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掌編 「忘れ貝」

 白い玉砂利の川床を狸の死体が埋め尽くしている。川の水は赤く染まり、帯のようにたなびいて、川下へ流れていた。その景色は、自然と夕闇を背負っている。阿波狸合戦の風景である。
 とある座談会にリモートで参加させていただいた折りのことだった。会の後半、電波状況の悪かった私の画面では動画が止まっていた。どうにか聞こえていた音声もぶつ切りとなり、これは再接続しなければ仕方ないだろうと、接続を切ろうとしたとき「金長さん」と聞こえた。
 聞き返す間もなく、ノートパソコンはブラックアウトした。結局、誰の発言なのかも分からなかった。
 その後、主催者の方々にはご迷惑をおかけしつつ、会にはすぐに復帰することができたのだが、「金長さん」について聞き返す機会はなかった。後日、メッセージのやり取りの中でそれとなく伺ってみたものの、芳しい反応も得られず、それっきりになった。
 座談会ののち、授賞式へ列席するため、阿波を訪れる機会を得た。阿波狸合戦の舞台となった勝浦川は明治期の河川改修によって、吉野川・那珂川に流入する形で姿を消していた。水害の絶えない土地に、それでも多くの人が暮らしている。黒潮が運んだ暖かな空気の街に、白い屋根の家がずらりと並ぶのは、合戦を制した六右衛門の見た景色と相違ないように思われた。玉砂利の川床に、無数の死体が打ち捨てられている。彼は愛しい娘の仇を討ち果たして、何を思っただろうか。

忘れ貝拾ひしもせじ白玉を恋ふるをだにもかたみと思はむ

勝浦川東岸の陣へ届いた情報に、六右衛門は困惑した。金長の率いる狸たちが敗走をはじめたというのだ。六右衛門は堤を駆け上った。
 勝浦川が視界いっぱいに広がる。降り注いでいた矢雨は嘘のように止んでいた。川床の白石を隠す死骸の向こうに、渡河を果たした狸たちの勇ましい背中がある。悪い予感が六右衛門の胸を突いた。中洲の葦が揺れるたび、背筋が震えた。
 ――金長の策に違いない。
 それは思考というより、直感に近かった。約束された未来として、六右衛門は自らの敗走を見る。そして、未来が勝浦川を渡ろうとしていた。
 一人の若狸が腰まで沈む水流をかき分けて、六右衛門のもとへ駆けてくる。その表情は悲痛としか言いようがなかった。地獄をみたものの顔である。側近の一人が川の方へ堤を下り、若狸を迎えに行く。肩を支えられ、前のめりに川原へ転がり出た狸はそれでも這って進み、堤の上に立つ六右衛門を見上げた。
「金長狸、自害いたしました!」
 六右衛門の困惑はさらに深まった。彼は傍らの軍師に、あの狸は本当に自軍のものかと尋ねた。若狸は紛れもなく津田の山里に住む茂吉だった。
 茂吉は六右衛門の言葉を待っていた。
「申してみよ」
「陣近くの空ろ木にて、首を掻き切って自害した金長の骸を見つけ、うつほから引きずり出そうとしたとき、中からこれが」
 と茂吉が差し出したのは、歪み真珠であった。六右衛門は自らの予感が正しかったことを知った。
「うつほの中では折り重なるようにして、金長と子安姫が抱き合っておりました」
「それで、子安は?」
 茂吉は答えなかった。分かり切ったことであった。六右衛門は愚問を恥じた。
「検分へ出る」
 勝浦川の西岸、金長らが竹藪を背に敷いた陣のさらに後方に、空ろ木はあった。
 六右衛門は自らの双眸で金長と子安姫の亡骸を見た。子安の何と安らかな顔だろうか。死人がこれほどに安らいだ表情をするものなのか。
「二人を共に埋めよ。己の知らぬ場所に。決して知らせてはならぬぞ」
 それを手向けてやることが、六右衛門にできる精一杯のことだった。だが、墓所を知れば、暴かずにはいられない。それもまた彼の本心である。もはや一刻も正視することはかなわなかった。
 死骸に背を向けた六右衛門はもうこれからのことを考えている。二人の若狸の悲恋は既に過去となっていた。
 ――金長に肩入れした狸がこの土地に暮らしていくことは難しいだろう。しかし、祭り上げた大将の最期がこのような形では浮かばれぬ。
 六右衛門は手のひらで歪み真珠を転がした。もちろん、流暢には転がらない。転びやすい方へと転ぶのだ。
 やがて歪み真珠は手のひらからこぼれた。

金長がはじめて六右衛門のもとを訪れたとき、拒む六右衛門を説得したのは子安姫だった。あるいはそのときから、子安の中に恋慕の思いはあったのかもしれない。才気走る、自信に満ち溢れた若狸は六右衛門にさえ眩しく見えた。共に暮らすうちに惹かれていくのは無理からぬことであっただろう。
 六右衛門はそんな二人をあえて遠ざけようともしなかった。厳しい修行の日々の中で金長の才能に磨きがかかっていくのを一番間近で見ていたのは、他ならぬ六右衛門だった。金長の行く先に否応なく期待がかかった。
 すると、六右衛門の方でも欲が出てくる。子安が慕っているのなら、いっそ金長に自分の後継ぎとして津田に残ってもらおうと思ったのだった。しかし、金長の主への思いは固かった。六右衛門のもとを訪れたのは、ひとえに主への恩返しのためである、と固辞した。
 そんな折、日開野へ帰るという金長を討つべきだと主張したのは、古くから六右衛門に仕える老臣たちだった。見返りもなく教えを授け、金長を日開野へ帰せば、彼は必ず津田に立ちふさがるだろう。たとえ彼に野心がなくとも、彼の才能のもとへ狸たちは集まり、膨れ上がった勢力は津田との軋轢を生む。
 六右衛門は理のないことではないと思った。実際、その点を金長に正直に話しもしたが、軽くあしらわれるだけだった。金長にそのつもりのないことを六右衛門も承知しており、話はそれきりになった。
 だが老臣たちは納得しなかった。芝山に伏兵を置き、金長を襲わせた。その襲撃で子分の「藤ノ木の鷹」を亡くした金長は兵をあげ、六右衛門と対峙することになる。

家の前の道路で狸が死んでいると教えてくれたのは妻だった。言外に片付けてくれ、と言いに来たのだろう。私がゴム手袋とビニールを持って、外に出ると、確かに玄関の目の前のところで、狸が車に轢かれて死んでいた。いくら私の住む街が田舎とはいえ、狸の姿を目にするのはこういった機会しかない。傍らに腰を下ろし、じっと観察すると、どうも身体が小さいように思われた。子どもだろうか、と思案していると視線を感じ、顔を上げたところで、隣家の生け垣の間に光るものが見えた。狸の目だった。恐らくは親狸だろう。こちらをじっと見つめる隈模様が悲しげな化粧にも思えた。
 私は子狸の亡骸を庭に移した。人目に触れない生け垣の根元へ置いて、書斎へ戻った。妻にはまるで片付けておいたような顔をした。しばらくしてから見に行ってみると、亡骸は消えていた。狸が弔ったのだろう。次の日、狸は私の夢枕に立った。
「先日はどうもありがとうございました。あなたさまのおかげで無事に息子を埋葬することができました。突然の訪問をするご無礼をお許しください。この度は、あなたさまにお礼を差し上げに参った次第でございます」
 狸は一息に口上をまくしたてた。
「どんな願い事でも叶えて進ぜましょう」
 私は困った、と言いたいところなのだが、実は狸に頼みたいことが一つあるのだった。
「では、金長狸について知りたいのだが」
 狸はきょとんと私を見つめた。
「徳島の金長狸、でございますか?」
 私は頷いた。
「生憎、西の情勢には詳しくないもので」
 狸は金長について知らないらしかった。関東の狸である。仕方のないことだろう。狸は知り合いに尋ねることを約束してくれた。また、後日訪ねて来てくれるとのことで、その日は別れた。
 一週間後、狸はまた夢枕に現れた。
「ご無沙汰しております。金長狸の件ですが、古い時分の話でありますので、中々思うようには進んでおりません。あまりに間が空いては失礼かと存じまして、ご報告に参りました」
 私は狸があまりに低姿勢なので気の毒になった。確かに徳島は遠い。金長狸のことはもういいから、いま書いている小説を読んで、感想をもらいたい、と私は言った。
「では、朗読をお願いできますか? 話す言葉は分かっても、文字はなかなか一筋縄ではいかないものでして」
 とにかく私は原稿を持ってきて、読み上げてみた
「はあ、なるほど。面白く聞かせていただきました。狸合戦の話なのですねえ」
 お世辞を言っているのはすぐに分かった。
「少し気になる点がありました。申し上げてもよろしいでしょうか? はあ、ありがとうございます。それじゃあ遠慮なく。金長狸はどうして子安姫と心中するのでしょう? 話を聞く限り、合戦が不利だったわけでもなさそうですし、無理に死ぬことはないと思うのですが」
 狸は勝手に思案を始めた。
「しかし、こうも考えられますか。無理心中を望んだのは子安姫の方で、金長はそれに付き合わされたと。そうなると子安姫は大分な悪女になりますな」
 考えもしなかったことに私は驚いていた。
「親にとって子どもは眩しく見えるもので、それが夭折の子となれば猶更でしょう。六右衛門が気付かないのも詮無いことかと。ましてや、心中するほど思いつめていたとは考えもしなかったでしょう」
 狸はそこまで言って、おずおずと頭を下げた。
「すみません、かってなことをつらつらと」
「いや、大変参考になった。こちらこそ、お礼を言わなければ」
 目覚めたら、さっそく原稿に向かわなければ、と思っていると、狸が私を見上げていることに気付いた。
「まだ何か?」
「や、あなたさまも娘さんを亡くされておりましたかと思いまして」
 ふっと悪い予感が胸を突いた。
「それで、こんな夢をご覧になるんですねえ」
 目覚めたとき、私は寝室に一人だった。リビングの方から物音が聞こえていた。私は部屋を出て、妻の名前を読んだ。返事はなかった。壁に手を伸ばして、スイッチを押した。
 妻は空っぽのグラスを手に、シンクの前に立っていた。明かりに眩しそうに目を細めながら、こちらへ振り返る。
「起こしてしまいました?」
「いや……夢を見ていて」
 妻が私から視線を外す。
「眠れないのか?」
「いいえ、私も夢を見てたんです」
 狸、と妻が呟く。
「片付けておいて、と言いませんでした?」
「……そうは言わなかった」
「そうでしたっけ? けれど、まあ、庭に置いとくことはないでしょう? 結局、私が片付けましたからね」
 それはすまない、と口にしかけて、謝るほどのことではないと思った。
「親狸が見ていたんだ。それで、引き取りに来るものかと」
「そうだったんですね。言ってくれればよかったのに」
 今頃、子狸の身体は焼却されていることだろう。そう思うと、胸が苦しくなるような気がした。
「何考えてるの」
「え?」
 妻の剣幕に、一瞬動悸が高鳴る。
「庭に狸の死体を置いておくなんて」
「ああ、そのことか」
 妻はあからさまに溜め息を吐いた。
「それ以外に何かありますか?」
 いくらでもある。そんなことは。

世の中に思ひあれども子をこふる思ひにまさる思ひなきかな

何も言わず家を出ていった娘の話をするのは、我が家ではタブーとなっている。当然、私が娘と秘密に連絡を取り合っていることなど、妻に伝えられるはずもない。妻の中では、彼女は五つのときに亡くなっているのだ。
 先日、孫が生まれた。と言いたいところだが、孫という実感はない。娘に子どもが生まれた。顔を合わせることはないだろう。我が家の通信状況は相変わらず悪く、満足にリモート通信も行えない。
 私は娘の墓穴を掘った。穴は本当に小さく済んだ。掘り返した土はスコップ三杯ほどもなかった。穴の底に子狸を横たえる。彼女の手は本当に小さかった。
 ある日、リビングに葉書が置いてあった。消印も住所も記されていない葉書の裏には、小さな字で娘の名前が書いてあった。
 真珠は彼女の誕生石である。

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