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短編 「銀楼と狗」

 人喰い狗が手負いを受けた、との報が知れたのは昨日のことだった。
 狗追いに参加した日雇い人夫は、肘から先のなくなった右腕をさすりながら、こう言った。
〈あれは人の姿をしている。人の皮を被った化物だ〉
 鐘の高く鳴る霧の夜、将軍と、その部下の指示する声に追われるように、男が街を右往左往していた時のことだった。小暗い石造り石畳の路地には霧が溜まり、流れの滞った下水は暗い水鏡となって、沈黙していた。外出禁止の令の布かれた街並みは、いずれの家も鎧戸を閉め、一個の堅牢な砦めいて見えた。激しく打ち鳴らされる鐘の音は、街のどこかで男たちが狗を追い立てる音であり、霧の中から立ち現れ、何かを鋭く怒鳴っては、蹄の音を残して去っていく騎馬の兵士の声でもあった。男は、その日、偶々、街に居合わせた水夫と共に、鐘の響きが求めるまま、街を走り回っていた。眼病の老婆の瞳めいて、白く濁った霧の中、男は数十年と住み慣れた街のここがどこだか、見当が付かなくなっていた。深い霧を抜けて、見えるのは路地、また路地。辻をまたぎ、袋小路を引き返し、天と地が入れ替わるような忙しさで、妓楼へと続く坂を下っていると、にわかに人の声が立った。男はその声が、二歩、三歩と間のない丁字路の先から聞こえるものと判じ、そこへ出て、一つ、人喰いを仕留める算段を付けた。果たして、男が道を左に曲がると、彼は黒いものとすれ違った。咄嗟に出した右腕に熱いものが触れ、ぼたぼたぼた、と垂れた滴が先走る。見れば、黒い影の背には、逆立つ毛並みに反して、幾本もの矢が突き立てられている。我が意を得たり、と男が気焔を吐くと、隣に立つ水夫が膝を突いて、崩れた。両手で喉を抑え、前傾して、彼は自らの腹を覗き込むような格好をしていた。霧の中でも分かるほど黒目をぎょろつかせて、水夫は何かを探していた。抑えた指の隙間からは、赤黒い血が帳を垂らしたように落ち、大粒の雨垂れに似たような音を立てる。そこで男は、自らの右腕がなくなっていることに気付いた。白い稲妻が痛みとなって、男の身体を打つ。ぼたぼたぼた、と血の滴る音にまじって、人喰い狗の哄笑が聞こえた。或いは、それは男の幻聴だったのかもしれない。
 将軍がその場に駆け付けた時、路地の霧は既に晴れ、狗の通った跡には兵士たちの屍体が累々と転がり、石畳を暗く濡らしていた。その屍体の群れの切っ先、先頭に男がいて、彼は右腕を抱えるように、うずくまっていた。
 狗はそこで追っ手を振り払ったのだろう。兵士が番え、射た矢が道端に打ち捨てられている。その矢の中には、狗の青い血を付けた鏃があり、点々と続く血痕は、街の中心、高くそびえる銀楼の、きらびやかな花街を目指していた。
 ルゥがその噂を聞いたのは、姉と慕うリンとお客の床の間での寝物語であった。絹のすれるようなささやき声が、室に引っ掻き傷を付け、そこからぽろぽろとこぼれる砂粒のような瘡蓋をかき集めて、ルゥは隠し扉を開き、廊下へ出た。歳は十二、といってもほとんど童女と変わらない体躯の彼女にしか、遊郭の秘密を満足に扱えない。かつて、楼の内を口もきけぬ侏儒が働いていた名残として、人の背の丈の半分ほどの狭い通路や部屋が、客に見えないように配されていた。もっぱら給仕や配膳の動線として作られた通路であったが、妓と客の蜜月が筒抜けで、夜毎、それに聞き耳を立てては、羽のように軽い噂が楼から漏れた。当然、口のきけぬ侏儒の口からこぼれたのではない。通路に住む虫が、堅い背甲に醜聞を滲ませるのだという。そして、ルゥはその隠し通路で遊ぶ、一人の子どもであった。
 彼女は羊毛でできた深紅の絨毯の廊下へ這い出ると、空咳をし、ぱたぱたと小さな足で駆けだした。夜も更けた妓楼は寝静まり、人の吐息さえ聞こえそうな心地がする。天井からは人が悠々と入る大きさの燈籠が下がり、中には、膝を抱えた人骨の輪郭が見えた。燈籠の中に詰められた人間の怨念が青白い光を放ち、閉じ込められた魂は百年も二百年も灯り続ける。大人一人を材とする人燈籠は高価で、市に出回ることも少ない。多くは罪人が詰められ、時に激しい怒りで、燈籠が赤く爆ぜることもあった。月灯りに照らされたように冴えた廊下を、ルゥの足音と、かすかな歌声が響いていた。
 花街の中でも、中心に位置し、一際高くそびえる銀楼は、かつて三恒と呼ばれた歌姫が立った舞台のその跡にある。花街の歴史を作ったといっても過言ではない三恒の歌唱は、勇魚取りの寄港地としてあった古都の色を変えた。もう、百年ほども前のことである。三恒の内、一人は若くして、自殺した。原因は美貌のために飲んだ妙薬が身体を蝕んだため、だという。もう一人は春の晦日の夜に北方の男の元へと嫁いでいった。消えるようにいなくなった彼女の噂は、街角で酔い潰れた阿片中毒者の数だけ流れ、どれが真実かは分からない。ただ一人、街に残った犀星がそのように語っているのを、ひとまずの真実としている。
 犀星は二人が去った後も舞台に立ち続け、そして、銀楼を立てた。己の才気を誇るような高い塔に電飾や銀箔を重ねていく内に、花街は楼の裾野から広がっていき、ついに町の中心を占めた。齢百二十を超える犀星だが、今日もほの白い燈籠の灯りの下、昔と変わらぬ若々しい声が、楼閣に響く。
 ルゥはそれを子守唄に、中庭を抜け、奥まった一間へ滑り込んだ。格子が立てられ、座敷牢の風貌をした、その室は、皇帝の子を孕んだという遊女が幽閉されていた一室である。十月十日、室に籠もった女は、ついに臨月を迎え、子を産んだが、のちに命を絶った。皇帝からの刺客の仕業とも、産み落とされた人ならざる赤子の凶行とも言われているが、ルゥは少しも恐れるそぶりを見せず、むしろぽんぽんと手を鳴らし、遊女の怨念を招くような仕草をする。東の島国から連れてこられたルゥは妓楼で孤独を持て余している。親に売られたことを理解できない年でもない。ただ、誰もが気忙しく往来し、夜になれば仕事へ出て行く姐たちの間で、構われないことにふてくされていた。
 ふと、銀楼を包み込んでいた犀星の歌声が途切れた。古時計の鐘が遠い耳鳴りのように、夜の冷ややかな空気を震わせ、かたり、かたりと敷居の中で襖が揺れた。
 それはまるで、来客の先触れのようにルゥには感じられた。リンの寝床で聞いた寝物語を思い出し、人でありながら狗へと身をやつした女のことを想像する。ルゥの中で、人喰い狗は女であった。妓楼を目指し、人の喉を喰いちぎって、闇を一目散に駆け抜けるものは、どうあっても女である。伸びるに任せた長髪は鬼神のごとく乱れ、あばら骨の浮き出た胸や背中に突き刺さった鏃は濡れて、やつれた狗の身体はさぞ卑しかろう。空の左手に空想の赤子を抱き、あやす声は破れ障子に吹き込む隙間風。知らず、ルゥは母のイメージを狗に抱いているらしかった。
 では、妓楼を目指す理由は何だろう、とルゥが頭をひねった時、胸の辺りから苦々しいものが上がって、ルゥの喉を焼いた。彼女は慣れた様子で上体を折り、裾に口を当て、空咳を繰り返す。幼い喉を締め上げるように咳をするので、ルゥの喉は結核患者のように紅くなっていた。部屋に下げられた空の鳥籠は、そんなルゥを見舞って、姐たちの一人が市場から不如帰を買って来た名残であった。だが、不如帰も狭い檻に耐えかねたのか、一月もしない内に自らの羽を毟り取り、亡くなった。世話をもっぱら姐たちに任せ、不如帰を可愛がっていたのかどうかも分からないルゥは、それでも不如帰を埋める時、真珠のような涙を流して、それを弔った。銀楼へ来て以来患った咳を、彼女自身、気に病んでいたのだろう。不如帰の死は自らの境遇を重ねるのに充分だった。
 ルゥは曲げた身体を起こし、ゆっくりと息を吐いた。握り締めた着物の裾には赤黒い染みが、円形に滲んでいる。目尻を濡らし、ルゥは血の跡をくしゃりと握った。
 次の日の朝、白砂のような微光を背にしたリンの声で、ルゥは目を覚ました。寝惚け眼をこすり、顔を上げると、逆光の中にリンが真っ黒い影となって見える。リンはルゥの横に膝を揃えて座り、彼女の肩を揺する。リンの後ろでは欄干の上で、漂白された朝の光の柱をついばむ小鳥の姿が見え、下男下女が面倒そうに小鳥を追い払いつつ、廊下を渡っていた。
〈寝室には来るなと言ってあるだろう〉
 わずかに頭を上げたルゥに向かって、リンが柔らかな声を立てた。ルゥが首を振ると、とん、と眉間に指を立て、咳が聞こえた、とだけ口にする。ルゥは孤独と有閑とを言葉にしようとして、口を開いたが、いかに得心させようかと考えたところで分からなくなり、口をつぐんだ。すぐに喉で棘が立つような心地がして、空咳が出る。
 リンはルゥの身体を起こして、背中をさすった。幸い、咳は一度か二度で収まり、血が出ることもなかったが、リンを頑なにするのには充分だった。彼女は目元を引き締め、怒ったような顔をして、あんな夜中に寝室まで来るからだ、と言った。
〈今日こそ、薬をもらってくる〉
 光の照り具合によって、銀髪のようにも見えるなめらかな黒髪をなびかせ、リンは部屋を出て行ってしまった。
 薬屋は新町に並ぶ三階建てのコンクリート造りのビルの中にあった。一家伝来の古書に基づいた昔ながらの呪い師というべき薬売りで、人を殺める呪術から子を堕ろす瀉剤までを扱っており、そのため銀楼とは浅からぬ縁があった。初めてルゥが薬屋を訪ねた時、壁には少年の手に見える、干からびた前腕が猿の手と称して売られていた。果たして、それは本当に猿の腕だったのかもしれないが、人肉さえ薬にするという噂を耳にしていたルゥは、勝手にその腕を人の、年若い美男子の腕と決めつけた。猿の腕の隣にあった、瓶詰の触れば崩れてしまいそうな白魚の標本も、ともすれば、人の胎児だったのかもしれない。その時も薬売りの老婆はしわがれ、ひび割れた顔を友好的に魅せようと笑い顔を作り、皺をさらに深めて、ルゥに空咳の治療薬をすすめたが、金の他に付けられた条件を聞いて、ルゥは薬を諦めたのだった。興奮したリンを埃っぽい建物の外に連れ出し、なだめたのはルゥの精いっぱいのわがままであった。
 リンは、銀楼の姐たちの中でも、特にルゥのことを目にかけていた。自身が既に妓として歳を取りすぎていることも関係しているのかもしれないが、東の島国から連れてこられたルゥに、強く同情を寄せていた。リンはほとんど産まれたばかりの頃から銀楼にいる。出身は東方とだけ聞かされて育ったせいか、生まれ故郷へのあこがれが強く、東の地の果てに楽園を夢見ている。だからこそ、ルゥが不憫でならないのだろう。何かと手をかけ、ルゥの面倒を看るのは、ほとんど母性に近かった。
 朝の銀楼は慌ただしい。夜明け前に帰っていく客を見送ったものと、これから起き出してくる客を追い出すものとが入り乱れ、廊下は人の往来を受け止める血管となり、喧騒という喧騒が楼の窓という窓からこぼれだす。
 ルゥは室から頭を出して、遠く聞こえるざわめきに耳を澄ませた。まだ夜の名残の見える濃紫の空を見上げ、リンの長い髪を思った。
 薬売りが金に上乗せて、要求したものは、リンの髪の毛であった。月灯りの夜の色をした長髪は、光を受けると冴えた金属質の輝きを放ち、それは大層美しい。街中でも一目、リンの髪色を眺めてみたいという声が男も女も隔てなく聞こえ、その声は、必然としてリンの名声を高めた。彼女の輿入れが決まったのはつい最近のことで、先日の夜も、彼女の元を訪れたのは婚約者の商売人であった。彼はリンを銀楼から買い上げるために船一隻分の金貨を購い、やがて航路を辿り、リンを連れて行く。二人の関係をルゥはほとんど知らない。
 だが、髪を質に入れ、薬をもらってくると言ったリンは、もしかするとルゥを養子に引き取るつもりでいるのかもしれなかった。いまだ客を取ったことのない娘一人、頭は賢く、顔は幼さの残る容貌ではあるが、鼻筋の通った顔立ちはきりりと美しい。リンのついでに手に入れられるとするならば、それは悪い買い物ではないはずだった。
 しかし、ルゥは気に入らない。わざわざ島国から連れてきた自分を、犀星がそう易々と手放すわけがない、と思っている。今は故知らぬ老婆となり果てたとて、才気と商才によって唯一人で銀楼を建て、花街を広げた犀星が何の得もなく、自らの籠の中の鳥を他人にくれる道理はない。確かにリンに付いていって、彼女を心優しい母と崇め、父の財力で教育を受けて、一端の女性へと成長する道は幸せであろう。だが、それによってリンに不利益をもたらすことを、ルゥは良しとしなかった。妹のようにかわいがってくれるリンに、そのような重荷を背負わせることになるのなら、彼女は楼閣で客を取り、日毎、擦り減っていく美を日常というやすりにかけて、切り売りする方がどれほど幸せか知れなかった。
 敷居の上に尻を乗せ、ルゥは先が霞むような長い廊下を見るともなく見た。がやがやと人の話し声の余韻がさざ波めいて耳を揺らす。張り詰めた表情で三人の下男下女が、室の前の廊下を駆けていくと、ふと喧騒が遠くなり、騒がしさから抜け出た一種の安楽がルゥを包んだ。春の陽だまりに似たあたたかな網が、羽根布団のように心地良い重みで静寂を掴まえ、空間そのものが凪いでしまったように、音も気配も、熱でさえも口をつぐんだ。
 りぃん、と鈴の音のような声がして、何かがルゥの頬を撫でた。震えるような声は頬をそわつかせ、内耳をくすぐった。
 声は、室の鼻の先の軒下から聞こえた。りぃん、りぃんと半ば喧騒にかき消されながら、何かが鳴いている。ルゥは四つん這いの姿勢で廊下へ這い出て、朱に塗られた欄干から身体を乗り出した。
 床下は塗りこめたようなくらやみだった。そこに黒く塗りつぶされた壁があると言われても、ルゥは納得しただろう。彼女の手が届くか届かないかのところまで朝日が照らしていたが、その先は濃淡もないほどの真っ暗闇だ。だが、ルゥはそこに生き物の姿を見て取った。といっても、正確に姿を見つけたのではない。暗闇の中に開かれた瞳の、その丸みに反射するくらやみのわずかな差異に気付いただけのことである。白目のない瞳が、ルゥに見られて、かすかに動揺したように思われた。視覚では判断できないほど微細な動きがあって、それは口を開いて、りぃん、と鳴いた。開いた口は血の紅。さざ波だった上顎の形が露わになり、喉を見せつけて、それはもう一度、りぃんと鳴く。大きさは子猫のようだったが、口を開いた様子は鳥の雛のようでもある。くらやみにまったく馴染んでいる所を見ると、毛並みも夜に劣らぬ漆黒だろう。うるさいくらいに鳴くそれは、ルゥの姿を一心に見つめて、何かを催促しているようだった。およそ腹でも空かせているのだ。ルゥは床下のくらやみにぽっかりと浮かぶ、真っ赤な口蓋を眺めて、軽く咳払いをした。途端に、喉が悪くなる気配がして、ルゥは身体を起こし、口に手を当てた。喉がひりつく感覚に続いて、胸に苦いものが広がる。砂鉄の細かい粒子が内出血の痣のように花開き、空いた風穴から溢れた血が喉へとせり上がる。
 ルゥの意識が白くなり、吐き出した血の塊が意識の帆布を紅く染めた。強く瞑ったまぶたの隙間から熱いものがこぼれ、頬を伝う。ルゥの意識の中では涙さえも紅い色をしている。咳をするためにかがめた背が軋み、燃えるように熱を帯びる。内側から自分を蝕む熱に、ルゥは喰われていく気がした。
 そこに、りぃん、と鳴き声が入り込む。気付けば、それは軒下から身体を出し、ルゥの膝に頭を擦り付けていた。真っ黒な毛並みは想像した通りで、白く照り映えることもなく、外套のように夜を着こなしている。ただ、それの形が上手く飲み込めない。視界に入っているはずなのに、目の端で捉えた虚像のように、色も輪郭も言葉にすることができなかった。ただ黒いもの。視界の端でちらちらと揺れる陽炎のようなものが、ルゥの膝元にはいた。
 激しく咳き込むルゥを見上げ、それは呑気に大口を開けて、りぃん、とやはり鳴くのだった。

 それは、米も饅頭も口にしなかった。ならばと、羊肉や狗肉を与えてみたが、一瞥もしなかった。牛乳を買い与えても同様で、影法師と名付けられたそれは、痩せ細って、死んでいくかと思われた。
 一方、ルゥはリンが薬売りの老婆から髪と引き換えに買って来た、瓶詰の薬を飲んだことで、一層咳がひどくなっていた。深緑色の藻が生えたような瓶を傾けて、一息に飲み下すと、それは水に垂らした血の一滴のようにぼやけ、にじみ、ルゥの胸の辺りを刺激した。薬を飲んだその日、一晩中、ルゥは咳を繰り返した。その横で眠っていた影法師は、いつかのように彼女にすり寄って、りぃん、と食事を催促する子猫のように鳴いた。
 座敷牢めいた室の真ん中に敷かれた布団の中で、ルゥはリンに看病されながら、かすれた喉で咳き上げた。あまりに激しい噎せ方であったため、ルゥは咳の合間に何度もえずいたが、結局楽になることはできなかった。枕元に灯された一本の蝋燭が、ルゥの嗚咽に合わせて、火の穂をくすぶらせては踊り狂う。その度に、室の影は変幻し、生き物のように身体をくねらせる。燭台の皿に溜まった蝋の水面が固まっては溶けてを繰り返し、長く長く、夜の銀楼にルゥの咳がこだまして、東の空が白み始めた頃に、ようやくルゥが何かを吐き出した。それは薬売りが話した通りのものだった。
 ルゥの咳で腫れた喉を隆起させ、何かがせり上がってくる様が見て取れた。喉笛を圧迫して、彼女の薄い肉越しに、それは這い出して来る。首元からは空気の漏れる高い音が苦しげに鳴り、筋肉の蠕動と嗚咽と同時に、それはルゥの口元から飛び出した。
 纏わった黒糸。泥鰌の稚魚の共喰い。疳の虫。髪の毛ほどの細さの黒い何かが猫の毛玉よろしく、ぐるぐると絡まり、こんがらがった玉の状態で転がり出てきた。見れば、それらはうぞうぞと蠢き、目玉とも思える白いものが二つ、点描された頭をあちらこちらにもたげている。薬売りがよこした咳嗽薬は畢竟、虫下しででもあったのだろう。ルゥの胸に根を張っていた黒虫が、終夜の闘争の果てに引きずり出た。
 虫を見たリンが、ひっ、と短い悲鳴を上げて、身をこわばらせる。ルゥの身体からまろび出た虫が生きて、動いていることを信じられないような目で見つめ、手をかざし、それをのけようと手を動かした瞬間、影法師がさっと飛び出し、虫の上に覆いかぶさった。影法師は真っ赤な口を開き、そのまま、虫の塊をくわえ込む。四方八方へそれぞれ逃げ出そうという絡まりを持ち上げ、揺すり落としながら飲み込んだ。
 呆然とその様子を眺めていたリンは、はっと我に返ると、ルゥを抱き起し、口元に顔を寄せた。かすかな、けれど穏やかな寝息が耳をかすめ、ひとまずリンは安堵する。ルゥを布団に寝かしつけ、べったりと額に張り付いた髪を指で払った。手拭いで汗を清め、ルゥの枕元へ寄ってきた影法師に視線を移す。紅い口であくびをし、猫のように丸くなる影法師を、リンは不気味そうに眺めた。
 そうして、すぐにルゥの咳がおさまった訳ではなかった。ルゥの体調はその後、快調に向かったが、激しい咳は続き、その度に、リンが看病をした。影法師は虫が吐き出されるのを待ちわびて、ルゥの周りをうろうろと徘徊し、幸福そうに虫を貪った。おかげで、子猫ほどだった体躯は狐ほどに成長し、ぼんやりとした輪郭の中でも大きく太った尻尾が目立った。世話のできないルゥにかわって、影法師はリンの部屋に置かれている。

 日々は過ぎ、有明けの月が朔へと変わる頃、花街に風が出始めた。
 夕暮れにたなびく雲が残照の果て、薄紫に変わり、西へと流れていく。家々の煙突から伸びる煙が空の色の変化と共にか細くなり、ついに途絶えると、固く閉じられた鎧戸を叩き、風の群れが野盗のように街を巡った。街路は濃密な嵐の呼吸の中にあり、広場になだれ込んだつむじ風が砂埃を巻き上げて、人家の壁をすり減らす。家並みの隙間を抜ける風は、狩りを楽しむ狼に似て、荒い息に上気した喉笛の音を混ぜ、坂を下って、街の中心へなだれていく。街中を駆け巡った風が銀楼を要に渦を巻き、凝縮された風の流れは重苦しい。楼閣の妓たちは重みの増した空気を肺一杯に吸い込んだせいで、めいめいに頭痛を訴え出して、横になる。長く銀楼に暮らす世話役たちは、またこの時期が来たか、と合点して、苦しみ呻く妓を、冬が来た冬が来た、と慰めた。
 西の山から吹き下ろした大風は乾いた焚き火のにおいを連れて、雲の散った夜空の下で、底冷えの街を吹き荒れる。季節の辻風は、こうして一週間ほど続くのが習わしだった。風が止むまで、住人たちは家の扉を全て閉め、暗い部屋の影の隅で、それが通り過ぎるのをただ待つ。銀楼に通ってきた客たちも、楼に閉じ込められて、外へ出ることは叶わない。どうしてもと悪たれる酔っぱらいには、風で死人の出る街だと説明するが、それでも聞かずに外へ飛び出していき、今日も一人、風に洗われ、ミイラのように干からびた屍体が路地の窪みに溜まっている。
 そんな客の中に、女が一人、いた。コットンのダブルスーツに身を包み、ぴったりと撫でつけた髪を簪で一まとめにまとめて、シルエットはまったく男と変わらない。煙草の青い煙をくゆらせて、酷薄な唇の隙間から細く息を吐く姿が少し花魁めいていた。彼女は周囲の顔を赤らめた他の客と違い、一杯の酒も酌んでいなかった。隅の方に座して、場をぼんやりと眺めている。男たちに酌する妓が入れ替わる時だけ、何かを探すように視線を泳がせるが、それ以外は石像のように物静かであった。彼女は、若い妓に声をかけた。身に付けた宝石すらおもちゃめいて見える少女だった。
〈あなたより若いものはいる?〉
 妓は曖昧に笑みを返し、女から離れていく。すぐに世話役の老婆が出てきて、女を一瞥した。鋭い一瞬が誰に気付かれることもなく過ぎ去り、こちらへ、という短い文句がただ残された。
 部屋には大小さまざまな燈籠が灯されていた。部屋の中央には天蓋付きの寝台が置かれ、床に垂れた繻子織の布が照り映えている。隈なく置かれた燈籠の妙で、調度品の金具がきらきらと火の揺れに合わせて、またたいた。だが、それでも室内は薄暗く、分厚い窓掛けの襞には影が憩い、燈籠から離れるに従って、くらやみが光の輪を蚕食する。
 ルゥが呼ばれたのは、そんな部屋だった。彼女が部屋に入った時、女は寝台の横に置かれた天鵞絨張りの椅子に腰掛けていた。ルゥを見ると、女は脚を組み替え、ルゥを手招いた。彼女が頬杖を突いた机の上には、透明なグラスに入った水があり、小さな気泡が内側に張り付いているのが見えた。
 ルゥは奇妙な心地だった。銀楼が女の客を取ることは珍しくない。だが、まさか自分の初めての客が女であるとは、まったく予想していなかったのだ。目の前に座った女は男装をし、品定めをするように自分を眺め回している。幼いものを呼んだのだから、よもや子どもに慰撫をさせるつもりでもないだろう。ルゥはグラスを取る柔な指を、いくらか感慨深く見つめた。
 だが、口を開いた女の言葉は少し意外だった。
〈廊下にある、青白い燈籠の光は何か知っている?〉
 女はルゥを見た後、机の上の橙色の光を放つ燈籠へ目を向けた。
 あれは、とルゥが口を開く。あれは人の魂の色だ、と答えると女は二度、机を指で叩いた。グラスの内に溜まっていた気泡がゆっくりと剥がれ、水面に浮かび上がる。気泡は水の表面を滑り、中々弾けない。気怠げに遊んでいた気泡は再びグラスに接する。
〈では、ここで光っているのは蝋の魂?〉
 尋ねられて、ルゥは軽く咳払いした。女の質問の真意には気付いていたが、ルゥはそれに答えるべき言葉を持ち合わせていなかった。しばらく無言が続き、火が燃える、音ともつかない音が部屋を満たした。
〈人燈籠の中では、何が燃焼しているの?〉
 ルゥははっとして、女を見た。彼女は頬杖を突き、憂鬱そうに目を伏せていた。燈籠のあたたかな光が彼女の顔に深い影を落とし、実際よりも辛辣な印象を与えた。顔に称えたかすかな微笑みが、顔半分のくらやみによって、仄暗くなる。
 気付けば、グラスの気泡は既になくなっていた。
〈分からない。どうして?〉
 ルゥは、銀楼に来て以来、初めて口をきいたような気がした。心に窓が開き、溜まった澱が風に吹き流されていく。幾重にも閉じ込めてきた、どうしてを快感と共に解き放った。
〈人の身体は死ぬと煙か土へと変わり、魂は光と熱になる。あの中で燃えているのは魂ではなく、人という存在の不思議が燃えているのよ〉
 女は名をクァオと言った。彼女はルゥの内側から噴出した、どうしてをあるべき場所へおさめる手伝いをした。それは交通整理に似ていて、ある時は右に運ばれた話が、別のものとして左へ誘導される。右斜め後方へ後退した話も時には手元へ帰ってきて、クァオの手業で上手く積み重ねられ、上方を志向することもある。ルゥは子どもらしく、どうしてという単語をいくつも重ねては、クァオの言葉を引き出そうとした。どうして、どうして、と喃語のように繰り出されるそれは、今までルゥが我慢に我慢を重ね、胸の内にひた隠しにしてきたものであり、銀楼では暗黙裡の内に抑圧されてきたルゥの真心でもあった。花街へ連れてこられ、子どもでも大人でもなくなったルゥは、楼閣で話すべき言葉を失った。それがクァオの導きによって、次々と引き出されていく。久々にルゥは発話する楽しさを噛みしめていた。尽きない話題は、ルゥの胸の内に溜まった鬱憤の証のようだった。
 話は夜明けまで続き、燈籠の火が消えたくらやみの中でも、目に見えぬ言葉たちは交わされた。色も形もない言の葉、声は薄闇を反響し、まぶたに張り付いたあたたかな闇と同じように強く胎動しては弱まり、発話の度に強弱をつけて、うねる。寄せては返す波のように、満ちて、引いて、たくさんの声がルゥの耳に打ち寄せた。
 風に揺れる鎧戸の隙間から朝の光が覗く頃、ルゥの勢いがおさまり、会話に差し込まれる沈黙が長くなると、クァオは重い腰を上げ、寝台に寝そべるルゥの横へ膝を突き、四つん這いの姿勢で、覆いかぶさるようにルゥを覗き込んだ。ルゥは目を平らにして、クァオの動きを見守っていたが、動作が一旦おさまると、確かな決心の表れのようにクァオに微笑んでみせ、視線を交わした。。
 クァオはその顔を見て、賢い子は好きだよ、と眉一つ動かさず、言ってのける。ルゥの身体を頭の先から爪先まで眺めまわしてから、男装の麗人は簪を抜き、髪をほどいた。色素の薄い茶髪がほどけて、隙間から差し込む朝日の帯の間を、こぼれおちる砂粒のようにさらさらと流れた。接吻の一つもないのをもどかしく思ったのか、ルゥが彼女の頬に手を伸ばすと、クァオはようやく口を開いた。
〈私は、ある獣を追っているんだよ〉
 妓楼へ逃れたという獣。花街を幾度も巡って、それがとうとう、この銀楼へ入り込んだことまでは分かったが、その先が杳として掴めない。銀楼の主である犀星は滅多に人には会わず、自分一人で探すにはこの楼閣は広すぎる。誰か協力者を探しているのだが……。
 とそこまでを話して、クァオはルゥへ口づけた。染み付いた憂鬱の匂いに包まれて、ルゥはかっと頬を赤くした。酒の匂いに酔うほどの、まだ子どもであった。
〈毎夜、君を訪ねよう〉
 話はそれで済んだ。風が止むまでの間、クァオは銀楼へ泊り、ルゥを離さなかった。
 クァオが楼を離れた後、冬が本格的に到来し、凍えるような寒さの中、リンの婚姻の準備が粛々と進められていた。年が明けるとすぐに婚姻の儀を始める算段であり、年越しの準備と相まって、人を殺すような忙しさだった。
 そんな中、犀星がリンの門出を祝うため、婚姻の儀に参加するという噂が流れ始めた。だが、噂は誰が流したものか知れず、犀星の世話をする側近たちはいずれも、その話を耳にしていなかった。噂は風に紛れて、銀楼の中へ迷い込んだように思われた。しきりと、小声で交わされる虫のさざめきのような風の傷は、人の流れに合わせて揺れ動き、明け方の時雨のように、濃やかに人の間を埋め尽くした。
 犀星は生ける伝説であった。小さな港町に歌声一つで妓楼の街を花開かせ、街の発展に大きく寄与した。誰もが堕落し、快楽を追い求める時代と、国の動揺に伴い、移ろった航路がその功績を一層大きなものに変えたのかもしれないが、それでも彼女の才気は時代の求めるものを敏感に察知し、それを与えた。歳を重ね、舞台に上がる姿が年老いたとしても、歌声は古びることなく、若い美声のままであった。妓楼の度重なる増改築によって、舞台が移動したあとは、ステージに立つことはなくなったが、銀楼には彼女の華やかな声が響き渡り、当時はそれ目当てに銀楼を訪れる客がいるほどだった。それがもう既に六十年ほど前のことになる。齢が百を越えた頃から、彼女は人前に出ることをやめた。詳細を知るのは世話係の側近、古くから銀楼に勤める犀星への忠誠心の深い者たちであり、彼女の存在は余計に謎めいた。今では側近たちも犀星の姿を拝むことは望めず、時間通りに座敷へ上げた食事の膳が、定刻に空になって、再び座敷の外に置かれていることが、犀星の生きている証だと世話役の翁、媼は主張した。もはや、銀楼の中に生きているのは彼女の歌声だけである。だが、それすらも南蛮の極彩色の、人の声を真似る鳥の音だとか、冥府に行けぬ犀星の未練が泣く声だとか、ともかく正体の知れぬ噂ばかりが妓楼を包み込んでいた。
 ある日、リンが影法師を連れて、ルゥの部屋を訪ねてきた。聞くと、夜毎に影法師が部屋を抜け出して、困っているのだという。影法師はちょっと見ない間に、また成長しているようだった。大きな尻尾はそのままに、一回りか二回りほど、大きくなっている。部屋を抜け出しては、何かを掴まえて食べているのかもしれない。そろそろ、リンの方でも面倒を看きれないということで、客を取り始めたのだからルゥに返す、とリンは言った。
 だが、ルゥはリンが訪ねてきた理由がそれだけではないことに勘づいていた。短くなった髪を何度も撫で付け、何かを切り出そうとして、その機会を上手く掴めていない様子は、ルゥにもよく分かった。だが、それを聞き出そうという気にはなれない。
 室の外では雨が降っていて、軒から落ちる雨垂れの音が、しんとした室に響いていた。久しぶりに降った雨で銀楼にはかび臭い空気が立ち込め、雨はひそやかに侵食した何かの気配を暴き立てるようだった。
〈ルゥ、私に付いてこないか?〉
 リンはついに言った。影法師が尻尾を立てて、リンの顔を窺う。ルゥは影法師を撫でる手を止めることなく、目を伏せたまま、首を横に振った。
〈私はここにいます〉
 結局、ルゥはリンの顔を見なかった。そのため、最後にリンが室を出ていく時、彼女が小さく呟いた何かも、すっかり聞きそびれた。だが、ルゥはそれでいいと思った。これで未練はない。あとは、見送るのみだ、と。
 ルゥはリンが出ていったあとも、しばらく影法師を飽きることなく撫でていた。影法師が愚図り、嫌がるのを半ば手で抑えながら、しきりに背を撫で下ろした。お前を探している人がいるんだよ。だけど、まだ内緒にしておこうね。そう言うと、ルゥは黙り、影法師を撫でるのもやめてしまった。外では雨が強く降りだしていた。

 リンのめでたい日だというのに、空は生憎の曇り空だった。中庭に拵えた演台と、色とりどりの料理が湿っぽく、重たい空気の中に取り揃えられていた。上手にリンと男が晴れ着で座り、あらかた済んだ余興に拍手を送る。鳴り物がうるさいほどに鳴らされ、ちんどん屋が中庭を埋めつくす来席者の間を練り歩く。ピンシャン、ピンシャンと騒々しさが渦を巻いて、リンの門出を祝っていた。
 中庭にはいつの間にか客たちも集い始め、末席で様子を眺めていたルゥは、その中にクァオの姿を認めた。クァオはその日も変わらず、ダブルスーツの男装姿で、壁にもたれかかり、リンたちの方をつまらなさそうに見ていた。
 演台には乙女が五、六人並べられ、目隠しをした媼が、乙女たちの帯に付けられた鈴の音を頼りに、手を伸ばしていた。夫婦の間に授かる子どもを選ぶ儀式の一種であった。年長者の一人が、婚姻を結んだばかりの夫婦の代わりに並べられた乙女の中から一人を選び出す。他愛のない余興だった。
 ふいに、翁が余興を中断して、リンの元へ駆け寄った。にわかの中断に盛り上がっていた客たちがざわめく。翁はリンに耳打ちすると、後ろに控えていた別の翁に合図を出し、中庭に面したある一室の襖を開けさせた。襖の向こうには、黒漆に金で雉の描かれた衝立が立てられ、中が見えないようになっている。何が始まるものか、と誰もが一瞬身構え、固唾を飲んだ。室からは言いようのない、胸の悪くなる空気が漏れていた。
 リンはそこへ歩いていき、部屋の前で晴れ着の裾を大きく膨らませ、膝を突いた。花のように豊かに広がった裾が落ち着くまで、リンは静かに目を伏せ、待った。そして、静寂がぴんと張り詰めたのを見計らい、口を開いた。犀星さまのおかげで、こうして旅立ちの日を迎えることができました、本当にありがとうございます云々が述べられ、首を垂れたリンが再び口をつぐむ。リンの口上が終わってからも、しばらく静寂は続き、衝立の向こうには誰もいないのではないか、と群衆が考えだした頃、若々しい声で、
〈おめでとう、リン〉
 と聞こえてきた。群衆が騒めき、犀星は生きていた、とどこかから声が湧いた。誰もが驚愕の表情で、衝立の向こうを注視する。そこに犀星の姿があると、群衆が直感していた。銀楼を覆い尽くす謎の気配の主が、目の前にいるのだ、と。人々の感興が昂ぶり、ついに何かの行動を伴って、出力される予感がよぎった瞬間、控えの翁が室の襖を閉じ始めた。はあ、と群衆の口から腑抜けた息が漏れた時、リンが衝立へにじり寄り、口を開いた。
〈ルゥを私の養子として連れていくことをお許しください〉
 弛緩した空気が、もう一度、張り詰めていく。突然の懇願に誰もが困惑しているようだった。ルゥを知る者はルゥを、知らぬ者は顔を見合わせて、口慣れぬ名前を呟いた。中庭に集う瞳が、次第にルゥを探し当て、ほぼ全ての意識が彼女を眼差した。当惑の様子で辺りを見回すルゥは、深々と頭を下げたリンの短く刈り揃えられた襟足が銀色に輝くのを見た。当惑はリンの卑劣さに対する怒りに変わり、裏切られたという思いが胸を満たした。
〈ルゥには一流の教育を施します。国の乱れている今、彼女にはどこまでも昇っていく力があります。精いっぱいに勉強させ、きっと一人前のレディへ育ててみせます。だから、ルゥを私に頂きたいのです〉
 翁たちはリンを退け、襖を閉めようと注力する。頑なに床へ額を擦り付けたまま動かないリンを、三人がかりで引き剥がそうと身体に手をかける。リンは廊下の木目にさえ爪を立て、お伺いの答えを聞くまで動かないという姿勢を固持する。リンの肩へ手をかけた翁が、力余って、中庭へ転げ落ちる。それを見ていたもう一人の老人は、背を丸めたリンに顔を近付け、何か説得を試みる。事態はいささか喜劇めいてきていた。そんな中、ルゥはただ一人、衝立への視線を逸らさずにいるクァオに気付いた。並々ならぬ眼差しで殺気立った空気を醸している彼女は、緩み切った宴会の席で、一人異様だった。
 茶番に人々が飽いてきた頃、犀星の声で状況は打開された。ルゥはその時、クァオの髪が茶色から夜の漆黒へ塗り替わるのを見た。
〈おめでとう、リン〉
 先ほどと同じ抑揚、同じ声色で、犀星は言った。群衆は誰もが時が引き戻されたと錯覚したが、リンとルゥと、そしてクァオはその異質さに気が付いていた。
 咄嗟にリンが立ち上がり、襖に手をかける。衝立へ手を伸ばして、その裏を覗き込もうとした時、彼女の脇を抜け、黒い影が室へと飛び込んだ。あっ、とバランスを崩したリンをクァオが受け止める。受け止めた動きで簪が抜け、クァオの黒く変色した髪が艶やかになびいた。
 衝立の向こうへ飛び込んだ影は、りぃ、と鳴き声をあげた。舌なめずりの一瞬があり、ひぃぃぃぃ、と犀星の悲鳴が響くと、ばたりと衝立が倒れ、向こうに大きく膨張した影法師の姿が見えた。鞠のように丸く膨れたそれは人の丈を越し、室の天井に触れようかという高さまで伸びて、それでも成長を止めようとしなかった。次第に室は影法師のぼんやりとした黒に覆われて、そこに空間があるようには見えなくなった。視界に入っているというのに、それはまるでまぶたの裏のくらやみのように網膜を覆い尽くす。あまりのくらやみの深さに、目を開いているのか、閉じているのかさえ不覚となった瞬間、影法師は襖を蹴飛ばし、室を飛び出した。乱れ飛ぶ襖を避けるため、翁たちが欄干に身を乗り出し、中庭へ落ちる。廊下を駆け抜け、影法師は遠い悲鳴となって、群衆の前から消えた。
 ルゥはリンとクァオの側へ寄った。クァオの腕に抱かれたリンは呆然と影法師の消えた先を見つめていたが、ルゥが駆け寄ってくると我に返り、今のは、と弱々しく尋ねた。
 ルゥはそれには答えず、ざわざわと逆立つクァオの黒髪を見つめていた。リンもルゥの視線に誘われて、顔を上げ、短い悲鳴を上げた。
 ――人喰い狗だ
 クァオを見た誰もがそう呟いた。肩ほどまでの長さであったクァオの髪は、彼女の背丈と同じまで伸び、その一本一本が鋭く、毛羽立っている。気付けば、彼女の端正な顔立ちは崩れ、美しかった鼻筋は肉食獣の獰猛な上顎へと変貌していた。
 リンは半人半獣のクァオの腕から逃れ、ルゥを抱き取り、二足で立つ獣から離れようとした。が、ルゥはリンの手を振り払い、クァオに一歩近付いた。
 三人の背後では、影法師が倒していった燈籠の火が柱に燃え移り、炎の舌が銀楼の古色を帯びた木材の上を這いまわる。呆然とルゥへ手を伸ばしていたリンを婚約者のシユが引き留め、場にはルゥとクァオの二人が取り残された。
 クァオは灰がちな瞳を真っ直ぐに、影法師の駆けていった薄闇に向けていた。肩をすくめ、首を折り曲げ、ゆっくりと床に手を突くと、身体を弓なりに曲げて、深く息を吐く。
〈私に秘密にしていたね〉
 いささか怒気の含まれた声だった。声はくぐもり、かすかに唸りの響きが聞こえた。
〈知っていたのだろう。あれが私の探している獣だって〉
 クァオは大きな口を開け、牙を見せつけながら嗤った。怒りの熱は静かに高まって、青白く輝く。彼女は怒るのでも、怒鳴るのでもなく、ただ嗤った。嗤うことで怒りを露わにした。ルゥは瞳にわずかに涙を見せ、おずおずとクァオに寄っていく。だが、来るな、とクァオは鋭く叱責した。そのにおいを知っている。そのにおいは自己愛だ。気に入らない。気に入らない、と繰り返す。
 炎は柱を伝い、軒に達した。熱を溜め込んだ瓦の爆ぜる音がして、ぱらぱらと軒先からは崩れた瓦の土がこぼれた。と同時に、ルゥの喉が爛れたように熱くなり、毛羽立った。空咳が出る。背を丸め、激しく咳き込んで、ルゥは涙をこぼした。拳を突きこまれたような感覚が満ち、喉が詰まる。吐き出そうと咳き込むが、満足に息も吸えなくなったルゥに、もはや術はなかった。彼女は自らの口内に指を入れ、喉に詰まった何かを掻き出そうとした。舌の根元を軽く撫で、裂けんばかりに口を開いて、小さな手の平を喉の奥へと進ませた。ルゥの手が手首まで口内におさまろうかという時、嘔吐反射が起こり、ルゥの腹がへこんだ。胃が収縮し、喉が蠕動する。内臓が攪拌されたような感覚が続き、それは出てきた。影法師と同じ捉えどころのない黒をして、うねうねと身体をくねらせる幼虫。ルゥは柔かい手の平でそれを突き潰した。床には墨をこぼしたような染みが広がった。
〈私を連れて行って〉
 ルゥの言葉に、今度こそクァオは本心から笑った。
〈私の機嫌を取ってみるかい?〉
 彼女はルゥを自らの背中に乗せると、四つ足を駆動させ、風のように走り出した。ルゥの頬を強烈な熱気が叩きつける。中庭を舐め尽くした炎は、既に銀楼全体に回り始めていた。クァオは火柱を避け、廊下を右に左に駆けていく。銀楼のあちらこちらには影法師が残していったのか、黒々とした染みが落ち、それを追うようにクァオは銀楼を行く。ふと焦げ臭さに顔を向けると、そこでは白骨を露出した屍体が炎に包まれ、横たわる。あれも影法師の仕業だろうか、とルゥが考えていると、
〈無駄に考えを巡らせてはいけない〉
 とクァオが言った。あれは、どうにも上手い言い方がないが、説明されるのを嫌う生き物で、奴らを示す言葉はすっかり狩り尽くされてしまった。奴らは謎を食べる。だから、不必要にあれについて考えるのはやめた方がいい。
 ざりざり、と音が聞こえた。音の方へ進んでいくと、影法師が人燈籠を抱え、中の人骨を食んでいた。真っ赤な口元で青白い髑髏が噛み砕かれ、白砂に変わる。天井に吊るされていた燈籠は全て影法師によって地面へ落され、中身は同様に奴の顎に砕かれた後だった。ルゥたちの姿を認め、影法師は床にどっしりと付けていた尻を上げた。いん、いんと影法師は鳴く。身体の大きさに合わせて、声も少し低くなったようだ。
〈随分膨れたな〉
 影法師は丸々と太った毛並みを揺らし、廊下を占拠した姿は巨大な熊が道をふさいでいるようにも見える。クァオが影法師ににじり寄ると、あちらも同じ分だけ後ろに下がった。
〈クァオに怯えているの?〉
〈私はやつの天敵だからね〉
 影法師は燈籠を倒し、間に壁を作ろうとしているようだった。深紅の絨毯の上に、幾重ものバリケードとなって、燈籠が横倒しに置かれる。クァオがそれを飛び越えようと、力を溜めた時だった。人燈籠の一つがかっと赤く染まり、発火した。小規模な爆発が起こり、燈籠の破片が辺りへ散らばる。クァオがルゥをかばい、身体を入れ替えると、隙を見て、影法師が背を向け、走り出した。咄嗟にクァオも追おうとするが、別の燈籠が爆ぜ、辺りは火の海と化した。行く手は炎に包まれ、進めない。困ったな、引き返すしかないか、とクァオが独りごちると、ルゥが彼女の毛並みを引っ張った。
 ルゥが指差すのは、侏儒の隠し道だった。体高の低くなったクァオならば、充分に通れる大きさだった。二人は狭い道に身体を押し込み、外を目指した。
 銀楼を出ると、外は厚い雲に覆われていた。時は夕暮れに近く、地平線まで伸びた雲の向こうでは地上に届くことのない光を、太陽が投げかける。空は既に夜のような暗さで、宵闇を銀楼の火が照らしている。炎はその他の楼閣にも燃え移り、花街全体に広がっていた。建物を内側から蝕まれ、篝籠と化した楼閣の崩壊の音が至るところから轟き、耳を驚かす。絢爛を誇った太い柱も崩れゆき、火勢はより激しくなって、街を飲み込む。舞い散る火の粉に追われ、人々が逃げ惑い、落ちてきた屋根に押し潰されて、人が死ぬ。阿鼻叫喚の巷が、そこにはあった。
 クァオがふと顔を上げた。鼻頭に皺を寄せ、炎のにおいに混じる獣臭さをたぐり寄せる。視線の先には高くそびえる銀楼の尖塔があった。犀星が生涯をかけて、築き上げた神へと至る望楼。その中腹にくらやみが張り付き、白い、煙ともいえぬものを街中から吸い上げていた。くらやみは膨張した影法師であろうが、暗い雲の色に紛れて、肉眼ではほとんどそこにあることを信じられない。ただ薄ぼんやりと色の違う漆黒があった。クァオはルゥに背中から下りるように命じる。ルゥはいやいや、と首を振り、拒絶したが、ふと誰かに抱きかかえられ、クァオの背中から引き剥がされた。
 振り返ると、それはリンの婚約者だった。ルゥの頭上でクァオと彼の視線が何かを問い交わし、頷き合った。
 銀楼を目指し、駆けていくクァオの背中を見つめ、ルゥは必死になって、手足を振り回した。叫び声はクァオにも聞こえていただろう。だが、彼女は振り向かなかった。慟哭がおさまり、嗚咽に変わると、ルゥは小さく、どうして、と呟いた。リンの婚約者シユは、そっとルゥを抱きしめ、港への道を駆けだした。火は花街だけではなく、家々にまで手を伸ばし、緋に染める。街角に兵士が立ち、非難していく人々を誘導していた。髪がちりちりと焦げていく感覚に、ルゥは泣きそうになった。火の回りの遅い方、遅い方と道を選び、二人が港に着いたのは猛火が街を埋め尽くした後だった。沖に停泊するシユの帆船へ向かう小舟の中、ルゥはようやく我に返り、街を顧みた。
 灰青色の雲の下、街は穴のあいたようにぽっかりと暗黒に包まれていた。頬を撫でる風の熱さや、きな臭い香りは確かに街の燃えている証であるはずなのに、街には火柱どころか、灯りさえ見つけられなかった。海には漂流した篝板のような、燃える木片が浮かび、夜の海面を照らしていたが、やはり街は星のない夜空のように真っ暗だった。わずかに闇が身をくねらせる動きが見える気がしたが、それは網膜に張り付いた火事の熱気なのかもしれなかった。乾燥した瞳からはかなしくもないのに涙があふれ、街に向ける眼差しの邪魔をした。
〈街は、あの化物が覆い尽くしてしまったんだろう〉
 シユの声に、ルゥは振り返った。自然、疑問が口をついて出る。
〈リンはどこ?〉
 シユは静かに首を振った。ルゥは再び、街を振り返る。半円状に街も山稜も海岸線も覆い隠してしまった暗黒の中に、リンがいる。黒とも銀ともつかない美しい髪のルゥの姉。後悔が、ルゥの胸を突いた。くしゃくしゃに丸まった糸くずが、ルゥ自身のリンへの仕打ちへのやるせない思いへ変わる。どうして、あの時。その先は出てこなかった。俯くと、水面に映る自分の顔が見え、船の舳先が立てた水脈にかき消された。
〈咳は大丈夫かい?〉
 シユがルゥの背中を撫でる。
〈どうして、私を?〉
〈君の髪はリンによく似ている〉
 小舟が帆船の元へ着く頃、街ではくらやみの軋む音が聞こえ始めていた。空間に皺が寄り、闇の向こう側で狂った歯車がぎしぎしと音を立て、歪む。ふと音がやみ、揺れ動いていた襞がその場に固定されたかと思った瞬間、ひびが入った。稲妻が走るようにひびの枝葉は空間に伝播していく。無数の亀裂が空間を最小単位にまで細分化すると、それは割れ、崩れ去った楼閣の残骸を現した。くらやみは晴れ、そこには熾火の燻ぶる街が見えた。
〈彼女が成し遂げてくれたのか〉
 シユはほっと息を吐き、安堵した。小舟に投げ込まれた縄梯子を掴み、ルゥに渡した。
〈来るかい?〉
 ルゥは頷き、帆船の舷側をよじ登った。

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