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六枚掌編「スクランブル・エッグ」

タイトル「スクランブル・エッグ」

 私を迎えに来た黄色のフィアットは、高井戸ICで中央道に乗っかった。正面から降りつける雨を弾いて、ワイパーがきゅっきゅっと音を立てる。先輩は泣いていた。
 ――ロータリーをぐるりと回り、先輩のフィアットが私の前に止まった。手回しのノブを動かして、窓を開け、先輩が私を見上げた。頬には涙の跡がある。ごめん、遅くなった。雨の中、待ち続けた不安は明るい車体を見たときに、もう消えていた。世界が灰色に見える中で、先輩の車は鮮やかな色を保っていた。雨はもう一週間ほど続いている。行先はまだ聞いていない。とにかく乗り込んで、走り出した。要る? 差し出された右手にピースの箱。一本受け取って、火をもらう。小さく開けた窓から、雨粒が飛び込んだ。青く見える煙が車内に溜まる。スピードを増すごとに、フロントガラスに降りつける雨は激しくなっていき、窓の外の景色は水煙の中へ濁る。誰も恨んではいけない。幸せも不幸も、炒り卵のようなものならば。先輩はギアをトップに入れた。巡航スピードで、競馬場とビール工場を通り過ぎたら、歌の通りに、この道は滑走路へ変わる。古い、鉄の身体の車では、雨の音も剥き出しに伝わって、雨垂れの音だけで全身がずぶ濡れになったみたいだった。洟をすする音がして、フィアットはスピードを上げた。アウディが猛スピードで追い越してく。立てた水しぶきを全部浴びて、心もとないヘッドライトがハイウェイの繋ぎ目に合わせて、がくだんと揺れた。雲の上は晴れている。私も先輩もそれを知っていた。高度を上げろ、とカーステレオが叫んだ。きっとチューニングが間違っている。誰も知らない航路を、飛んでいるのだから。メーターが振り切れる。針は数字のないところを差していた。先輩。呟いた自分も聞こえなかった。手の甲で涙を拭い、ティッシュある? スピードを緩めることなく、洟をかんだ。私は横からハンドルを握り、山に向かって続く、果てしない道路の先を見つめた。乗り物は視線の先へ進むという。けれど、望む場所とは限らない。先輩の眼差しを、眼差す先を、私も見つめていた。矢印が屈折していた。また別の矢印が、そこから伸びる。それが時々振り返るとき、先輩の瞳は輝いた。かん、かん、かん。雨音に混じって、金属音が断続した。エンジンだった。焦げ臭いにおいがダッシュボードの方から流れて、車内を満たした。先輩。今度は少し声を張った。私の方へ視線を寄越して、目で訴える。スピード緩めましょう。かん、かん、かん。エンジンの熱で蒸されて、中は汗ばむくらい熱くなっていた。ハザードランプを焚いて、フィアットを路肩に止めた。雨が天井に降る。ハンドルにもたれかかって、先輩は何かを呟いた。呻いた? 中央道に車の影はなかった。ラジオは砂嵐を流し、孤立したフィアットに雨が降る。ここはどことも繋がっていなかった。心臓も雨も、水の音だと思った。私はピースに火を点ける。甘い煙が舌を舐めた。吐き出すと、それは窓の隙間から、天に昇っていく。すぐに見えなくなるけれど。かん。かん。金属音は間をあけて、だけど続いていた。エンジンは切らずにある。次に、かかるとも限らない。煙草をもみ消して、口元へ寄せると、指に匂いが移っていた。私は靴を脱いだ、ジャケットを後部座席へ投げる。イヤリングを置いておくドリンクホルダーを探したけど、なかった。背もたれを倒し、狭い座席に胡坐をかく。時折、ワイパーが思い出したように動いて、私を驚かせた。先輩の嗚咽に合わせて、ピアスが震えた。私の手が触れると、先輩はゆっくりとこちらを向いた。背中を撫でおろし、先輩の華奢な身体を思った。先輩の身体はあたたかくも、つめたくもなかった。そんな自分が嫌だった。代わります。ドアを開けて、運転席の側へ回った。窓を叩く。先輩は私を見上げて、それから助手席へ移った。たった一瞬でずぶ濡れになってしまった。シャツで頭を拭って、ジャケットをシートの上に敷いた。サイドミラーの中には、灰色の風景だけがあって、黄色い車体は映らなかった。どこまで? 返事はない。だから、行けるとこまで行くんだ、と思った。ゆっくりと車を滑らせる。クラッチは少し難しかった。対向車線をパトカーがのろのろと行った。私もスピードを上げなかった。ラジオをAMに切り替えると、ラモンズが聞こえた。いつの間にか、ラジオが聞こえるくらい雨が弱くなっていた。フィアットは西へ向かう。ヘッドライトの光が濃くなっていく。道は山あいに入り、夜が近付いてくる。先輩は眠ってしまった。オレンジの街灯が、一つ通り過ぎては先輩の寝顔を照らした。雨の終わりの向こうは、すっかり暗くなっている。どこかでガソリンを入れなくては。次のICで降りて、ガソリンスタンドに入った。隣のコンビニでおにぎりとお茶を買い、車の中で食べた。先輩は眠ったままだった。来た道を戻り、今度は上り方面に乗った。光の多い方へと順調に進んでいたが、府中ICから車が多くなり、ついに動けなくなった。遮音用の高い壁に挟まれて、ハザードランプを焚いた車がゆっくりと、星の巡る速度で進んでいく。時折光るブレーキランプの赤色が、何かの交信のようで、雑多な車の群れが深海魚のように見えた。綺麗だった。目をやると、先輩が寝返りを打っていた。私の方に背を向けている。起こそうかと思った。だけど、夢の中にいるのは私の方なんじゃないかって。
 雲の切れ間から星が見えた。

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