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掌編 「白猫の家」

 猫を飼うには広すぎると思った。
 顔も知らない父が死んで、ぼくの元に鍵が一つ、送られてきた。都内のワンルームのアパートの鍵だった。母が亡くなって以来、天涯孤独と思っていた僕は、それは当然、驚いた。生活に困っていなければ、その鍵を受け取ることもなかっただろう。

 部屋にはベッドの他、何も置いていなかった。まるで空き部屋のように静かで、けれど、人の香りがしない分、清潔だった。壁紙は気付くか気付かないかの、淡い桃色で、半分だけ閉められたカーテン、そこから入ってくる光だけがこの部屋の唯一の光源だった。
 彼女は、そんな部屋に住んでいた。初めて会った時、彼女は風呂上がりで、長い髪に水を滴らせ、ガラス玉のような瞳でぼくを見ていた。いや、彼女に何かを見るという意識はない。だからこそ、彼女の瞳はひどく澄んでいるのだ。
 全てはぼんやりした夢で、彼女はその身体の中に何かを蓄えるということをしない。ぼくらが汚れてしまったと感じるのは、何かを知り、血肉とした時なのだ。その点で、彼女ほどの無垢はない。
 彼女はほとんど白痴も同然なのだ。ぼくは声を聞いたこともないし、意思のようなものを受け取ったこともない。部屋に行けば、必ず彼女がいて、ただベッドに寝そべっているか、そうでなければ、水を張っただけの湯舟に浸かっている。部屋の掃除には、週に一回、ハウスキーパーが来ることになっているが、そのための金がどこから来るのか、ぼくは知らない。常に裸でいる彼女を、ハウスキーパーはどう思っているだろうか、と考えるが、ぼく自身、彼女の存在を未だ掴み切れずにいる。

 彼女は狭い部屋で、既に死んだ父を、恐らくは待ち続けているのだろう。彼女には言葉も意思もないが、彼女は瞳で訴える。いや、それはぼくの妄想なのかもしれないが、彼女は明らかにそうすることに慣れていた。
 物欲しそうな目、非難がましい目、嘲笑うような目。彼女の瞳がそういった形をしているというだけで、ぼくの胸はざわついた。
 彼女はぼくにとって、餌を貪る猫でしかない。父の残した遺産でも、言葉の通じない異性でもない。彼女の細い体は、白い蛇だ。この部屋に来る人間によって、彼女は姿を変えるだろう。時には猫に、或いは男に、また、大きな女郎蜘蛛にでもなるかもしれない。
 この部屋は、不思議な部屋だ。

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