓の動く音と一緒でどんどん眠くなっていく。

「ヒナちゃーん。ヒナちゃんいるー?」

 一気に目が覚めた。

「ヒナちゃーん」

「はいはいー」

 わたしはそのまま庭を抜けて玄関に走った。斜め角の家のおばちゃんだった。

「ヒナちゃん。新じゃが取れたののおすそわけ」

「わあ。いつもありがとうございます」

 立派なじゃがいもだった。店に売ってあるもののようではなく土も付いているがそれでも強そうなじゃがいも。

「ねえ、あの人」

 おばちゃんは声をひそめて言う。指さす先には彼がいた。玄関から庭を通して、縁側が見えるのだ。

「あの人と一緒に住んでるって本当?」

 彼はお茶の片づけをしてくれている。こちらに気づくとはにかんだように頭を下げた。

「この前ガソリンスタンドのおっちゃんがね、知らない顔の男が灯油買いに来たから何か危ないことに使うんじゃないかって後付けていったんだって。そしたらヒナちゃんちで。おっちゃんにヒナちゃんのことちゃんと見といてあげてって言われたの」

「あのひと、そんなにわるいひとじゃありませんよ」

 確かにあやしいけれど、わるいひとじゃない。

 声にとげがあったみたいで、おばちゃんは苦笑いした。

「分かった。なにか困ったことがあったらちゃんとみんなに相談するんだよ」

 そう肩を叩かれた。

 台所に戻ると、彼は湯飲みと急須を洗っているところだった。プラゴミのところにみたらし団子のパックがちゃんと分別して捨ててある。

「じゃがいも、もらったの」

「わあ」

 彼の顔をじっと見る。彼はじゃがいもをじっと見ている。

 わたしは彼のことを怖いと思ったことなんて一度もない。彼の顔を見て、改めてそう思った。

「今日は肉じゃがにでもしましょうか」

「うん。甘じょっぱいの食べたい気分」

「分かりました」

 彼はうれしそうにじゃがいもが入った袋を抱きしめた。

 

 

「ヒナコさん。しょう油とチーズがないので買ってきます」

 日曜日。彼はお昼ごはんを食べたあとそう宣言して出かけていった。

 今日もあたたかい。汗でセーターの首もとがちくちくするのがいやになって、わたしはもう長袖のシャツ一枚だ。畳の上にごろんと寝ころんで、買ったはいいけど読んでいなかった本の消化をしはじめた。畳は古く、ふかふか膨らんでいている。そこに日が溜まって、気持ちよかった。

 ゆるやかに、うとうとしていた。どのくらい経つのだろうか、日溜まりは場所を移していてわたしは影の中にいた。少し、寒い。くしゃみをひとつした。柱時計がぽーんと三回鳴る。三時だ。彼はまだ帰ってきていないようだ。

 ああ、せっかくだし散歩にでも行こうかな。ちゃんと日が当たるところはあたたかいし、公園にでも行ってみよう。

 体を動かすと少し汗ばむ。わたしはさっき読んでいた本の内容を思い出していた。公園で彼を見つけるまでは。

 彼は横にエコバッグを置いてベンチに座っていた。彼は真剣に、幼い女の子を見ている。女の子は噴水で髪が濡れて服が透けている。

「へえ」

 わたしの口から出たのはそれだけだった。

 わたしはそのまま帰宅した。そろそろ彼も家に帰ってくるだろう。わたしは早く帰って畳の上で本を読まなければ。わたしはなにも見ていなかったのだ。

「ヒナコさん、ただいま帰りました」

「うん。おかえり」

 彼はゆっくりとエコバッグを台所に置いた。

「ボク、おなかがいたくなってしまいました。しばらくトイレにいていいですか」

「うん。いいよ」

 ああ。彼もひとりでするんだ。

 わたしはトイレのドアにぴたり、と耳を当てた。

「はっはっはっ」

 荒い息づかいが聞こえる。

「ああっ」

 出たんだ。

 水を流す音がして、トイレのドアが開いた。

「手伝った方が、よかった?」

 彼は困ったように眉を寄せた。

「ヒナコさんが手伝ってくれたら、ボクはたちません」

 そう言った彼の前から、わたしは動けなかった多分しばらく動けないだろう。

 彼はわたしの腕をぐいっと引っ張った。彼と近くなる。

「ヒナコさん、疲れた顔をしています。今したいでしょう。手伝います」

 どうしてこうなんだろう。

「わたしは空しい」

「空しいことなどありません」

「あなたは空しくないの?」

「ボクは空しくなどありません」

 彼はわたしのシャツをめくって胸に触れた。それだけでおなかが熱くなる。

「向こうに行きましょう。ここはせまいです」

 たん、とわたしの部屋のふすまを彼は開けた。

 ベッドに座って、服を脱いだ。それだけでもう、わたしは泣いた。

「どうして泣くんですか。まだ気持ちよくないでしょう」

 そう。まだ胸を触られただけなのに。

「大丈夫です。ボクが気持ちよくしますから」

 わたしは気持ちよかった。気持ちよくて、これまでにないほど泣いた。

 空しい。

 

 

「ちょっとヒナちゃん! あの男つかまったらしいわよ!」

 仕事先にわざわざ順番待ちのレシートを取ってまでそれを聞かせに来たのは、例の斜め角の家のおばちゃんだった。その声を聞いて他のおばちゃんたちもわたしの周りを囲む。

「それわたしも聞いたよ。なんか公園で女の子ずっと見てたから駐在さんが変に思って声かけたんだって」

「うんうん。それで全速力で逃げていったんでしょ? けどほら、駐在さん足速いから」

 それはあんな目で女の子を見ている男のことを駐在さんは捕まえたくもなるだろう。わたしが、へえそうなんですか、と興味なさげに答えるのを見ておばちゃんたちはしょうもなさげに離れていった。

 それでも、なぜだかわたしは彼を迎えに行かなきゃいけない焦燥感にかられた。彼はあのきれいで純粋な目で少女たちを見ていたのだ。ただそれはきれいで純粋な出来事なのだ。

 わたしは仕事場からの帰り道、遠回りして駐在所に向かった。駐在所へは登り坂で、ペダルをこぐ度に汗がばあっとにじみでる。潮風に前から押されて、わたしはそれでも、こぐ。夕日はとても絢爛で目がつぶされるかと思った。

 きっ、とブレーキをかける。彼はいるのだろうか。いないのかもしれなくって、それだとわたしはただの馬鹿だ。彼は家で夕飯を作っているのかもしれなくて、それだとわたしはただの馬鹿なのだ。

「すみません」

 がらがら、と駐在所の戸を引いた。

「ああ。ヒナコさん」

 彼はわたしが日の光を背負っているからか、眩しそうに見あげてくる。いつもと声の聞こえる位置が違うと思ったら、パイプ椅子に座っていた。

「この人、ヒナちゃんと一緒に住んでるって本当?」

 駐在さんは白髪まじりの頭をかいて尋ねた。

「そうです」

「肉親、というわけでもないんだよね」

「そうです」

 駐在さんはふーっとため息をついた。キャスター付きの椅子でくるりと一周する。ふーっともう一回ため息をついて、パイプ椅子に座っている彼を見つめた。

「気をつけなよ。こいつ前科持ちだから」

「そうですか。分かりました」

「全部知ってたの?」

「知りません」

「それなのに一緒に住んでるの?」

「はい」

 彼は日が暮れかけているのにまだわたしを眩しそうな目で見ていた。

 駐在さんはまたくるりと一周した。

「まあ今日は注意しただけだから。次またこんなことがあったらこれくらいじゃ済まないからね」

 駐在さんは興ざめ、といった感じで奥に引っ込んでいった。

 わたしは机の上に放ってあった調書をたぐり寄せた。

「ミキユキオ?」

 彼の目を見る。また、白目が光っている。

「そうです。ボクはミキユキオです」

 わたしはミキユキオの名前さえ今まで知らなかった。

 

 

 お菓子でおなかいっぱいになってしまう。ごはんが入らなくなってしまう。それでもわたしたちは家にあるだけのお菓子を開けた。

 これもミキユキオがしたようなわるいことだ。わるい人間にわたしもなりたかった。

「昔ボクは罪を犯しました。小学生の女の子を家に誘いました。おいしいお菓子があるからと言って」

 わたしはポテトチップスをつまんだ。そういえばまだ冷凍庫にたい焼きがある。

「からだを触りました。肌がすべすべしていました」

 おかきを食べながらちゃんと聞いているのを示すように頷いた。

「髪の毛を触りました。きれいな長い髪でした。少しだけ切ってしまいました。大切に持ち歩いていました」

 麦チョコの袋を開けた。ミキユキオに食べるかどうか聞くと、首を横に振った。ミキユキオは小さなおかきを唾液で溶かしていくようにちびちび食べていた。

「ボクは警察官でした。警察官としてあるまじき行為をしました。その子はボクが警察官としてふるまっていたからついてきてくれたのです」

 おかきを食べながらミキユキオは淡々とそう言った。反省しているのだろう。反省しきっているのだろう。もう振り切れて淡々としてしまう。

「なるほど。じゃあ、わたしがいまここで一人で始めても、やっぱり反応しないんだ」

「しますか。手伝いますか」

 ミキユキオはやけにうれしそうにわたしの顔を覗いた。

「うん。して」

 濡れてもいないのに、わたしはそう言った。空しい気持ちになって泣いてしまうのはわかってたのに、彼を慰めてあげたくなったのだ。

 

 

 手紙が届いた。遠い土地に住む伯母からだった。

『その家を取り壊してマンションを建てるから引っ越しをしなさい。夏までに』

 この家の名義は伯母が持っている。逆らうことはできない。

 夏。草むせる夏。緑の濃い匂い。何年もここで過ごしてきた日々がこんなに簡単に終わろうとしている。

『分かりました』と返事を書こうとして、それでもこの生活から離れがたくて、ペンが進まない。

「どうしたのですか。ヒナコさん元気ないです」

 食事の時、ぼーっとしていてテーブルに味噌汁をこぼしてしまった。ミキユキオがそれをまめまめしく拭いてくれる。

 ああ。こいつもいるんだった。ミキユキオ。ミキユキオに伯母からの手紙を見せた。

「ボクを置いていきますか」

 恐ろしいほどミキユキオは笑う。声は出さずに、恐ろしいほど顔の筋肉がつりあがっている。

「ボクを、捨てていきますか」

 まだ、笑っている。

「けど、ボクがいなくていいんですか。性的欲求のはけ口に困りませんか」

「わたしを、笑うの?」

「違う」

「違わないでしょう」

 さっきから笑っているでしょう。

「あなたが気持ちいいことをボクはできます。泣くほど気持ちいいことを」

 ミキユキオが笑っている。

「あなた、性的にはボクが好きでしょう」

「わたしを脅そうっていうの?」

 ううん、とミキユキオは首を振った。テーブルを越えてわたしの手を取る。ミキユキオがごくん、と唾を飲み込んだのが喉仏の動きで分かった。

「ボクとこれからも一緒に暮らして下さい。ボクと一緒に暮らす頭のおかしいひとはあなたしかいないのです」

 そう言えば、ミキユキオはあの時泣いていた。カレーを食べながら『幸せです』と言っていた。

「お金なんていりません。働くことはできます。けどボクと生活してくれるひとはあなたしかいないんです」

 ミキユキオのわたしの手を握る力がぎゅっと強くなった。

「お願い、します」

 ああ。ミキユキオはずっとひとりだったんだなあ。

 性的対象が違う相手と一緒に暮らすことは、できるんだろうか。

 わたし。ミキユキオ。

 ああ。できそうだなあ。

 すきま風が窓から入ってきた。潮の匂いだった。

「次は都会に住もうか」

「はい」

 引っ越しのとき、庭に立葵が咲いていた。それがわたしの背を越えるとき、ここには夏がやってくるのだ。

 

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