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短編 「水の中に居ります」

 以下、上記、シェアード・ワールド企画に応募した作品になります。
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 水の中に居ります。留まることなく、流れ続けるものの中に。

 水死した鹿の四肢から川下に向かって、白い血が流れていくのを見たのは、私たち妹のひとり。まるで煙のようにたゆたい、川の流れに消えていってしまったそれは、川面を漂う朝靄だったかもしれないのですけれど、彼女はほぐれてしまいましたので、残り香を胸にかかえている他ないことなのでしょう。
 ほぐれた身はやわらかく、白魚のくずれやすい白身によく似ております。実際召し上がったお客様は勘違いされておられましたけれど、いかにも血の香りが強いために父上は決して口にはなさいません。骨の髄まで啜って、召し上がることもできます。食べ終えたあとの骨は数日乾かして、何本か軒につるしておきますと、からからと鳴るその音が魔除けになるのだと信じていた老婆は肺から血を吐いて、亡くなられました。煙が肺にまぎれたのでしょう。曾祖母でございました。くずれたところのない美しい身体は今も裏庭の霊廟で朽ちることなく眠っております。私たちは欠けていたり、あるいは、余している。

水音が絶えることはございません。ですから、薪を欠かすことはできないのです。地下のボイラー室では従僕が薪をくべては、薪を割り、薪をくべては、薪を……ええ、繰り返しております。浴槽からは水があふれ、タイルの上を滑って、暗い排水溝へと吸い込まれていきます。金網に絡まった毛髪さえ美しいこと。水の流れにゆらゆらとなびいておられる緑髪からは、水に染みた芳香が馥郁と。
 姉でございます。溢れんばかりの温く水に身を横たえて、焦点の合わぬ目を艶やかに眼差しますのは、私たちの姉、付け足すところも削り取るところもなき、私たち妹の誇りでございます。どうか激しくなさいませんよう。もちろん、お楽しみに水を差すようなつもりのないことはご承知いただきたく……絶えず耳をおかす水音の中、扉の外に控える私たちのもとにも姉の嬌声はひびいておりますゆえ。
 しかし、美を称えた姉の崩れん許りの身体がこれほどまでに頑丈だとは父上もご存じないでしょう。それもまた長姉のお役目でございますれば。姉はもう充分な数の妹たちを産み落とされました。それはもう充分に。

 姉がご来客を迎えられるとき、お客様をご案内申し上げるのは私たち妹の仕事。たとえ、使われてはおりませぬ客室の影に引き込まれたとて叫ぶわけにはまいりません。私たちは一見すると美しく、欠けたこともなき身体に見えるでしょうが、来訪されるどこかの街の御曹司には、私たちがお仕着せを身に付けている理由というものがお分かりにはならないのでしょう。メイドキャップに隠した耳の裏の襞、フラットシューズに押し込めた足指の股、臍のない平坦な腹部を知られるわけにはいかないのです。
 お屋敷は丘の上に建ち、空気より重い煙がここまで昇ってくることはありません。お屋敷の背後から谷風が吹くおかげで、丘のふもとを流れる川はいまだ清く、獲れる川魚の身は大変美味でございます。時折、水を求めてやってくる獣を狩り、その肉を食すことも。
 罠を仕掛けておくのです。一人、川辺で歌わせておくと、釣られた獣が面白いほどよく獲れます。乾かしておけば、猿の腕も鹿の脚も肉には変わりません。けれど、スープがもっとも美味かと存じます。獲れたばかりの肉を川の水で煮て、脂の浮いた煮え湯が唇に薄い膜を張る。甘い肉の脂が口の中で蕩けて、鉢のハーブを加えればもう言うことはありません。父上や姉には内緒で、私たち妹だけで川辺に竈を設けることも。
 この話は、どうかご内密に。

 川魚の裂いた腹からまろびでた魚卵の膜をご覧になったことはございますか。
 何とも言えぬ色合いをしていて、尚且つ、それが刻々とかたちを変えるのです。矯めつ眇めつ、暗紫色から翡翠色へと変化するさまを眺めていると、さながら水に浮かんだ脂が、こうして魚の腹の中で凝ったようにも感じられ、あるいは、宙に浮かぶ煙が水に染みた姿がそうなのではないかと思われます。
 しかし、その輝きもいつかは褪せるもの。卵膜は次第に血の色に染まり、糞便を詰めた他の内臓と大差なく濁ってゆきます。美しさをとどめておく方法を私たちはひとつしか知りません。なみなみと湯をたたえた寸胴鍋に、一思いに滑り込ませるのです。魚卵は鍋の底まで沈んでいき、濛々とたちのぼる湯気に隠れて見えなくなりますが、時が来ると、それは湧き上がる泡と共に表面へ上ってきて、新しく生まれ変わった美しい真珠色の肌をあらわします。覗き込めば顔が映りこみそうな、張りつめた膜の表面は、生身の、形容しがたい色の混交とはまた異なる美しさでございます。
 父上などは、それをつるりと一息に飲み下してしまいます。私たち妹は、それを眺めるばかり。ああ、一度でいい。あの白色を飽くまで飲み下してみたいものです。たった一度でよいのです。ただの一度、妹たちに食べさせてやりたい。

 砕けた陶のうつわが青いタイルの上に散らばっている。こぼれた湯には赤い糸がほどけて、滑る。水はかたちを失い、ひび割れた浴槽からまろびでた麗しい肉体は、平たく潰れて、そう、鮟鱇という魚が陸揚げされた姿と同じ。妖しいひかりで獲物を誘うという。
 妹たちはその肉体に群がっている。ほぐれた白身はほろほろとくずれやすく、指で鷲掴みにして、もいだ肉にかじりつく。肉には指の痕がくっきりと残り、まるで粘土細工のよう。肋骨のひとつを曲げると枯れ枝のような音を立てて折れた。こびりついた肉を指でしごいて、こそいで肉団子にする。身体はすぐに骨だけになった。骨の髄まで妹たちは啜る。妹たちは私の身体にすがりつき、啄んだ肉をめいめい私に差し出している。美しい肉、美しい血。タイルに舌を這わせ、姉だったものの煮汁を啜る妹たち。これからは、すべて私の妹。
 さあ、水音を絶やさずに、ボイラーを沸かし、浴槽に湯を張り、客を招いて、続けなければ。姉であったものがそうしたように、私もまた、続けていく。
 結んだ先からこぼれる水には、かたちを与えて、掬い上げなくてはいけない。うつわに入れて留めても、淀んだ水が濁るのならば、水音を絶やしてはいけない。注ぎつづけて、それまで、美しさは私のもとにある。繰り返し、繰り返して。

 彼は度々お屋敷を訪ねてきたが、誰も彼の目当てが姉の方ではなく、妹だとは気付かなかった。彼は姉とは戯れたが、妹たちには手を出さなかったからだ。しかし、訪ねてくると決まって、喉に傷跡のある娘はいないのか、いるのなら彼女に案内役を、と言った。
 その妹の顔はひどく歪んでいた。頭蓋骨がひどくやわらかく、鼻や気道がつぶれていたために、喉にはプラスチックの管が挿入されている。そのため満足に話すこともできない。当然、彼が彼女に懸想しているなどと考える者はいなかった。まず第一、二人の間にどんなコミュニケーションが成り立つというのか。屋敷の人間たちは想像すらできない。
 こういう物事について、人は少なからず、彼女にすぐれたところがあったのだと想像したくなる。彼は惹かれただけの理由があるのだと。断言するが、彼女は平均的な妹たちのひとりだった。お屋敷の外の人間を軽蔑し、血族の他の従僕を嘲笑した。妹たちはみにくい彼女をもまた愚弄し痛めつけたが、それは妹たちの基本的な態度であり、父ですら、彼女を杖で打ち据えることがあるほどだった。
 彼女に特別なところなどなかった。あるとすれば、みにくいその姿だったかもしれないが、それは屋敷の外へ出れば、特筆すべきものではなくなる。
 そんな彼女を愛するのはただ姉と、彼だけだった。

 浴室で彼と姉は身体を重ねて、むつごとの代わりに妹の話をしていた。彼は、彼女を屋敷の外へ連れ出したいと考えていたのだ。それに姉も賛成していた。問題は妹たちがそれを許すかどうかだった。父は黙認するだろうという意見で二人は一致していた。妹たちに知られず、あるいは、納得させる形で彼女を屋敷から出すことはできないだろうか。
 彼は屋敷へ来る途中で、丘のふもとに、どこかの工場から逃げてきた一団を見たことを、姉に話した。彼らを利用できないかという相談だった。姉は、であるならば彼らを屋敷に招き入れようと言った。その中に彼女を紛れ込ませて外へ出し、折を見て、彼が迎えに行けば良い。姉は早速妹たちを呼び、流浪の一団に喜捨を与えることを決め、屋敷の門を開いた。
 一方で、一団の中では川へ水汲みに出かけたものたちが帰らないことが噂になっていた。森からは不思議な歌声がひびいている。いずれも丘の上の屋敷が関係しているに違いなかった。
 屋敷へ招かれた彼らは怯えながら、卓へついた。物珍しげに調度品へ目を配り、あるものは銀食器を懐へしまい込んだ。
 そして彼らは供された食事を見て、激怒した。屋敷に火を放ったのは一団のリーダーを務めていた男だった。給仕係を殴りつけ、テーブルの燭台を手に取ると、彼はテーブルクロスへ火を点けた。繻子の窓帷や緋毛氈は軽々と燃え上がり、火勢は一気に屋敷を包みこんだ。従僕たちは止めようともしなかった。妹たちは彼らに組み敷かれた。暴力というものに、ひどく無耐性であった。
 裏庭で父の首が掲げられ、暴かれた霊廟から干からびた老婆の遺体が引きずり出される。水から上げられた姉は無力で、妹たちと並べられて真っ先におかされた。舌を噛み切るということすら知らぬ彼女たちだった。姉と共にいたところを捕らえられた彼は、生きたまま、身体を貪り食われた。一団の者たちは当然の報いだと彼を罵った。彼の壮健な肉体に歯が立たない者もいて、口角から飛んだ泡に歯茎からこぼれた血が混じった。
 彼らは、従僕たちを解き放ち、どこへなりとも好きなところへ行けと告げた。その中には、彼女もいた。
 彼女は燃える屋敷を見上げていた。雲のない澄み切った夜空へ、屋敷から立ち上る黒煙が星の光をさえぎり広がる。夜を照らすのは、屋敷の炎ばかりだった。その灯りを頼りに、一団は姉妹を凌辱している。
 彼女は自らと同じ妹たちに近付こうとした。けれど、周りを囲む人だかりに弾かれて、地面に倒れ伏した。どこかへ行けと誰かが叫び、手にした松明をかざした。彼女は恐ろしくなって、力の入らない脚を引きずるように火から離れた。樹の影に身を潜めて、自分の身体を抱きしめるようにして涙を流した。もろい身体はみしみしと音を立てて軋み、指の腹を骨が突き破って裂けた。彼女は泣き疲れて眠るまで泣いて、からからに枯れた喉を自分の血で潤した。

 屋敷の火はすっかり下火になり、燻りがわずかに煙を立てるだけになっていた。彼女の周りには白い朝靄が立ち込め、頭上を覆う薄曇りの空からは針のように細かい雨が、それとは気付かぬほど控えめに降っている。
 すべては終わったあとだった。彼女のそばには誰もいなかった。一団も、父も姉も妹たちでさえ、跡形もなく燃え尽きた後だった。ほのかに、肉の焼ける匂いが彼女の髪に染みていた。彼女にはどこにも行く当てがない。彼女は毎朝していた通り、川へ水を汲みに行こうと考え、丘を下りた。
 川辺にも、やはり誰もいなかった。川に手を浸して、血を洗い流し、顔を洗った。川面には昨日と何も変わらない彼女の顔が映っている。歌い始めたのはそれが彼女にとっての日常だったからに他ならない。彼女は喉にではなく、身体全体に歌をひびかせる。その歌声はほかの妹たちよりも遠くへ届くのだった。
 やがて枝を揺らして、少年が姿を現した。少年の瞳は白く濁り、視力を失っているようだった。彼は歌につられて、彼女に近付く。麗しい歌声の持ち主が善き人であると信じて疑わなかった。
 彼女は脚について考えていた。熱で溶けた肉がくっついて、脚は開くことが出来なくなっていた。爛れた肉が足先でひらひらと揺れている。目の前の少年はいとも簡単に水へ沈められそうだった。
 彼女は少年の頭に手を乗せた。少年は撫でられたのだと思って、微笑む。彼女が腕に力を込めたのと、少年が口を開いたのが、ほぼ同時だった。
 川面を渡る白い霧を、彼女は見つめていた。
 若い牡鹿の肉はナッツの香りがするという。


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