短編 「翳りゆく夏」

 その日の始まりを、私は覚えている。あまりに象徴的で、皮肉のたっぷり詰まった、一つの小事件から、あの一日が始まった。
 分厚い遮光カーテンに遮られ、部屋は朝だというのに、海の底のような暗さだった。わずかに、カーテンの隙間から漏れる光が、海中に差し込むオーロラの輝きと同じように、部屋の中に幕を下ろしていた。
 私は、最低温度に設定されたクーラーに身を任せ、毛布にくるまり、少しの安心をだきしめて、眠っていた。風邪を引いてしまいそうな部屋で、何かに包まれ、あたためてもらうことに、あの頃の私はひどく熱心だったのだ。冷たくなった頬の産毛を、手の平で包み、冷えて固まった柔肉をもみほぐすのが好きだった。
 目覚ましは定刻通り、鳴った。夢の中で鳴り響くベルに、私は鈍感であり続ける。それは避難を促すサイレンなのかも、という想像力は働かない。ただ、心地良い夢の中に、不協和音が混じってしまった、と、毛羽立つ不快感によって、そう感じた。
 一方で、身体は、じりじりと鳴り続ける不快な時限爆弾を、何の変哲もない目覚ましだと理解しているので、気怠げに手を伸ばし、停止へのステップを踏む。
 音がやんだことに、すっかり油断した私の意識は、脊髄反射的に、時間を確かめた。夢は既に、ぱちんと弾け、朝に溶けていく夢の分子というべき何ものかの代わりに、あと何分眠っていられるか、という打算が、私の頭の中を埋め尽くしていく。
 眠ることで失われるという自己同一性の幻を、私はやすやすと、十五分間の惰眠と引き換える。時間を確認するために頭をもたげた私という存在は、ここで一度、死に至り、スヌーズによって再起動する時限爆弾の爆発で、再び甦る。そういうトレードを、打算も駆け引きもなく、行なえてしまうのが、人が動物たる証拠に思えた。
 果たして、私は次の目覚ましによって、めざめた。
 私は夏バテのトドのように、緩慢に起き上がり、ぼさぼさになった髪をかき上げ、部屋を見渡した。
 ローテーブルに並んだ、スナック菓子の袋、飲みかけのペットボトル、蓋が半分開けられて状態で放置されているカップ麺。そして、律儀に整列させられた、二つの蝉の抜け殻。
 視線を移すと、キッチンでは洗われていない食器が、シンクからこぼれ落ちそうに、積み重ねられていた。
 私は溜め息を吐いてから、立ち上がり、キッチンに向かった。途中、リビングのスイッチを入れると、なぜか、部屋の電気が点かなかった。二回、三回とスイッチを押しても、状況が改善する気配はなかった。つまり、それは気付かぬうちに、終わってしまっていたということだ。
 これが私を襲った、一つの小事件。もちろん、これは始まりにすぎず、この後には歴史の必然として、大事件が起こる。いや、歴史家は、小事件が起こったからこそ、大事件が起こったのだと言うのかもしれない。
 冷蔵庫を開けると、備え付けの灯りがしっかりと中を照らし、停電ではないことを知らせてくれた。
 冷蔵庫からペットボトルを取り出し、ほんのりと苦みのある、気の抜けた炭酸水を飲み干して、私は右の二の腕を掻いた。二日前に出来た擦過傷は、既にかさぶたになっていたのだけれど、一つ一つが小さくもろいかさぶたは、肌が引っ張られる程度ではがれ、ぱちぱちと火花を漏らす。時折、ぴりぴりと音を立てては、かゆくなり、かさぶたは、何度も固まっては剥がれ落ち、一向になくならなかった。
 今、私は彼からの電話を待っている。
 私は、リビングの電気をいくらかいじって、仕方なく、カーテンを開けた。マンションとマンションの谷間にあるような、この部屋には、しっかりとした形ある光は差し込まない。うすぼんやりした、弱々しい光が都市のビル群を渡り、漂着する。
 ほとんど足を踏み入れないベランダには、彼が置いていった、風鈴が孤独に下がっていた。ガラスの中に閉じ込められた真っ赤な金魚が、風に合わせて、ゆっくりと回り、夏の白っぽい空を泳いだ。
 もう、夏も終わろうとしていた。風鈴の音色も鳴りをひそめ、彼岸の頃より、おとなしくなった。あまり弱い風にはそっぽを向いて、ひかえめな音を、時折響かせるだけだ。
 ちりん、と聞こえるか聞こえないか、という小さな音で、風鈴が鳴いた。
 私が、窓を開け、そのかすかな音を、もう一度、確かめようと、身体を乗り出した時だった。
 リビングで、電話が鳴った。風鈴は風に吹かれ、涼やかな音を鳴らしたが、コール音にかき消され、私には届かなかった。
 私は不思議と、電話の音に、鼓動を早くした。予期しないことではあったけれど、なぜ、私はどきりとしたのだろう。もしかすると、私はその電話から始まる出来事のにおいを、既に嗅ぎ取っていたのかもしれない。
「もしもし」
 電話を取ると、彼の声がした。
「朝早くにごめん。もう起きてた?」
「どうしたの?」
「いや、ちょっとね」
「何?」
「あのさ、今日、会えないかな? 大切な話があるんだ」
 私の読まないSFの小説。彼が持ってきては、私に読むよう言って、置いていった。私の部屋の臭いを吸いこみ、すっかり埃をかぶっていた。本の山は時を重ねるごとに高くなり、生活の澱が堆積していくように、わずかなスペースを埋めていく。開いたことのない本の小口には、過ぎた時間の証明のように、染みができていた。

 仕事を終えた私は、彼が指定したバッティングセンターに車を停めた。幹線道路の脇にある、小さな古い店だった。小さな店を大きく見せようという工夫なのか、うるさいくらいにライトが付いていたけれど、店の周りは、煌々と灯りの点いた幹線道路の中で、一層、暗かった。。
 店に入るとすぐに、彼に声をかけられた。彼の他には、客はいないみたいだった。コンクリート造りの床に、私のヒールがこつこつと音を立てる。
 彼は店の一番奥の、百六十キロコースの前のベンチに座り、いつもは吸わない煙草をふかしていた。
「煙草?」
「うん」
「一つ、ちょうだい」
 私は彼から一本だけ受け取って、静かに火を点けた。
 彼が腰掛けるベンチの横の窓は金網が張られ、監獄のようだった。その向こうには暗渠になった川が流れているのか、絶えず、水の音がする。恐らく、川が一部分だけ顔を見せているのだろう。バッティングセンターの灯りを反射して、店の天井に虹が映った。
 煙草は、聞いていたよりも苦くなかった。むしろ、添加されたバニラフレーバーばかりが鼻について、不快だった。煙草を吸ったのはそれきりだ。面白くもなかったし、私の中に熱い何かがねじ込まれるということもなかった。
「少し、やってみる?」
 煙草をもみ消して、彼が立ち上がる。適当なバットを見繕って、打席に立った。
 ばすん、ばすん、とリズムよく、小気味いい音が続く。彼のバットが空を切り、投げられた球が、ネットに当たる音だった。
 根っからのインドア派の彼に、バットを当てられる訳がない、と私は思っていた。
 彼は盛大に空振りすると、眼鏡を持ち上げ、照れ笑いを浮かべて、バットを構え直した。
 私はそんな彼を見るとはなしに見ながら、意識は裏手を流れる暗渠の水の音に向かっていた。
 都会のコンクリートジャングルの下を、うねうねと蛇行しながら、這っていく川の流れ。暗い、音だけが反響する側溝を、瞳の白く濁った蛇が渡っていく。空洞だらけの都会の地下、無数に枝分かれした暗渠は、盲目の蛇たちの穏やかな住処なのだ。
「ねえ、賭け、しない?」
「……勝ったら、私の言うこと、聞いてくれる?」
 彼は相変わらず、ふにゃふにゃと情けなく笑った。
 私は、こういう彼の意気地のなさが好きだった。優しくて、弱くて、自分というものが希薄な彼が。
「決まり。それじゃあ、先にホームランを出した方が勝ちね」
 彼はええっ、と驚き、言い訳で口をもごもごさせた。
 私は彼の口答えを無視し、程よい長さのバットを手に、バッターボックスへ入る。
 正面のディスプレイに、恐らくはプロの野球選手と思われるピッチャーが映り、ゆっくりと投球フォームに入った。
 表示された時速百キロは、思ったより早くないと感じた。二球目に振った私のバットは、凡打ながらボールに当たり、白球は前へと転がった。
「う、上手いね」
 危機感を覚えたのか、冷や汗を流しながら、彼が言った。
 私も何か返事を返そうとした時、次の球が飛んできた。バットにかすったボールは、ファウルだった。
 けれど、今思い返しても、どうして私は彼のつまらないプライドに付き合っているのだろう。既に、私は彼の大事な話の内容を、それとなく察知していたのだ。
 それはその日、電話が掛かってくるよりも前に、ずっと彼の身体からかすかに匂った、倦怠のにおいであり、私自身が発する、諦めの香りでもあったのだ。
 私は、まだ彼に未練を残していたけれど、それが彼を引き留める理由にならないことくらい、分かっていた。だからこそ、この話は彼が語り始めなければいけなかったし、私はとろとろと垂れる、時間の蜜をすすり続けなければいけなかった。
 この最後の時間だけが、私に残された彼との甘い時間の名残だと、知っていたから。
 今、私は私をあわれな女だと思う。男の腕に縋りつき、泣き叫ぶ女の姿を、一人、バッターボックスに立ち、彼など視界にないみたいに振る舞う彼女の中に見つける。
 それは、報われることのない恋なのかもしれない。あるいは、乙女心が見せる、青春の幻。けれど、私たちは既に歳を取りすぎているように思える。青春というには滑稽で、恋心と呼ぶには醜すぎた。
 私たちの関係は腐り果て、甘酸っぱい腐臭に満ちていた。
 その後、私たちは閉店間際まで粘ったけれど、私も彼もホームランを打つことはできなかった。
 私たちは気付くべきだったのだ。この遊びが、決して二人じゃできない遊びなのだと。
「勝負、どうしようか?」
 彼が薄笑いを浮かべながら、言った。
 私たちは店の外に出て、残った煙草をふかしていた。店の灯りは段階的に消され、店の脇の喫煙所(灰皿を置いただけのスペース)はすっかり闇の色に飲まれており、私から見る彼は、逆光に包まれ、表情も見えなかった。
「どうする?」
 私はあくまで、はぐらかすつもりだっただろうか? 彼が一言、いってくれれば、私はただ頷いて、彼と別れたのだろうか?
 彼は一口だけ吸った煙草を消し、気まずそうに頭を掻いた。
 私は、どこかで言わなければいけない、とずっと思い続けていた。心の中で、彼に終わらせてほしいと願っていたけれど、彼は私の望みを裏切り続けた。
「そういえば、大事な話って何?」
 私は、二人の関係に自分で終止符を打つ決意をした。自分のことを好いていない相手の隣にい続けることなんて、できないのだ。
「……」
 彼は、すぐには話し始めなかった。
「話があって、呼び出したんでしょ?」
 私はなるべく機嫌のいい声を出した。これが最後だと分かっていたから。それが、大人の処世術だと信じて。
「あのさ、俺たち、もう別れよっか?」
 私は、ほっと息を吐いた。
「何だ、そんなこと?」
 記憶の中の私は、割と上手い演技をする。私の浮かれた声は、彼に見破られていたのかもしれないけれど。
「分かった。別れよう。部屋にある荷物は――」
「由実、ほんとにいいの?」
 私の言葉を彼が遮った。
「え?」
「ひょうひょうとして、俺、由実が分からないよ。俺たち、五年も一緒だったのに」
 結局、彼は見抜いていたのだろう。もしかすると、情けない男の感傷なのかもしれないけれど、彼が言いたかったことは、つまりこういうことだろう。
「俺と一緒にいるのは、そんなにつまらなかった?」

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