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短編 「パラレル火星人」

 先輩のアパートは、私の下宿と道を一つはさんだ向こう側にあった。道といっても、車がすれ違えるかどうかの細い路地で、道路に面した部屋の窓から、顔を出した先輩を見上げ、よく話をしたのを覚えている。夕陽がまっすぐに差し込む角部屋で、窓ガラスのキラキラした反射の海の中、先輩はTシャツに短パンというラフな格好で、安酒をあおる。頬を赤く染め、酔うと目の下に陽だまりがたまっている、と決まって言う。アルコールは先輩の目によく表れて、彼女の澄んだ白目は、酒が入ると充血し、深く刻まれた隈が一層、青黒くなった。お酒が、というより、酔うのが好きな人で、何かというと酒の杯を乾かし、四六時中、酩酊の虜だった。
「海が聞こえる」
 脳みそを純水アルコールに漬けたような人だったから、普段から言動の怪しいところはあった。虫取り網を担いで、山に入ったり、ユスリカの湧く排水路に釣り針を垂らしたり……。常識外れなのはいつものことだったけれど、その日は先輩の就職浪人が決まった日でもあり、先輩はひどく酔っぱらっていた。
 春の宵のことだ。桜のつぼみを肴に、寒の戻りのさむーい風に吹かれ、身体を冷やして帰ってくると、先輩はベッドに倒れ込み、右を下にして、枕に耳を当てて、言ったのだ。
 海が聞こえる、と。
「懐かしいなあ。故郷の音だ」
 まぶたを閉じて、目の前に広がる景色に、全身を委ねているように見えた。私は海を見たことがないから、先輩がどんな風景を想像していたのかは分からない。十九世紀から続いた海洋汚染によって、海は事実上、地球から消えた。ホログラムで一応の知識としてインプットされていたけれど、先輩の言う海の音を、私が知ることはない。
「故郷にはいつ帰るんですか?」
 私の質問も、テンプレート通りのことだった。先輩が変なのはいつものこと。彼女が海や山や夏にノスタルジーを感じる度、私は、それはいつのことですか、どこですか、先輩はそこで何をするんですか、とちょっと嫌味を効かせて、聞いていた。その時ごとに、返答は様々だったけれど、私は先輩の与太話を聞くのがそれほど嫌いではなかった。
「あと百年、生きていたら、花梨も連れてってあげれるよ」
 軌道エレベーターが完成し、人類の宇宙進出が加速した未来、テラフォーミングの済んだ火星で生まれるスペースノイド第一世代。それが先輩なのだ、というおとぎ話。彼女は百年後の未来から、やってきたのだ。
「そしたら、私はこっちに来る前の先輩に会えるんですね」
「そういえば、花梨は昔、近所に住んでたおばあちゃんに似てるなあ」
 と言って、先輩は本当におかしそうに笑った。あたたかな春のにおいと、ほこりくさい冬の風の混じった空気に、先輩の酒気を帯びた陽気な声は、よく響いた。遠く聞こえる車の喧騒をかき消して、赤や青にきらめく星の海に、ちいさな小舟は漕ぎ出していく。まるで誰もいなくなってしまった世界のように、春の夜は静かだった。
「コーヒー淹れますけど、先輩も飲みますか?」
 わずかずつ抜けていく酔いと共に、夜風に当たった身体が、だんだんと冷えてくる。三月の風はまだまだ春とは言い難かった。
「砂糖とミルクをたっぷりね」
 立ち上がった背中に、先輩の声がぶつかった。分かりましたよ、いつもの通りに、ですね、と答えて、勝手知ったる他人の家のキッチンの扉を、ぱたぱたと開閉する私。古ぼけたアパートに全自動給仕機械《サーヴァー》など完備されているはずもなく、私は水を入れた雪平鍋をガスコンロにかける。マッチをこすって、火を起こせ、と言われるよりは楽だけれど、初めは、火を扱うのが怖くて、近付くのすら嫌だった。ガスを使い、電気で火花を飛ばして、火を点けるなんて、もしガスがあらぬ方向に広がり、身体の近くで引火したら、と思ったら、やっぱり怖くて使えない。先輩にそう話すと、彼女はあっけらかんとして、ガスは空気より重たいから平気だよ、と言った。何だか呆れたような口調だった。
 それが今では、コーヒーを淹れるくらい朝飯前だ、とわずかに胸を張って、カップにお湯を注ぐと、濃やかないい香りが湯気と共に立ち昇った。
「先輩、できましたよ」
 ベッドで横になった先輩は一見、眠っているようにみえた。はしゃぎ疲れて、眠る子どものようにも。
 私は部屋の真ん中に置かれたミニテーブルにカップを置き、先輩の足元で丸まっていた毛布を、ゆっくりと肩までかけ直した。
 私はベッドの脇に座り込んで、先輩の穏やかな寝息の音を聞くと、辛いな、と心が呟いた。湖面に滲むように浮かんで、辛い、という文字が記号表現《シニフィアン》と記号内容《シニフィエ》みたいに、乖離する。書かれた紙の上から剥げれ、水にふやけて、ばらばらにほぐれる。
 先輩の部屋の畳の匂いを、胸いっぱいに吸い込んで、今日の日を忘れないよう、紐づける。青臭いイグサの香りが、ほろほろと崩れていった私の感情と記憶を、いつか結び付けるように願う。
 また一年、今日と同じように、先輩はこの部屋にいて、私は道路を挟んだ向かいから、光を受けてキラキラと光るすりガラスの窓へ、声をかける。先輩は寝癖の付いた頭を掻きながら、寝惚け眼を私に向けて、おはようという。そんな日常がもう少しだけ続く。
 それを喜ぶ私が辛い。それがまた一年後にはなくなってしまうことが辛い。先輩のかなしみに心から同情できないことが辛い。
 いくつもの引き裂かれた辛さは、プリズムめいて虹色だ。かなしみは多面体で、ブリリアントカットの心は差し込んだ光を閉じ込めてしまう。
 赦しを、乞いたい。自分の胸の内をさらけ出して、罪悪感の槍で一突きに、弾劾されてしまいたい。先輩を気遣う、よき後輩であればよかった。球体であれば、私はここでかなしみを抱いて、背を丸めることもなかったのに。
 カップから立ち上る湯気はじきに細くなり、ついに途絶えた。生温い空気が上の方から下りてくると、ぱらぱらと雨音が聞こえ、窓の向こうで雨が降り始めた。
 南風が連れてきたのは、春と雨雲。湿度が上がると、部屋に染み付いた先輩の匂いが、部屋中の隙間という隙間から這い出てきて、私を包む。
 こてん、と横になり、私は私を抱いて、ゆっくりと深呼吸をした。もちろん、海の音は聞こえない。
 ただ、気付かないように、気付かないようにと気にかけていた音が、雨のベールの隙間を縫って、貝殻みたいな形の耳に、したしたと雨垂れた。
 先輩の涙が枕に滴る音が、雨音に紛れて、聞こえていた。くぐもった嗚咽は、先輩が必死に枕を噛んで、声を我慢している音だろう。涙はこれ以上ない存在感で、どんな雨下の喧騒とも違う、ぱた、ぱた、という乾いた音を立て、私と先輩の距離を遠くした。きっと、雨が今よりも大降りでも、小降りでも、私は聞こえないふりをしたに違いない。だから一層、私たちの距離は離れていく。描画されることのないかなしみの形は、私と先輩を決定的に切り分け、繋がることのない点と点へ変えた。
「先輩、コーヒー……さめちゃいましたよ」
 こんな不器用にしか、線を引けない私を、私は嫌悪する。傷付いた誰かの側にいる時ほど、自分の無力さを感じる時はない。何かできることはないか、と辺りを見回して、いつも私は、相手の傷の深さに合わせて、自傷してしまう。
 子どもがかさぶたの大きさを自慢するように、同調することでしか、思いやりを表せない私は、致命的に人の側にいることが苦手だ。
「花梨、ティッシュとって」
 鼻声と、ずび、と鼻をすする音。私は寝転んだまま、パッチワークのティッシュカバーをベッドに寄せる。顔を背け、私は先輩の方へ手を伸ばした。
 受け取る先輩の手が、私の指に触れ、ありがとう、と声がする。
「ずびー」
 ずっ、ずっずっ。
 視界の端から、白いものが現れ、黒い円柱に吸い込まれる。先輩の投げた散り紙は、見事、ごみ箱に収まった。
 よし、という仕切り直しが聞こえたような気がした。
「飲み直そう!」
 一転して、晴れやかな声で、別途の下からブランデーを取り出すと、それを高く掲げ、勢いそのままに、ぐびっとラッパ飲みした。
「ほら、花梨も」
 と言って、コーヒーのカップにブランデーを注ぐ先輩。私にお酒を飲むよう促して、にこにこと上機嫌を振りまく。お酒に弱い先輩はすぐに顔を真っ赤にして、ろれつの回らない舌をぐるぐると転がす。
 それから、先輩は将来の夢の話をした。いつか、軌道エレベーターを作る企業に就職して、一番先に火星へ行き、原始の故郷の姿を見るのだ、と。先輩が住んでいた火星は、テラフォーミングの影響で、気温が上がり、地表近くの氷が解け、地球に負けず劣らずの水の惑星なのだという。だから、荒涼とした酸化鉄の赤い惑星を、ぜひ見てみたいのだとか。
「でも、先輩が軌道エレベーターを作っちゃったら、それはタイムパラドックスになりませんか?」
「んー、確かにね。でも、そんな難しいこと考えなくていいんじゃない?」
 酔っ払いの陽気さは、全ての根拠を無にして、とまらない暴走特急だ。私もつられて、難しく考えるのをやめた。先輩は酒が回って、暑くなったのか、シャツのボタンを開け、前をはだけさせている。
「先輩、だらしないですよ」
「花梨しかいないからね。問題ない、問題ない」
 ぱたぱた、と手を動かして、先輩は風を送る仕草をする。
「暑いなー、窓開けてよ」
 私は苦笑いして、パーカーのチャックを上までしめる。
 窓を開けると、生温かい風が吹き込んできて、煮凝ったような空気がわずかに緩んだ。外は、さっきまでの雨が嘘みたいに晴れ渡り、雲一つない空には、春の大曲線が見え、スピカが春霞の中で、頼りなげに瞬いていた。
 私はそれを、先輩に話す。
「先輩が眠っている間、雨が降っていたんですよ」
「え、嘘。寝てた? 何分くらい?」
 時計のないこの部屋で、その質問は少しいじわるだ、と思いながら、まあだいたいこのぐらいかな、という時間を答えると、
「でも、雨が降ったのに、空が霞むなんて不思議だねえ」
 しまった、と思ったけれど、先輩はその後、すぐに横になり、再び寝息を立てて、眠ってしまった。

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