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短編 「月光雨」

 弟は月光雨にうたれて、死んだ。
 月光雨の年間死者数が、だいたい百人くらいだと知ったのは、そのすぐ後のことだった。ラジオから聞こえていたニュースの数々は私の耳を素通りして、だから、それは弟の元へ降ったのだ、と思う。
 そんなことを思い出したのは、授業中に外で月光雨が降り出したからだった。月光雨はがらがらと音を立てて、降った。半地下の地面すれすれにある窓からは、針状の月光雨が弾けたり、砕けたりしている様子がきっと見えるはずだった。私はそっと目を閉じて、月光雨の音に耳を澄ませた。
 結局、弟の死体を私は見なかった。道を歩いていた幼い弟の上に、その重たい光の柱は降ってきた。弟の身体はひとたまりもなく潰れただろう。まるで花でも咲くように、道には弟の血が広がって、世にも珍しい月光雨の塊は砕け散った。私はそんな想像をする。拳大の月光雨が頭にぶつかっても、人は死んでしまうのだと知っているはずなのに。
 ふいに、私の前の席が音を立てて、倒れた。遮光器《ゴーグル》で狭まった視界を上げると、伊織つかさがゴーグルを跳ね上げ、窓を開けようと手を伸ばしたところが見えた。
「伊織!」
 と教壇に立つ先生の声が響いて、でも彼女は少しも躊躇うことなく、月光雨の降りしきる窓を開いた。窓から砕け散った月光雨の欠片が入り込む。ゴーグル越しにも眩しいそれは、砂粒のように床に散らばった。伊織つかさは裸眼のまま、窓の外へ顔を出そうと窓に飛びついて、その襟首を先生に掴まれ、床へ引き倒された。逆上した伊織つかさが
「邪魔!」
 と叫んで、先生に飛び掛かった。けれど、小柄な彼女は簡単に抑え込まれて、口惜しそうに手足をじたばたさせた。
「中島、窓閉めてくれ」
 先生は伊織つかさを抑え込みながら、私に言った。相変わらず、窓からは月光雨が入り込む。
 私は脚立代わりの机の上に立った。ちょうど顔の位置に窓が来て、あ、と思った時には、私は床の上に転がっていた。クラスメイト達が私の周りに集まる。クラス委員が窓を閉めて、大丈夫と覗き込んできた顔がやたらにはっきり見えたから、思わず、顔に手を伸ばして、ゴーグルが壊れたことを知った。
 私は月光雨の直撃を受けたみたいだった。なんて運が悪いんだろう。でも、嘆いてみせるだけの元気はあるみたいだ。目の奥で十字型の光がぎんぎんと収縮を繰り返す。私は目元を抑えて、痛みが通り過ぎるのを待った。
「中島、保健室いくか?」
 先生は自分のゴーグルを外して、私の手に乗せた。
「大丈夫です。すこし驚いただけで」
 と言った瞬間、私の手の平からしずくがこぼれた。血が出てる。見なくても分かった。周りのみんなが、あっと息を飲んだ。
「伊織、連れてってやれ」
「……私なら平気ですから。授業つづけてください」
 伊織つかさが私の隣に屈みこみ、立って、と弱々しい声で呟いた。私は彼女に支えられながら、教室を出た。
「怪我、どう?」
 廊下は静かだった。いつも通りの黴臭い空気がのっぺりと、辺りを支配している。
「多分、目の上が切れたんだと思う。出てる血の量ほど、ひどくないんじゃないかな」
 それよりも、目の前で月光雨が弾けた時の光の方が、よっぽど痛んでいた。あれだけ激しい光を見たのは、入学式以来だ。顔全体の皮膚も、すこしひきつれる感じがした。
「さっきのさ、いい子ぶってるの?」
「え?」
「授業つづけてください、って」
 私は立ち止まって、指の隙間から彼女を窺った。
「……何が言いたいの?」
 足音がやみ、伊織つかさがこちらに振り向く。ゴーグルをしない彼女の顔にゴーグル焼けの痕はなく、一面の白い肌にやっぱり目の奥が痛んだ。
「怒らなくてもいいじゃん。私はただ、どういうつもりだったのか、聞きたいだけだし」
「なら、聞き方が悪かったね」
「そっか……」
 と返事をした伊織つかさの興味は、既に他の所に移っているようだった。私の顔を見つめる彼女の表情が、じわりとかすんだ。
「瞳の色、黒だ」
 私は答えなかった。
「珍しいね。親からの遺伝? 兄弟はいる? 瞳の色、同じ?」
 一瞬、弟の顔が浮かんだ。だけど、それはすぐにぼやけて、分からなくなる。
「しらない」
「知らない? そんなわけないでしょ。いじわるしないで教えてよ、睦月」
 名前を呼ばれた瞬間に、かっと顔が熱くなって、目の奥で光っていた十文字の光がくるりとまたたいた。
「うるさい」
 血が垂れて、コンクリートの床に滴った。鼻先を鉄っぽい臭いがかすめていく。私は再び手で目元を抑えた。膨張を繰り返す眼底の光が、やがて頭痛に変わる。
「いい子ぶってなんかいない。私は、誰かの邪魔になりたくないだけ」
 耐えられなくなって、私は床に膝を突いた。伊織つかさがさっと駆け寄ってきて、私の肩を支える。頭痛の種火は、どんどんと燃え広がっていく。
「ねえ、睦月。写真のモデルやらない? 睦月みたいな真っ黒な瞳は珍しいから、きっと人気になると思う。どう?」
「いま、言うこと?」
「だって、弱ってるから」
「そっか。でも、興味ない」
 それでもつかさが何か言っていたけれど、頭に響く頭痛の音の方が大きくなっていった。じっと黙っていると、つかさは私の肩を軽く叩いて、どこかへ走り去った。
 視界が白黒に明滅して、それに合わせて、意識がふつふつと途切れる。いま、じぶんがどんな姿勢でいるのかもわからなくなって、わたしはなんでもなくなる。夢でも見ているようなあたたかなくらやみが、視界をぬりつぶして、無意識っていうのはほんとうに意識もできないんだ、と遠くのわたしが思った。
「むつき、睦月!」
 気付けば、私はつかさの胸に抱かれていた。
「大丈夫? 先生呼んできたよ」
 つかさの爽やかな香りが、わずかに頭痛をやわらげた。
「ごめん」
「なにが?」
「服、よごしちゃった」
 つかさは私をより強く抱いて、言った。
「そんな小さなこと、気にすんな」

 月光雨――成層圏に凝った光の積層、と辞書に書いてある。百科事典を見れば、月光雨の存在から光に質量があることが予想されていたが、それが明らかになったのは2021年の神岡実験場の観測による、とある。
 この星を覆うベールのように月光雨はそこにあり、地表へ降ってくる間に千々に砕けて、針状の細かい雨の姿へ変わる。小学生の頃、博物館で見た国内最大の月光雨は建国の年に首都へ降ってきた、全長5メートルを超える大きな石柱めいた宝石だった。
 だけど、大きな塊が降ってくることは稀で、大抵は通り雨のように通り過ぎていくだけ。遮光器《ゴーグル》も遮光袋《マスク》も遮光服《ポンチョ》も、月光雨のためにあるというより、もっと身近な、光そのものに対する防護策なのだ。
 私たちが一番恐れているのは、失明すること。光を、見てはいけない。

 授業を終えて、帰り支度をしているとつかさが振り向いて、
「モデルの件、考えてくれた?」
 と言った。
「やらない」
「えー、そんなー。やろうよ」
「興味ないし、それにカメラなんて危なすぎる」
「大丈夫だって。私、何年も写真やってるけど、この通り元気だし」
「カメラマンはね」
「モデルも平気だよ。全然危なくないからさ」
 ポンチョとマスクを着込んで、私は教室を出る。つかさの方は、ゴーグルさえつけずに後を追ってきた。
「いつか死ぬよ」
「そうだね。誰だって、いつかは死ぬ。だったら、やりたいことやってから死ななきゃ。もったいないでしょ」
「私は、やりたくない」
 私は、のところを強調すると、つかさはなぜだか笑う。頑固だなー、と笑い終わりに呟いた。
「じゃあさ、お金はどう? これがけっこう儲かるんだ」
「別にお金には困ってない。というか、写真なんてどこで売るの」
 私の言葉を待っていたとばかりに、つかさは私の前に回り込んで、白い歯を見せた。
「私の家に来てよ。見せてあげる」
「……何を?」
「写真」
 私はつかさを無視した。目の前でとおせんぼする彼女を迂回して、
「両親が視覚芸術《ヴァーチャルアート》に厳しいの」
 と嘘を吐き捨てた。
 学校を出ると、天頂から降り注ぐ月の光が重苦しく肩にのしかかった。ポンチョ表面のアルミニウムの薄膜が光を受けて、ぱりぱりと音を立てる。
「睦月、待って!」
 駆け寄ってきたつかさのポンチョとゴーグルは、慌てていたからか、ぐちゃぐちゃに乱れていた。
「私もそうなの」
「え?」
「私の親も、睦月のとこと同じで、光り物には厳しくって」
 私の脳裏に、小学生の頃の思い出が蘇る。まだゴーグルを嵌めるのにも不手際な子どもたちの中で、一際目立つ、重装備の男の子。校舎にいても、ポンチョとマスクを外さず、その子の両親はそれでも継ぎ目の隙間を気にしていた。
 原理主義者は禁欲主義的になる。当時は、そんな難しい言葉で覚えていた訳じゃない。でも、その子はじきに学校へ来なくなった。光を遠ざけるのに、学校はそぐわないから。
「カメラなんて、よく許してくれたね」
 私は半分つかさに同情して、言った。ポンチョを整えてあげると、小柄な彼女の身体は、すっぽりと収まった。フードの深い影の中で、つかさはゴーグルを外す。
「いまは一人暮らしだから好きなことができるの。言ったでしょ、儲かるって。もし、睦月も家にいるのが嫌なら……」
 つかさは言い淀んだ。私がつかさの両親たちと同じ考えなんじゃないかって、心配したのだろう。
「私は別にどっちでもないよ。でも、やっぱりモデルには興味ない」
「そっか」
 ゴーグル越しのぼやけたつかさはさびしそうに、たぶん笑った。

 家に帰ると、玄関まで両親の声が響いていた。私はドアノブを握り締めたまま、思わず固まる。
 地下へ伸びていくスロープは、暗く口を開け、私を待っていた。
「……ただいま」
 形だけ挨拶をして、私は音を立てないよう、慎重にスロープを下りていく。リビングでは案の定、二人が喧嘩をしていた。いつも通り、母が父を責め立てている。はじめは静かに聞いている父も我慢ができなくなって、じきに怒鳴りだす。
 私はすぐに自分の部屋へ駆けこんで、鍵を閉めた。それでも、二人の声は家中に反響して、届く。唯一の救いは、それが言葉ではなく、音として伝わること。猥雑な罵り言葉を理解しなくて済む。
 ポンチョを脱ぐのもだるくて、私は制服のまま、ベッドに倒れ込んで、自分のにおいのする枕に顔をうずめた。
「千早、ごめんね」
 呟いた弟の名前はくぐもって、はっきりしないまま消えていった。
 両親の喧嘩は弟が死んでから、一層はげしくなった。不仲な二人だったけど、弟がいるときだけは違った。世界は間違えたのだ。弟ではなく、私を連れて行くべきだった。
 浅い眠りから目覚めると、家の中は静まりかえっていた。空腹、というより腹部の違和感を抱えて、リビングに行くと、テーブルの上には白紙の離婚届が置いてあった。
「千早、私ってだめなお姉ちゃんだね」
 何も感じない自分に、ちょっとだけショックを受けた。弟に謝ったら、涙ぐらい出ると思ったのに、言葉にした途端、心は一気に凪いでしまった。
 その日は一人で、作り置きされていた晩ご飯を食べた。

 つかさの住むアパートは地上の建物だった。光から建物を守る外壁と、その内側に住居がある二重構造で、地上建てによくあるタイプのアパートだった。
「いらっしゃい、睦月」
 と私を迎えたつかさは、ゴーグルをしていないどころか、Tシャツにホットパンツという露出の多い格好をしていた。
「信じられない」
「ん? ……ああ、この格好のこと? いま、ちょうど暗室から出てきた所なんだ。作業中はポンチョが脱げないからさ」
 アパートの中は饐えた臭いが漂っていた。
「写真って光に弱いんだ。ちょっとでも感光するとすぐにダメになっちゃう。だけどさ、逆にそれがかわいくって」
 私は何とも言えない表情をしていたのだろう。話を打ち切ったつかさは気まずそうに頭を掻いて、入って、と私を案内した。
 中は想像より綺麗だった。古い木の匂いがして、空気が乾いている。コンクリートのじめっとした中で暮らしているからか、地上の建物は新鮮な香りがした。
 部屋は縦長で、入り口にキッチンとお風呂場、それにトイレなんかの水場があって、そこから奥に一間、二間と続いている。奥の二つの部屋には一応、敷居があったけれど、実質大きめの一部屋といった感じだ。奥の部屋にはブースが設けられていて、今日はそこで撮影をするんだな、と思った。
「今回はオーケーしてくれて、ありがとう。言っておいたもの、準備してくれた?」
 私は家から持って来た制服や、母のフォーマルドレスなどをつかさに見せた。
「いいね。けど、この色ならブースの背景、変えないとだね。制服の方から撮ろうか」
 私はポンチョを脱いで、ボタンに手をかけた。つかさがこちらをじっと見ている。
「ねえ、着替える所も撮るの?」
「え? あ、いいの?」
「いい訳ない。あっち向いてて」
 なんだ、とがっかりした様子で、つかさは玄関の方を向いた。私はようやく服を着替え始める。
「ねえ、この銀色の板、なに?」
「銀色、レフ版かな。逆光の被写体に光を当てるのに使うやつ」
 ふーん、と納得したような声を出したけれど、話はそれ以上膨らまず、沈黙が流れた。別に気まずい訳でもなかったけど、知り合ったばかりの他人の家で肌を見せているのは、何だか不思議な感覚がした。
「睦月、聞いてもいい?」
「……質問による」
「どうして、モデルを引き受けてくれたの?」
 答える必要ない。そう思ったけど、誰かに話したかった。聞いてほしいんじゃなく。
「両親が離婚するから。私もつかさみたいに一人暮らしできないかなって」
「楽しいよ、一人暮らし。何するのも自由だし、逆にしなくてもいいし」
「二人とも喧嘩ばっかりで疲れちゃった。それに、私がいない方が楽でしょう、色々と。子どもなんて一生返せない借金みたいなものだし」
「……その考え方には賛成しないけどさ、睦月が自分で選んだことなら応援するよ」
 着替え終わったよと告げると、つかさはブースを指差して、そこに立って、と言った。
「ポーズは私が指示を出すから」
「操り人形みたい」
「似たようなもん」
 つかさはカメラを構えた。

「大丈夫? 眩しくない?」
 私とつかさの間で何本かのストロボが焚かれ、私は既に目眩がしていた。光の熱と圧力《プレッシャー》とが、まるで台風の中に立っているような激しさだった。
「まだ、やるの?」
 つかさはもう二回ほど、フィルムを交換している。白くぼやけた向こうで、つかさが渋い声で唸っていた。
「もう少し我慢できる?」
「どれくらい?」
「分かんない。睦月の表情がやわらかくなるまで」
「それ、無理。眩しくて死んじゃいそう」
「でも、慣れてくれないと困るよ。ずっとしかめっ面でさ」
「この仕事、向いてないかも」
 はあ、と溜め息をついたつかさは、少し思案して、諦めたようにストロボの電源を切った。目を刺すような痛みがやわらいで、いくらか身体が楽になる。
「休憩しよう」
 つかさは私にミネラルウォーターを投げて寄越した。ほっと一息ついて、私はペットボトルを思いっきり呷った。一口で半分ほど飲んでしまった。
「そういえば、写真はどう売るの? まさか手売り?」
「現像してスキャンして、デジタルデータにした後、ネットで売る」
「ネット? 繋がってるの?」
「ラジオばっかり聞いてると馬鹿になるよ」
 ひひひ、と笑って、つかさは私を手招きした。彼女が押入れの戸を開くと、そこにはデスクトップPCが置いてあった。中で二段になっている物置がちょうどパソコンラックのようで、つかさは椅子を持ってきて、その前に座った。
「こんなの親に知られたら、殺されちゃうんじゃないの?」
「カメラの分も合わせて、十回は死ぬね」
 ディスプレイには、恐らくはつかさがこれまで撮ってきたであろう写真が映っていた。大抵は風景写真で、月灯りの暗い森や、街灯を受けて光る川面、それに月光雨の降る水溜まりの写真もあった。
「ネット上にマーケットがあって、まあ写真なんて合法なだけで、ほとんど闇なんだけど、割と何にでも需要があるんだ。ネット見てる人間なんて、失明がどうとか気にしてないからさ。なんてことない風景でも、写真なら売れるんだ」
 しばらくマーケットに流れる商品を眺めていたけれど、いつもの光が見え始めて、私は顔を逸らした。
「つかさは平気なの?」
「光? まあ、慣れだよ。というか、睦月が弱すぎるんだよ。せっかくの黒目なのに」
 宝の持ち腐れだね、と私たちは笑った。
 手裏剣状の光が、車輪のようにぐるぐる回り始めた頃、私はあることを閃いた。
「つかさにずっと聞きたかったんだけどさ、あの日、どうして窓を開けたりしたの?」
 つかさが私の表情を窺う気配がした。私はあの日と同じように、目元を抑えている。今日の頭痛はあの時よりは軽い。
「月光雨をさ、撮りたかったんだよ」
 つかさのなんてことない声が、心地いいと感じた。
「月光雨の写真なら、さっきあったけど?」
「あれは……違うんだよ、月光雨が降ってくるところを撮りたかったんだ」
「カメラもなかったのに?」
 つかさは黙った。別に責めてるつもりじゃないんだから、深刻にならなくてもいいのにと思いながらも、私はちょっと楽しかった。私はいじわるなんだろう。
「今日はフィルム無駄にして、ごめん」
「……いや、現像してみないと分かんないから」
「つかさは私の瞳を撮りたいんだよね?」
 うん、と頷くつかさ。
「いい方法、思い付いたよ。光なんて関係ない方法」
 一番近くで撮ればいい。
「接写しろってこと?」
「私の身体なんて大して綺麗じゃないから。目だけの方がいいよ」
 でも、と渋るつかさを、私は顔を上げて、正面から睨んだ。
「やるの、やらないの」
 つかさは少し考えこんでから、準備する、と立ち上がった。

 私の瞳の写真は、つかさの想像をはるかに越えて売れた。虹彩のしわまでが詳細に見えるそれは、下手なポルノグラフィよりも刺激だったかもしれない。ネット上では、私たちの写真が話題になり、専門の掲示板まで建てられた。つかさは一躍、有名人になった。マーケットには普段の倍以上の人が集まり、次の写真を求める声がたくさん届いた。
 私は、ネットの評判を見せてもらおうと、つかさの部屋を訪ねていた。私がネットを眺めている間、つかさは後ろの方で、そわそわしていた。
「ねえ、ラジオつけていい?」
 とつかさは言った。私の返事も待たず、彼女はキッチンに置いてあるラジオのつまみをひねった。ニュースのアナウンスが流れだす。極大の流星群が来週に迫っている、と無機質な男声が告げた。
 私が掲示板の細かい文字に辟易して、ディスプレイから身体を離すと、つかさが口を開いた。
「明日、朝焼けを撮りに行くんだけど、睦月、手伝ってくれない?」
 目をしばたかせると、つかさは私に目薬をくれた。
「朝焼け?」
「ずっと撮りたいと思ってたんだ。ネットでも、太陽の写真なんてほとんどないから、狙い目なんだよ」
「死人が出るんじゃない?」
「いや、そこまでひどくないはず。教科書にだって太陽の写真があるし」
「ああいうのって、何千万もする機材とか使うんでしょ?」
「一応、減光パネルを使うつもり。それに、一番撮りたいのは、朝焼けの風景の方なんだ」
 キッチンの丸椅子の上で胡坐をかいて、つかさは酔ったみたいに頬を赤くしていた。ゴーグルも付けないくせに、同級生の誰より色の白いつかさの肌は綺麗な薄桃色だった。
「一人でやろうと思わなかったの?」
 その疑問は自然と口をついて出た。だって、つかさはそういう人間だから。
「……怖かったんだよ」
「何が? 死ぬこと?」
 つかさは首を振った。
「違う。死ぬのなんかこわくない。やりたかったことを後悔しながら老いていく方が、もっと怖い。そうじゃなくて、もしカメラが壊れたりしたら、どうしようって、そういうことがこわかった」
 背筋を伸ばし、まっすぐに前を見つめてつかさは話した。
「ずっと思ってたんだ。私の写真を買ってくれるのは、他に写真を撮る人がいないからで、私の撮るものに価値なんてないんじゃないかって。だけど、私は写真を売って生活をしている訳で、いつか私は捨てられるんじゃないかって思いながら、だれにも相談できないまま、写真を撮ってた。カメラを構えるのをやめたら、自分が消えてなくなるような気がしたんだ。だから、やりたくてもできなかった。そんなの言い訳だって分かってる。だけど、カメラを失くしたら、私は私でなくなっちゃう。本当は、これが私だっていう写真を撮りたいのに、それを撮ったら、私じゃなくなる。ずっと、そんな気がしてた」
 そこまで話して、つかさは笑った。私を見て。
「でも、気付いたんだ。それは違うんじゃないかって。これから一生、写真が撮れなくっても、私がここにいた証拠はずっと残っていくんだって、分かったから」
 ぐっと身体を反らして、つかさは危うく椅子から転げ落ちる所だった。がたん、と床を鳴らして、彼女は私の方へ身体を傾けた。
「睦月の……睦月が撮らせてくれた写真のおかげだよ」
 ありがとう、そう言って、つかさは頭を下げた。いつかの爽やかな香りが再び、私を包んだ。それはきっと、初夏の匂いだった。
「明日の朝焼けって、つまり今日の夜明けだよね」
 私が尋ねると、つかさは顔を上げて、そうだけど、と言った。
「泊ってもいい? どうせ、家には誰も帰ってこないし」
「いいけどさ、布団、一つしかないよ」
「いいじゃん、雑魚寝」
 それ意味ちがくない、と私たちは笑った。その日は眠らず、小さな布団を分け合って、くだらない話をした。学校の話、親の悪口、憧れの人、好きだった遊び、私だけが詳しくてつかさには分からない話と、つかさばっかり口を動かして私が間に入れないおしゃべりを、たくさん。
 つかさは、私にありがとうって言った。溢れ出したように、堰を切ったように、なみなみと、湯水のように、私にありがとうと言った。
「もう死んでもいいって思っちゃった。睦月のせいだよ」
 死にたくない理由がある。
 うらやましいな、と思った。

 海で、溺れていた。
 海は重たく、光を含んでいた。
 まぶしさと目眩を区別できなくて、いっそう溺れた。
 遮光器《ゴーグル》の中に潮水が入って、視界はサイダーみたいにはじけた。砂糖水みたいにねばつく水が、私の水晶体にはりついた。光を漏斗で注ぎ込まれているみたいに、質量をもった流体は私を器に、とくとくと満たした。
 音。水の膜が破れる。私の身体は光を含んで、重たくなって、石のように沈み始めていた。
 もぞり、と私のお腹の下で頭をもたげて、海がこちらの顔を覗き込んだ。一対の瞳が、つるりとした水の表面を滑る。
 海が身じろいだ海流で、私はもみくちゃにされて、沈みながら、回りだす。手足をでたらめに振り回すと、そのでたらめさの分だけ、私の身体はぐるぐる低回した。
 そこで私は思い出す。大丈夫、この後、千早が私の手を取ってくれるから。
 弟が、私を掴まえた。
 それから先はダイジェストだ。ポンチョを振り回し、弟は陸にいる両親に私たちの位置を知らせた。きらきらとアルミニウムの外膜が光る。私は、私を抱えて立ち泳ぐ弟の顔を、アルミニウムの逆光の中で見上げた。だけど、千早の顔ははっきりしない。影の中で、三歳年下の弟が、私より大人びて見えて、これが夢だと気付いている私はふてくされた。
「笑って、姉ちゃん」
 子どもの頃の癖が抜けないまま、千早は私を、ねいちゃん、と呼んだ。彼も、これが夢だと既に気付いていた。
「笑ってよ」
 困ったように、あるいは呆れたようにはにかんだのだと理解していても、千早の顔は淡いかすみの向こうにあった。
「弟が姉に向かって、命令するな」
 死人のくせに、と付け加えると、千早は私の手をそっと離した。私の身体は海にぽっかりと浮かぶ。
「そうだよ、姉ちゃん。俺はもう死んだんだからさ、いつまでもこだわってちゃダメだ。姉ちゃんは生きてるんだから」
 だから、命令するなって、と心の中で呟いたら、ここは夢の中だから、
「命令じゃなくって、忠告な」
 と彼は言った。千早なら、多分そう言う。
 まぶしい。わたしにはまだ、目眩との違いが分からない。弟の姿は光の中へ溶けていき、
「そろそろ起きなよ、姉ちゃん」
 という声で、私の意識は目覚め始める。
 つかさの匂いの中で、私は汗をかいていた。熱っぽい不調。右を枕にして、息苦しさを抱きしめている。朝焼けを見に行ったところまで覚えていたけれど、身体のだるさには覚えがなかった。
「つかさ、どこ……?」
 瞼を開けようとしたら、何かがこびり付いたまま、まつげを引っ張った。目が開けられなかった。
「つかさ、いないの?」
 呼びかけると、向こう側で気配がした。
「はいはい、ちょっと待って」
 声がして、足音が近付いてくる。
 その間に、目元を擦ると、まぶたにこびり付いたものが、ぽろぽろとこぼれた。目ヤニだった。
「あー、さわらないさわらない」
 つかさは私の手を掴み、ぬるま湯にひたしたタオルを顔に乗せた。
「しばらく、このままね」
 ふやけた目ヤニを拭い取ると、ようやくまぶたを開けられるようになった。つかさが、目尻に残った目ヤニに爪を立てる。
「痛いよ」
「あ、ごめん」
 けれど、視界ははっきりしなかった。ストロボが焚かれたみたいに、目の前は白くぼやけていた。
「見えてる?」
 つかさが、多分、動いた。
「見えないんだけど、何があったの?」
「覚えてないの」
 というつかさの声は、いささか語気が強かった。
「朝焼けを見に行って、そこで睦月はポンチョを脱いだんだよ。撮って、とか言ってさ。太陽直撃」
「写真、どうだった?」
「………………」
 恐らくは前のめりだったつかさが息をつき、本格的に私に呆れることにしたようだった。
「写真は撮ったよ。睦月の馬鹿みたいな姿。……どうして、あんなことしたの?」
 白いかすみの視界で、つかさのかたちの靄が動いた。つかさの温もりが私を抱く。
「覚えてない」
 でも、推測はできる。あの時、私が何を考えていたのかではなく、私がいま何を思っているのか。
 つかさは私を改めて、抱きしめた。
「話してよ」
 つかさの吐息が、私の首をくすぐった。
 私の語り初めはこうだった。
「弟が月光雨にうたれて、死んだ」

 つかさは私の話を、ずっと黙って聞いてくれた。相槌も、息をする音さえしなかった。じっと、静かな水面のように、私を待った。
 弟は――千早は、間違って死んでしまった。本当は死ぬべきじゃなかったのだ。だけど、彼の上に、月光雨は降った。どうしてだろう、と自分なりに考え続けて、やっと出た答えは、千早は身代わりになったんじゃないか、ということだった。
 千早は何をするにも、私の後ろを付いてきた。私より背が大きくなってもそれは続いて、千早は私を見守っていたのだと思う。
 私は、千早にどこまでも心配をかけた。すぐ何でもできるようになる千早と、不器用な私。そんな姉を見て、千早は不思議に思ったにちがいない。どうして、自分にはできるのに、姉には無理なのだろう、と。
 理由は単純だ。私と千早は半分姉弟で、半分他人だから。
 私は父と母の子どもではない。いや、正確にいうと母の子どもでは、ない。
 私はいわゆる父の連れ子で、私の黒い目は今は亡き母から受け継いだものだ。そして、私は父と母が、どのように結婚に至ったのかを知っている。今の母は父の浮気相手で、母が亡くなる三か月前には、妊娠が分かっていた。それが弟だ。
 正直に言おう。弟の視線が私は気持ち悪かった。どこまでも付いてくる幼い瞳は、私の母と、父と千早の母親と、その全部を合わせたような、幾重にもかさなった奇妙なものだった。監視、思慕、敬遠、どのようにも意味のとれる弟の視線は、私の身体に絡み付いた。
 私は弟が嫌いだった。嫌いだと思う自分も嫌いだった。千早に罪はない、と分かっていながら、彼が目の前に来ると、私は目を逸らした。だから、彼の顔も思い出してあげられない。
 そう、だから、結論を言ってしまおう。
 千早は彼の両親の罪をかぶって、死んでしまった。二人の身代わりになったのだ。それを知っているのは、私だけ。私は、千早がなぜ死んだのかを、二人に話さなければいけない。そうしてあげないと、千早がかわいそうだ。だけど、私にはできない。私だけが、家族じゃないから。
 その日も、私はつかさの家に泊まった。見えない私の目は太陽の残像を残して、涙を流し続けた。まぶたの隙間からこぼれた涙で目元は荒れた。その度に、つかさは私の顔を拭って、あたたかく抱きしめた。
 甘えてしまう自分がいやらしくて、でも、そんな私でも弟は許してしまうだろうから、罪悪感を適当にしまっておけない。
 千早への申し訳なさを感じている限り、彼を覚えておけるだろうという楽観がいつまで続くのか、私は知らない。

 次の日、視力が戻ったのでつかさに送ってもらい、家に帰ると、母が玄関まで出てきた。
「睦月!」
 どうやら、彼女は怒っているようだった。ポンチョのフードを覗き込むようにして、彼女はつかさを思い切り睨んだ。
「あなたが、睦月を連れ回してたのっ!」
 母の剣幕に、つかさがたじろいだ。それを見て、
「ごめん、つかさ。もう帰っていいよ」
 と二人の間に割り込むと、私も同様の剣幕で睨まれた。
「勝手なこと言わないで! 私だって、親として言うべきことがあるの!」
 あくまで、お説教をするつもりみたいだった。だけど、
「親だと思ってませんから」
 困っているつかさに、私は声をかける。
「つかさ、来週の流星群、写真撮りに行こうよ」
 隣で、母が絶句していた。
「つかさのアパート、行くから」
「――行かせる訳ないでしょう!」
 私はつかさに手を振って、スロープを下りた。後ろの方で、母がつかさに文句を言っているのが聞こえる。律儀に聞かなくてもいいのに。
「睦月!」
 結局、母はつかさの方を諦めて、下りてきた。部屋の扉に手をかけたところで呼ばれたので、仕方なく振り返る。
「どういうつもり? 無断外泊なんて!」
「親でもないのに、連絡なんて必要ですか?」
「親と認めてないのは分かってる。だけど、保護者として、言わない訳にはいかないでしょう」
「……言いたいのはそれだけですか?」
 私は部屋の扉を開けた。
「それじゃあ、疲れたので寝ます」
「……離婚することになったから」
 思わず、足を止めてしまった。背後の声が、一歩分、こちらへ近付く。
「睦月は、どっちに付いていくか、決めてある?」
「一人暮らしします」
「お金は?」
「自分で稼ぎます」
「どうやって?」
「……あなたに関係ない」
「私は睦月を――。……ううん。昨日の晩ご飯、冷蔵庫にあるから。お腹が減ったら、食べて」
 言い淀んだ言葉の向こうにあるものを、私は知っていた。
 ――私は睦月を、引き取るつもりでいる。
 彼女は私だ。罪悪感をかかえ、何もしない偽善者。初めて会った日、彼女は言った。
「何も知らなかったの」
 父は、子どもがいることも結婚していることも、伝えていなかったそうだ。あるいは、それは嘘かもしれない。保身のために、彼女がついた嘘なのかも。
 けれど、どちらにしろ同じことだ。私の母は死に、千早が産まれた。それは何一つ、変わらない。

 無断外泊の罰として、外出禁止を言い渡された。学校は、来たる流星群に備えて、休校になり、ラジオをつければ、観測史上最大の月光雨になるとの予報がひっきりなしに流れた。
 私がリビングへ向かうと、母は酒を飲むか、酔って眠っていた。冷蔵庫には、必ず私の分の食事が作り置きされていて、シンクは綺麗に片付けられていた。
 一度、彼女が寒そうにくしゃみをしたので、肩に毛布を掛けてあげた。見かける度、毛布は床に落ちていた。
 私はつかさに電話をかけるため、父の寝室に忍び込んだ。父はあれから一度も、家に帰っていないみたいだった。
 殺風景な寝室は整髪料の香りがしていた。皺ひとつないシーツは誰が整えたのだろう。その上に、写真が置いてあった。
 父と母たち、三人が写っていた。父はいつものスーツ姿で、私の母は眼鏡をかけていた。みんな、今よりも随分と若かった。写真も色あせている。
 どうして、写真なんか。
 そう思っていると、背後で音がした。
「あなたたちのお父さんが撮った写真よ。まだ、皐月先生とあの人が結婚する前」
 お酒のにおいを漂わせ、母が立っていた。
「私は皐月先生の最後の教え子だったの。憧れの人だった。底知れない真っ黒な瞳が、とても素敵で、私の他にファンはたくさんいたのよ。だけど、学校を辞めて、どこかへ行ってしまった。再会した時には、先生はもう亡くなっていた。だけど、あの人と結婚しているなんてね……」
 酔って、いるのだと思う。母はいつもより饒舌だった。
「あの人、ずっと怖がってた。皐月先生に憎まれているから。俺が無理矢理奪ったようなものだからって。だけど、そんなことある訳ない。あの人、臆病だもの。きっと理由があったのだろうけど、先生は、どうしてあの人となんか結婚したのでしょうね?」
「……私がいたから?」
「…………ふ、ふふっ。だから、その前の話」
 母はそれからひとしきり笑った。お腹を抱え、息をつき、突然我に返ったように、
「流星群、見に行くの?」
 と言った。
「事故だけはないようにね。……千早みたいに」
 そして、彼女は部屋を出て行った。

 流星群の当日、私は家を抜け出して、つかさのアパートに向かった。部屋を訪ねると、つかさは電話をかけたにもかかわらず、驚いた様子だった。これから流れ星を見に行くと告げると、諦めたように溜め息をついた。
 つかさは十分ほどで支度をすませ、部屋から出てきた。手には陽合羽《サンコート》を持っていて、それを私にかぶせた。
「この間みたいなのは、勘弁して」
 流星群は黎明から払暁までがピークとのことだった。私は分厚いサンコートを羽織った。つかさの匂いがした。
 私たちはつかさの自転車を、海岸線まで走らせた。つかさは私がふらふらしてると言って、怒った。怖くなかったけど。
 波の音が聞こえると、海はすぐそこだった。私たちは自転車を下りて、防波堤を歩いた。星灯りが、狭いゴーグルの視界越しに道を照らしていた。潮の香りが波に合わせて、行ったり来たりする。波音にまぎれて、遠くで水の破れる音がしていた。月光雨だった。
 まず、ゴーグルを外したのはつかさだった。ポンチョのフードを抑えながら、つかさは空を仰ぐ。
「どう?」
 と私が尋ねると、つかさはこちらも向かず、見てみなよ、とだけ言った。
 ゴーグルを浮かせて、足元から確かめた。光はそれほど強くない。いつでもゴーグルをかぶせられるよう手でキープしながら、ゆっくりと顔を上げた。ほのかに色づく水平線、そこへ向かって、何かが一直線に落っこちた。
「あ!」
 思わず、声が出た。私は空を見上げる。星の海があった。手を伸ばせば届きそうな距離に、私たちを蓋する白銀と漆黒の天上があった。流れ星は、その天井に青白い引っ掻き傷を残していく。消えては現れる星の指先と、その軌跡が幾条も伸びて、夜空を縫い上げた。
 つかさ、写真。と叫ぼうとして、横を見ると、彼女は既にカメラを構えていた。シャッター音が、心臓のリズムみたいに早かった。
「睦月、そこに立って」
 つかさが指差したところへ立つ。
「ちゃんと撮れてる?」
「分かんない。けど、撮らなきゃ」
 私たちはしばらくの間、星空の下で慌ただしくしていた。やがて、フィルムが残り少なくなってくると、興奮も落ち着いてきた。私とつかさは防波堤のへりに座って、変わりゆく水平線の色を眺めた。夜明け前の海は想像よりも寒くって、私たちは身を寄せて、サンコートにくるまった。
「睦月、ちゃんと見えてる?」
「見えてるよ」
「じゃあさ、あれ、何色?」
 つかさが指差すのは、海と空のあわいの透明だった。
「あの色にも名前があるのかな」
「つけちゃえば?」
「何て?」
「薄明色とか」
「それ、もうあるんじゃない?」
 なんて、くだらない話をした。
「ねえ、睦月。聞いてもいい?」
 サンコートの中で握り合った手は、少しだけ冷たかった。
「睦月は、視力いくつ?」
「聞きたいことってそれ?」
「いいから」
「えーと、いくつだったかな? でも、どうして?」
 もぞり、とつかさは身体の向きを変えた。彼女の小さな顔が、薄明の光でくっきりと見えた。
「睦月は弟の顔を思い出せないって言ってたけど、それってさ、睦月の目が悪いからじゃないかなって」
 ネットの掲示板に書き込みがあったんだ、とつかさは続けた。
「睦月の目、失明の兆候があるって。もし、それが前から続いてたなら、思い出せないのは睦月のせいじゃないよ」
 ごめん、とつかさは言った。
「それが言いたかっただけ」
 私はつかさの言葉を噛みしめた。
 向こうで、空から降ってきた月光雨が水しぶきを上げる。ゆっくりと音が届いて、余波が私たちの足元へ寄せた。光の柱は自壊しつつ、驚くぐらいの遅さで右へと倒れた。
 世界の果てから、もうすぐ太陽が顔を出す。

 私は二人と話し合った。私が聞きたかった三人の関係や、弟の話。それと、これからのこと。一人暮らしをしてみたい、と初めて、二人に話した。父と、千穂さんは黙って、頷いてくれた。
 少し泣いてしまったけれど、前に進めた気がした。罪悪感は感じなくなったというと嘘になる。だけど、もう弟を、千早を言い訳にはしない。
 私たちは、そう決めた。
 だから、まずは新しい生活になれるところから。
 私はつかさの家にお世話になることになった。一人暮らしは心配だという両親への言い訳だ。家事を折半して、時々、写真のモデルになることが条件だった。
 それと、流星群の日に撮った月光雨の写真が、ネットでまた評判になった。そのおかげで、つかさから少しばかりお金をもらった。ひとまずは、それで家具を揃えるつもりだ。
 つかさは、この勢いで社会に革命を起こす、と本気とも冗談ともつかない話を、私にした。
「視覚優位社会を取り戻す」
 とかなんとか。同居人が気難しそうで、前途多難だ。
 だけど、それを笑ってみようと思う。千早が言ったように、楽しいことを楽しいと言う練習をしよう。それがこれからの私の生活だ。
 月光雨は、今日もさめざめと降っている。

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