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短編 「虎は死して」

一宮中学の裏手には山があり、戦後に植林されたと思われる杉林には街をまかなう送電線の鉄塔が並んでいるばかりだ。当然、生徒は立ち入りを禁止されている。
 グラウンド脇の獣道から用具小屋へ道を上っていくのは堂島だった。朝練が始まっていてもおかしくない時間にもかかわらず、学校は静かだった。堂島は姿を隠そうともしなかった。
 小屋が見えた頃、ポケットに入れたスマホがぶるりと震え、メッセージを伝えた。それを確かめてから、堂島はスマホの電源を落とし、小屋の扉を開けた。
 建付けの悪い扉は軋みながら開く。空いた隙間から、黒い塊がもぞと動いたのが見えた。羽音が耳をつく。それは死体だった。
「恒川、ごはん持ってきた」
 顔に集ろうとする鬱陶しい蠅を払い、堂島は菓子パンの袋を死体の横へ投げる。棚の間から姿を現したのは、虎だった。
「袋開けてよ」
 その巨躯に似合わない少女の声がかろうじて堂島の耳に届く。が、堂島は無視して、死体を足で転がした。蠅がわっと飛び回る。体液がしみた床に毛布を広げ、堂島は死体を包み始めた。
「学校に爆破予告だって。今日は休校」
 手伝って、と堂島が言う。死体を蠅ごと毛布にくるむ。いやなにおいが少しだけ収まったようだった。堂島は小屋に置いていたリュックサックを背負う。
「本当にやるの?」
「ここで腐らせておく? それとも、まだ食べるの?」
 頭部と思われる場所に堂島の脚が触れた。彼女の脚は何に当たることもなく、床を踏んだ。
「行こう。恒川には穴を掘ってもらうから」
 堂島は小屋から少し上ったところの斜面が緩やかになっている場所を選んだ。穴を掘るのを恒川に任せ、自分は杉にもたれて座り込んだ。
「次はどうする?」
 堂島の質問に恒川は答えなかった。黙々と前脚で地面を掘った。鋭い爪は血で黒く濁っている。
「殺してやりたいやつがいるから、そんな姿になったんでしょう」
 恒川の耳がぴくりと動いた。顔をゆっくりとふもとへ向ける。堂島はかすかに身構えたが、恒川が見ているのがさらに先だと分かって脱力する。今度は、堂島にも聞こえた。誰かが山を上ってくる音だ。
 恒川、と堂島は囁いた。けれど、声は届かなかった。恒川の瞳孔は開き切って、堂島を見ていない。姿勢を低くした恒川は音もたてずに、杉林の影に消えていった。
 次に恒川が姿を現した時、彼女は口元に用務員を加えて戻ってきた。彼もすでに死んでいた。二人は穴をさらに深くして、山奥へ足を向けた。枝を払われた空き地から、グラウンドに警察が集まっているのが見えた。
「高橋先生、ごめんなさい」
 喉まで血でべったりと濡らした恒川が弱々しく呟く。堂島は背中を撫でてやりながら、これ以上ない幸せを感じていた。人生が変わる予感。堂島は今日という日を待ち焦がれていた。人生のクライマックスというものを。

堂島と恒川の二人は南向きの斜面に身体を横たえていた。堂島は恒川のお腹に頭を乗せて、空を見上げている。額を撫でられて、恒川はごろごろと喉を鳴らした。
 雲が太陽の光を遮ると、恒川が喉を鳴らす音がぴたりと止んだ。
「私が守ってあげるから」
 堂島はそう呟く。恒川のお腹から彼女の鼓動が響いた。分厚い毛皮の下で、二つ分の鼓動がしている。
 身体を起こし、堂島はリュックサックからパイプ状のものを取り出した。手製の爆弾だった。彼女がそれを掲げると、雲が晴れて、陽の光が差し込んだ。鉄パイプは午後の光を反射して、きらりと光る。
「今日でぜんぶ終わりにしよう。それで、幸せになろうよ」
 恒川の爪に肉片がこびりついているのに気付いた堂島は、それを剥がしてやる。恒川は静かに瞼を閉じた。
 その日の夜は満月だった。暗い夜の山でも、白銀の月灯りが堂島たちを照らした。恒川は堂島を背中に乗せて、音もなく山を下りていく。巡回の警官が数人、学校の敷地内を見回っている。懐中電灯の明かりが人数分、見えた。
 堂島と恒川はフェンスを越える。身体を隠すもののないグラウンドは避けた。コの字型の校舎の、開いた口から中庭に入る。正面に玄関があり、ガラス越しに警官が歩いているのが見えた。
「恒川、見張っててくれる?」
 恒川の大きく見開かれた瞳孔が、堂島を見つめた。
「何?」
「今更だけど……」
 恒川は言い淀む。苛立った堂島は強い口調で先を促した。
「ど、怒鳴らないでよ」
 耳をたたみ、姿勢を低くした恒川はぺたりとお腹を地面につけた。
「だって、それは恒川が」
「堂島さんだって、分かってるでしょ! そんな小さな爆弾で学校なんて壊せないよ」
「そんなこと言ったって、しょうがないでしょ……」
 その瞬間、足音が聞こえた。
「誰かいるのか」
 警官が中庭に入ってきていた。怯えた恒川が校舎の影に身を隠す。月灯りの下で、堂島は一人だった。
「こんなところで何している!」
 気付いた警官が、懐中電灯をかざす。一瞬、目が眩んだ隙に、堂島は警官に押し倒されていた。
 地面に組み伏せられて、堂島は抵抗する腕も抑えられた。転がった懐中電灯がゆっくり周囲を照らす。恒川の瞳がきらりと光った。
「恒川、たすけて!」
 その一言で、警官の力が一瞬ゆるんだ。堂島は身体をよじり、ポケットから取り出した折りたたみナイフを横ざまに思い切り振った。
 堂島の手には何の感触もなかった。警官の動きが止まり、拘束がほどけたことを軽くなった身体で感じただけだった。
 堂島は這いずるように警官の下から抜け出し、リュックサックに駆け寄った。転がり出たパイプ爆弾を掴み、リュックの中からライターを取り出す。導火線に火が灯ったのを確かめて、玄関へ放り込んだ。火の粉の軌跡が堂島の瞳に残像をのこした。
 ばん、と爆竹みたいな音がした。え、と堂島は声を漏らす。火の粉がすごい勢いで飛び出して、爆弾はねずみ花火みたいにくるくると回った。
 堂島は爆弾が火の粉をまき散らし続ける姿を眺めていた。橙色の火花が噴水のように湧き上がる。騒ぎに気付いた警官たちが集まってきていた。
 校舎の影から這い出てきた恒川が、堂島に身体を寄せる。
「堂島さん、逃げないと」
 堂島は茫然と花火を見つめていた。
 恒川は堂島の手に頭をすり寄せたが、その手は力なく垂れるばかりだった。仕方なく、恒川は堂島を背に乗せた。
「恒川、下ろして」
 堂島の言葉を無視して、こちらへ駆け寄ってくる警官たちに向かい、恒川は吠えた。野太い獣の声が夜の校舎に響き渡る。
 虎の太い両脚が地面を掴んだ。振り落とされないよう握った手が、血で汚れていることに堂島はその時気付いた。振り返ると、警官たちが振り回す電灯の光がサーチライトのように、夜を駆けている。堂島が刺した警官の姿は分からなかった。
 堂島たちが裏山に逃げ込むと、すぐに警察の山狩りが始まった。上空にはヘリコプターが飛び、警察は横一列に広がって、山を虱潰しに上っていく。
 頂上を目指す恒川は舞うように杉林を駆け抜けた。頭上を覆う枝の隙間から差し込むサーチライトを避けながら、恒川は虎の脚で山を上る。堂島は振り落とされないようにするので必死だった。彼女の背中に顔をうずめ、両手両脚で恒川にしがみついた。
「恒川、もういいよ。もう逃げられないよ」
 恒川が立ち止まる。堂島は彼女の背中から下りた。手の血はすっかり乾いていた。
「行きなよ。私のことはいいから。恒川が殺したいやつのところへ行って、そいつ殺してきなよ」
「堂島さんは付いてきてくれないの?」
「どうせ、足手まといになる」
「一緒に殺しに行こうって、言ってくれないの?」
「だから……」
 と口を開いた堂島は、恒川に真剣に見つめられていることに気付いた。その頬に触れる。弱虫な恒川を焚きつけるのは、いつも堂島の役目だった。
「言ってみなよ。誰を殺したいのか」
 堂島にはもう分かっていた。
「私。私を殺したい」
 恒川は普通の声でそう言った。虎になる前からそう思っていたのだろう。長い間、ずっと前から恒川はその思いを抱え続けていたのだろう。
「堂島さん」
 一匹の虎が堂島を見つめる。荒い鼻息には血の匂いが混じっていた。
「じゃあ、私が殺してやる。その代わりさ……」
 言い切る前に、堂島は恒川に包まれていた。首筋から肩にかけて、すっぽりと恒川の顎におさまっていた。
「これでいい?」
「ああ、充分だよ」
 堂島たちのもとに、警官たちの声が聞こえ始めていた。堂島は予備のナイフを取り出して、恒川の喉に突き立てた。

恒川を抱きしめた感触を、堂島は覚えている。ひどく華奢で小さくて、いい香りがした。恒川は泣いていた。嗚咽するたびに抱きしめた身体が揺れて、息を吸い込んだ恒川の、肺が大きく膨らむのさえ腕の中に感じられた。守ってあげるよ、と堂島は言った。恒川を泣かす世界が間違っている、と堂島は思った。
 恒川の小さな身体が、堂島の腕の中にすっぽりと収まる。堂島はそれを幸せだと感じた。誰も恒川を見ることができない。恒川が誰も見ることはない。ずっと腕の中にいる。堂島と一緒にいる。
 目覚めたとき、堂島はベッドの上だった。朝とも夕とも分からない光が病室に差し込んでいた。ベッドの横には見張りの警官がいて、目を覚ました堂島を驚いたように眺めていた。
 警官が鳴らしたナースコールを受けて、医者と看護師が部屋へ来た。いくつかの簡単な質問があって、堂島が充分に答えると、警察が質問を引き継いだ。初めの質問は見張りの警官で、偉そうな刑事が来ると、次はそれが。
 堂島はどの質問にも素直に答えた。隠すこともなかったし、隠す必要もなかった。ただ、不思議だったのは警察が恒川のことを聞いてこないことだった。学年主任の高橋と用務員が行方不明になっていると言われたけれど、それは堂島と無関係だと思われているようだった。
 検査を挟んで質問は続き、陽が傾いていくのを見て、目覚めたのは朝だったのだと堂島は気付いた。いい加減ひとりになりたかった。五時ごろに夕食が配られると、病室はやっと静かになった。堂島は恒川のことを思った。顔が思い出せなくて、虎の模様が浮かぶのだった。
 その夜、夢の中で堂島は山にいた。恒川を探しているようだった。汗が身体にべたべたとへばりついて、それは山を上る険しさからだけでなく、恒川が見つからない焦燥感による汗でもあった。どこからともなく誰かが泣く声が聞こえていて、堂島は声のする方へ歩いていくのだが、声はいつの間にか背後の方へ回っていた。堂島は泣き声が恒川のものだと信じ切っている。だから、早く駆けつけてやりたいと思うのに、恒川のもとへはたどり着けない。焦りばかりが募った。
 次の日の朝、堂島のベッドの横に立っている警官は、包帯で腕を吊っていた。
「うなされてたよ」
 丸椅子を引きずって、警官は堂島の隣に座った。
「昨日、目が覚めたんだって? 後遺症もないみたいでよかった」
 堂島は身をよじり、ベッドの端の方に身体を移した。それを見て、警官が苦笑いをこぼす。
「自分が刺した相手だぞ、覚えてないのか? って、そういう相手だから避けてるのか」
 警官はあくまで親しみやすそうな態度を崩さないつもりのようだった。あるいは、そういう風に接するのに慣れきってしまっているのかもしれない。
 彼は包帯を巻かれた腕を見下ろし、
「最悪、握力が戻らないかもしれないと言われたよ。上司は内勤をすすめてきた」
 と言って、堂島を見ながら微笑んだ。当てつけのような感じはなく、ただ残念そうな口調だった。
「どうして平気でいられるの」
 初め、彼はとぼけた。分からないという顔をして、堂島を見つめる。
「私が憎いでしょ。腕が不自由になるだなんて」
 堂島の挑発にも何も答えなかった。
 堂島は耐えられないくらい、泣きたくなった。警官に何を言わせようとしているのか、自分で理解したからだった。憎まれたいのは堂島の方だ。自分がしたことは、取り返しのつかないことだと責め苛んでほしいと願望した。
「誰もが平気なふりをしているだけだよ」
 堂島が見たのは、余計なことを口にしたと恥じ入った彼の横顔だった。
「そういえば、彼女に会ったよ。前に見たときは虎の姿をしていたけれど、案外かわいい顔をしてるんだね」
「恒川のこと?」
「そういう名前だったのか。君によろしく、と言っていたよ」
 堂島は身を乗り出した。
「どこで会ったの?」
「君が倒れていた山の中で」

病院を抜け出した堂島は山の中を歩いていた。泣き声を頼りに恒川を探す。身を潜めていた小屋にも、用務員を埋めた空き地にも、二人で休んだ斜面にも、恒川はいなかった。それでも堂島は探す。すべって転んで落ち葉が頭にくっついても、ぬかるみに足を取られて泥を浴びても、堂島は諦めるつもりはなかった。恒川を連れて帰るまでは。
 堂島は声を追いかける。いつの間にか、傾いた陽は山の向こうへ消えて、夜の帳が東から手を伸ばす。視界は宵闇に満たされて、声だけが堂島に方向を示す。それなのに、二人は一向に近付こうとしなかった。
 もう会えないのかもしれない、と堂島は思った。足を止めそうになる。息が上がって、苦しかった。
「恒川」
 呟いてみる。木々のざわめきに、堂島の声はかき消された。
「恒川!」
 自棄になって、叫んでいた。堂島は思いっきり息を吸い込んで、もう一度、恒川の名を呼んだ。一瞬、泣き声が止む。
「堂島さん……?」
「どこにいる? 恒川」
「こっち、こっちだよ」
 声が示した方へ、堂島は歩き出す。歩く速度がもどかしくて、気付けば走り出していた。
「恒川」
「こっち」
「恒川!」
「こっちだよ!」
 白い光が見えた。木々の間を抜けて、堂島は光の中へ飛び込んだ。月灯りだった。真っ白な光が差し込む広場に、堂島は立っていた。向こうには恒川の姿がある。一糸纏わぬ、あられもない姿だった。
 息を整えながら、堂島は恒川を見ていた。あまりにも細い身体、細い腕、細い脚。強く握ったら、簡単に折れてしまいそうだった。あばら骨の浮いた胸では、心臓が脈打つのが見えていた。
「何でこんなところにいるんだよ。早く帰ろう」
 恒川は静かに首を振った。恒川は笑っている。
「いいから、帰ろう」
 堂島は恒川に近付いて、腕を取った。座ったまま堂島を見上げる恒川の腕は、ひどく重たく感じられた。
「堂島さんこそ、どうしてここにいるの?」
「恒川を連れ帰るためだよ」
「出来ないって分かってるのに……」
「出来るよ……! どうしてすぐ決めつけるんだよ」
 恒川は困ったように笑う。
「私には分かるよ。もう終わったんだって」
「まだだ」
「私はもう死んでるんだよ」
 恒川は言った。
「高橋先生に殺されて埋められて、だから、堂島さんは爆弾を作ったんだよね。私の仇を討とうとして」
「……」
「ごめんね、もう大丈夫だよ。私はこのまま死んでいくから。だから、私のこと忘れていいんだよ」
「勝手なこと言うなよ。私がしたくてしたことだよ。それなのに、忘れていいって……忘れさせないためにやったんじゃん。あいつらに恒川のこと、一生忘れさせないために」
「もう充分だよ。もういいの。私は満足」
 もう堂島は何も言えなくなってしまった。自分のお腹をさすり、恒川は本当に満足そうに笑った。
「なら、私も連れてってよ。私も恒川と一緒に行きたい」
 堂島の手をするりと抜け出して、恒川は一歩後ろに下がった。堂島は追いすがるけれど、恒川が離れる方が早かった。
「ごめんね、さよなら」
 強い光が恒川の背後から差し込んで、堂島の視界は眩む。手を伸ばして、だけど、届かなかった。
「さよならじゃなくて……またねって言ってよ」
 恒川はいなくなった。堂島はひとり、月灯りの空き地で涙を流した。

目覚めたとき、夢だったならどんなに良かっただろうと堂島は思った。あれから十年が経っていた。高橋教諭と用務員はいまだ見つからずにいて、もう死んでしまったのだろうと誰もが思っている。そして、恒川も。
 堂島が病院を抜け出し、恒川を探して裏山を駆けまわった夜、気付けば堂島は山の斜面に横になって眠っていた。側には腕を吊った警官がいて、彼は堂島が目を覚ますまで隣で待っていたのだった。
「見つかったか?」
 と寝起きの堂島に彼は言った。堂島は静かに首を振って、立ち上がった。
「もうどうでもいい」
 本心ではなかった。どうでもいいのではなく、どうしようもないというのが本音だった。堂島が出来ることはもうない。
 以来、堂島は恒川のことを忘れるようにして生きてきた。何かに一生懸命になることもなければ、夢中になることもなく、ただ平坦に毎日を過ごそうと決めたのだった。堂島がしたことがそんな生き方を許さなかったし、普通とは違う苦労を抱えることもあったが、堂島にはどうでもいいことだった。
 あの日、堂島が感じたように、彼女にとっては恒川と逃げた日々が最高潮で、そのあとに続く毎日はエピローグに他ならなかった。堂島は余白の埋め方を知らない。だから、寂しかった。恒川が隣にいないことではなく、恒川が死んでしまっているかもしれないと考えることが寂しかった。
 今も時折、警官が家を訪ねてくる。名を知ったのは、事件から一月も経ってからだったのを、堂島はいまだに話のネタにする。相原という警官は堂島がナイフを刺した、あの警官だった。右手の握力は、結局元には戻らず、左手の三分の一ほどしかない。交番勤務から事務方の仕事へ異動になった。一か月に一回ほど、堂島を誘って酒を飲みに行く。彼もまた恒川のことを気にしており、何回に一回は、恒川の話題を酒の席に上らせる。
 その度、堂島は気のない振りをして、話を受け流した。恒川はどこにもいない。それが分かっている分、話をするだけ無駄なような気がしていた。相原から交際を申し込まれてもいた。二度断って、三度目に家に招いた。恋愛感情はなく、離れがたい彼の執着への同情だったが、それでも堂島自身の意志だった。隣にいたいと思う相手は遠くへ行ってしまった。隣にいても構わないと思う相手は、もう長らく出会っていないのだった。愛していないことは伝えた。彼は構わないと答えた。そして、堂島が話したことをさして、
「それも愛って呼ぶんじゃないか」
 と言った。それには、自惚れだと返した。堂島には分からなかった。
 子どもが欲しいという相原のために、二人は養子を取ることにした。施設を見学して、色々な説明を受けた。けれど、堂島の目はひとりの少女に釘付けになっていた。まるで、出会う運命を待ちわびていたように彼女は窓辺の椅子にもたれ、中の様子をうかがう堂島を見つめていた。
 九歳ほどの年齢だという彼女は、生まれて間もなく施設に置き去りにされていたのだという。だから、本当の名前も誕生日も分からない。彼女は何も持たない少女だった。
 堂島の動揺した様子に気付いた相原も、すぐに状況を理解した。
「あの子と話をしたいのですが、可能ですか?」
 施設長はゆっくりと頷いて、少女の前に二人を案内した。
「はじめまして」
 と律儀に頭を下げた少女の声は、やっぱりそっくりで、あどけない声色が怖いくらい、そのままなのだった。
 黙りこくっている大人を前に、少女は首をかしげて、疑問を示す。先に我に返ったのは相原だった。
「なんていうか、君はぼくらが知っている人に、すごくよく似ているんだ。それで驚いてしまって」
 しゃがみこんだ堂島が、少女と目線を合わせる。覗き込めば覗き込むほど、違いが分からなくなった。
「私はあなたと一緒にいたいと思うのだけど、どう?」
 少女はすぐには答えなかった。じっと堂島を見つめ返し、何を言うべきか悩んでいるようだった。
「ぼくらはもう君を引き取ることに決めたよ」
 相原が言うと、少女はようやく口を開いた。
「わたしに似ている人って、どんなひとですか?」
 その質問は、これから何度も繰り返されるだろう。その度に、堂島は語り直さなくてはいけない。話すごとに少しずつ分かっていくだろう。目の前の少女と、記憶の中の彼女が違う存在なのだということを。それでも、堂島の気持ちが変わることはない。
 寂しさを抱えている。大切に、守るように。

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