短編 「非公式自殺クラブ」
非公式自殺クラブを知ったのは、つい先日のことだった。
中へ入ると、放課後の職員室は、人でごった返していた。コピー機を占領する生徒会や、部活へ出かけていく体育教師などが往来し、ひっきりなしに出入りを繰り返す生徒たちは、口々に失踪した神崎くんの噂をしている。
入り口に立ち尽くす私を見つけて、丸山先生が立ち上がり、手招きした。
「岡崎、こっち」
私は給湯室から出てきたおじいちゃん先生の前を、軽く会釈しながら、通り過ぎる。案外、ああいう無害そうな先生が、自殺クラブの顧問なのかもしれない。
「相談って話だったけど、何かあった?」
ペンギンの可愛らしいマグカップでコーヒーをすすり、先生は、ノートPCのファイルを閉じて、私の方に向き直る。
「あの、ここだと少し……」
「……じゃあ、場所移そうか」
コーヒーはすっかり冷めていたのだろう。先生は一息に、カップを乾かし、隣の学年主任に声をかける。今日は準備室、使わないですよね。学年主任は、丸山先生の顔を見て、一瞬とまり、ええ、使う予定はないです、と無味な返事をした。
「付いてきて」
国語準備室、とタグの付いた鍵を差し込み、扉を開けると、中からは古本のにおいが漂ってきた。準備室とは名ばかりで、ほとんどが教材置き場のようになっている。日に焼けた過去問集や、古めかしい革張りの古文法研究という題の参考書などが山積みになっている。教科書の山を掘り返したら、化石でも出てきそうな雰囲気だった。
校舎の最上階ということで、放課後の喧騒も遠い。野球部の掛け声に混じって、吹奏楽のでたらめな旋律がかすかに響いていた。
「それで?」
と丸山先生が、椅子を引いて、私に勧めてくれた。
「実は、貴子についてなんです」
「貴子って、あの新城貴子? 岡崎と仲良かったんだ」
「先生、驚かないんですか?」
「何が?」
「私が貴子から、相談を受けるなんてって」
いや、多少は驚いているよ、と言った先生の顔はあじけなかった。
「けれど、あの新城貴子にも、悩みがあるんだねえ」
「先生たちは、みんなそう言いますね」
「私以外にも、相談したの?」
「してません。話すのは、丸山先生が初めてです」
丸山先生は、後ろで一つにまとめていた髪をほどいて、
「彼女は、岡崎に何て言ったの?」
「その前に、約束してほしいんです。このことは私と先生の二人の秘密にしてください」
「それは承知してるよ」
では、と私は話し始める。あれは一月ほど前、私の家で、期末テストの勉強を教えてもらっている時のことだった。
休憩に、貴子が持って来てくれたケーキを食べた後、私たちは横になって、くつろいでいた。先に口を開いたのは、貴子だった。
「私、最近、へんな夢を見るんだ」
「夢? どんな?」
「人をナイフで刺し殺す夢」
思わず、固まった。
「……それ、毎日見るの?」
「うん、毎日。相手はいつも決まった人で、私は、すっごく充実した気持ちになるんだ。なんていうか恋人に抱きしめられたような、そんな感じ。胸の奥がじわーってあったかくなって、気持ち良くなるの」
「怖く、ないの?」
「怖い? ううん、全然。起きて、夢だったって気付いた時、すごくがっかりする」
貴子がすごくへんなことを言っている、と思った。それじゃあ、まるで人殺しをしたい、と言っているみたいじゃないか。
私は、隣で横になっている貴子に顔を向けると、彼女は天井をぼんやり見つめ、頬を赤く染めていた。
そこまで話して、先生の顔を見ると、先生は怪訝そうな顔をしていた。
「それは夢の話だろう。岡崎がどうしてそこまで心配そうにするのか、分からないな」
「非公式自殺クラブを、知っていますか?」
私が切り出すと、先生はぐっと眉をひそめた。扉の向こうで、誰かが廊下を走っていく音が聞こえた。学校は先ほどと打って変わって、静かになり、本来の静寂を取り戻す。
「先生、どうなんですか?」
「……名前だけは知ってる。この学校で、非公認のクラブ活動をしているところだろう?」
「そうみたいです。私も名前が分かるところまでしか、調べられていませんけど。私はそれを貴子から聞いたんです」
その時、それまで動じていない先生が、初めて動揺を見せた気がした。
「新城貴子が、非公式自殺クラブの会員という訳だ」
「それだけじゃありません。もしかすると、貴子はクラブを利用して、人殺しをしているかもしれない」
先生は、ゆるく首をかしげた。
「どういうこと?」
「二年三組の神崎くん」
私がそう言うと、先生は目を大きく開いた。
「一週間前から失踪している神崎君は、もう死んでいるのかもしれません」
貴子との出会いは、中学の入学式だった。貴子は、私に話しかけてきた。聞けば、学区外からの入学で、知り合いが一人もいないらしく、私は親切から、彼女を自分たちのグループに招き入れた。
私は小さい頃から、他人の才能に無頓着だった。自分が普通の人間だと、早くに気付いたせいか、私は他人に嫉妬したことがない。もしかすると、ただ呑気なだけかもしれないけど……。
貴子は、そんな私を気に入って、話をしてくれたのだと思う。
「私、この学校から見える景色が好きなの。前に住んでた街には、海がなかったから」
山の中腹に建てられた学校からは、太平洋が見渡せた。海に突き出た半島にある、この街は、海に囲まれた城のようだった。
「私、人より美しい景色の方が好きなんだと思う。人の話し声が、がやがやと騒がしいのは嫌いで、本当は学校も苦手なの」
貴子が、すごく弱々しく見えた。初めて見る顔に、私は彼女を守らなきゃ、と勝手に考えた。庇護欲をそそられるくらい、貴子はかなしそうな表情をしていた。
「空に飛び出したくなる。ならない……?」
私は頷き、空に伸ばした貴子の手の、指の先をじっと見ていた。
「とっても綺麗な海ね」
貴子がこの街を褒めると、自分が褒められているような気がした。
貴子が、周囲にうまく馴染めていない頃だった。彼女が持ち前の才能を見せつけて、周りを認めさせるのは、もう少し先のことで、そうすることで却って、孤立するのはまた別の話だ。
私は誰の隣にいるのも、苦痛にならない。だけど、誰の隣にいたいかは私の自由だ。
貴子の隣は、彼女の優秀さ故に、居心地がいいけれど、私が選んだのは、そんな理由ではなく、貴子の隣に立つことのできる人は限られているだろうな、と思ったからだった。
先生は机の上のほこりを払い、そこに肘をついた。
「それで、非公式自殺クラブについて、新城は何て言ってたの?」
昨日の放課後のことだった。私の委員会が終わるのを待っていてくれた貴子が、帰り道に一言、
「私、非公式自殺クラブに誘われた」
と言った。初め、私は言葉の意味が分からなかった。ヒコウシキジサツクラブ? 飛行式? と頭の中で漢字の誤変換が起こり、混乱した。けれど、すぐにそれは貴子の命に関することだ、と直感した。
「それ、貴子は受けたの?」
貴子は頷く。
「なら、私もそのクラブに入る!」
「……ダメなんだって。本当はこの話もしちゃいけないの」
それっきり貴子は、自殺クラブに関することを一言も話してくれなかった。
先生は、思案顔でうなると、慰めるように、
「この学校で自殺した人は一人もいないよ」
「でも――」
と飛び上がるように声を上げた私を、先生は、まあ落ち着いて、となだめる。
「岡崎にも熱血なところがあるんだね」
「私、昔はやんちゃで、木登りして、腕を骨折したことがあるんです。それで、親に泣かれて以来、そういうの自制してるです」
ふふっ、と先生が笑みを漏らす。でも新城貴子のことは別というわけだ、と。
「貴子は、特別ですから」
「分かった。そんなに彼女のことが心配なら、案内してあげよう」
「先生が、ですか?」
「岡崎は、本当に運がいいな。まったく、仕組まれてるみたいだ」
理解が及ばずにいると、先生は立ち上がり、さあ、行くぞ、と言う。
「どこに行くんですか?」
「新城貴子のところだよ」
部室棟の地下には、隠された部室がある。学校七不思議のうちの一つだ。だが真実、部室棟の地下には物置があり、そこにはかつて存在していた各部活動の備品が、今もおさめられている。
先生はほこりっぽいそれらの備品を、すいすいと避けつつ、先へ進んでいく。頭上にぶら下がっている裸電球が唯一の灯りだった。
「先生、こんなところに何があるっていうんですか」
「黙って、付いてきて」
先生はさっきから、それしか言わない。少しでも触れば、崩れそうなパレットの横をすり抜けると、先生が、早く、と急かす。
「待ってください」
広い部室棟の物置で、置いていかれたら、たまらない。迷子になって、一生、さまようことになるかもしれない、と思うと、先生に逆らえなかった。
パレットの間を抜け、少し開けた場所についた。
「あれ、先生?」
どこにも姿が見えない。
「こっちだ、岡崎」
声のする方を見ると、薄暗がりの中に階段が見えた。
「階段を上がってこい」
指示に従い、階段を上がると、そこは半地下の部室になっていた。天窓がちょうど地上の高さらしく、地面が見えていた。
「岡崎?」
声の主は、神崎くんだった。部屋にはベッドと机があり、先生と神崎くんの二人がいた。
「どうしてここに?」
「私が連れてきたんだ」
と先生が間を取り持つ。
「じゃあ、クラブにも?」
「いや、それはまだ」
と二人でこそこそと何かを呟いている。
「というより、神崎くんこそ、どうしてここにいるの? 失踪事件だって、今、大問題になってるよ」
いや、それは、と口ごもる神崎くんの代わりに、先生が、
「軽い家出だよ。初めは海外の親戚の家に行くと言っていたんだけど、どうにか説得して、ここに留まってもらってる」
苦肉の策、というやつだな、と先生は溜め息を漏らした。
「俺だって、本当はこんなかび臭いところ、嫌なんだよ」
神崎くんの愚痴を聞いて、一安心する。てっきり、私は貴子が神崎くんを殺してしまったんじゃないかと思っていたから。
「そんなことより、貴子はどこですか?」
本当に落ち着きがないな、と先生がひとりごちて、
「もうすぐ来るよ。それまで待てるかな?」
と嘲笑を含んだ笑みを浮かべる。そこに神崎くんが口をはさむ。
「何、岡崎は新城のことでここに来たの?」
「そうだけど、何か問題?」
ははは、と神崎くんが笑う。その笑いには、やっぱり嘲笑う感じがあった。
「かわいそうな新城。そんなに心配なら、話の一つでも聞いてやればいいのにな」
私は神崎くんの嘲笑に、むっとする。
「それ、どういう意味?」
「新城が、こんな怪しいところに通う理由を考えてみろよ。どう考えたって、お前が原因だろう」
は? と口を突いて出る瞬間、先生が、
「おしゃべりはおしまい。来たみたいだ」
と言うと、階段をのぼってくる音が聞こえた。
「先生? 来ましたけど」
と顔を出したのは、貴子だった。顔を上げた彼女は、部屋にいる私たちを見回して、わずかに眉根を寄せた。
「貴子……」
「岡崎さん」
と貴子は私の名を呼ぶ。
「よくここが分かったね」
「先生に連れてきてもらったから」
「じゃあ、全部聞いたの?」
私が怪訝な顔をすると、貴子は先生の方を見た。先生は話を継いで、
「その話は私がするよ」
と言った。
「まず、岡崎。非公式自殺クラブへようこそ。ここは、非公式自殺クラブの部室だ。ゆっくりくつろいでくれ」
貴子の方を見ると、彼女は私に向かって、静かに頷いた。
「このクラブには、ある特別な条件を満たした生徒だけが所属している。貴子も神崎も、私やクラブのメンバーが認めて、勧誘した。もちろん、誘いを受けるかどうかは、個人の自由だよ。他言は無用、とだけは固く誓ってもらうけれど」
「それじゃあ、先生はこのクラブの顧問っていうことですか?」
ああ、そうだ、と先生は首肯する。
「ただ、私はほとんど何もしていない。このクラブは、ある種の互助会のようなもので、私がするべきことはないからね」
「なら、このクラブは何をしているんですか?」
私の質問に、先生は口角を上げ、唇を三日月にした。
「集まって、話をするんだ。それぞれの悩み相談とか」
瞬間、私の頭に疑問符が浮かんだ。そして、それを見越したように、先生が話し出す。
「このクラブにやってくるのは、自殺願望を抱えた生徒たちだ。しかも、ただの自殺志願者じゃあない。それぞれが生きたいと願いつつ、希死念慮を捨てられずに苦しんでいる子たちが集まるんだ」
私はゆっくりと、貴子の方へ振り返った。彼女は申し訳なさそうに顔を伏せ、スカートの裾を握っていた。
「新城も、神崎も、そんなわけでここにいる。理由は言わなくても、なんとなく分かるだろう?」
私はその理由へ、わずかに思考を巡らせる。神崎くんは家出をしたい、と言っていた。ということは、つまり家庭に不和があることが、クラブに通う原因なのだろう。
では、貴子は?
「貴子、私に相談してくれたのって、そういう意味だったんだね」
貴子は静かに頷く。
「ごめん。ごめんね、気付いてあげられなくて」
つと、貴子へ一歩踏み出すと、
「近付かないで」
と彼女は拒絶するでもなく、普通の調子で言った。
「貴子……本当にごめん。私、貴子がそんな風に思ってたなんて知らなくて。怖くなっちゃっただけなの。私……」
「ううん、分かってる。岡崎さんは何も悪くないよ」
「そんなことない!」
貴子は私の声に顔を上げ、ふるふると頭を振って、黙ってしまう。
貴子の方へ一歩踏み出すと、先生に手を掴まれた。
「彼女が悩んでいるのは、何も岡崎に話したことだけじゃないんだよ。新城、いい機会だから、教えてあげたらどうかな?」
貴子は前髪を指で払い、おずおずと口を開いた。
「岡崎さん、私、夢を見るって話したよね。人を殺す夢。相手はいつも同じで、その夢を見る度、とてもいい気分で目が覚めるんだって」
うん、と私は相槌を打つ。
「私ね、ある時、気付いたんだ。私は殺人がしたいんじゃない。誰でもいいわけじゃないんだって。いつも、夢に出てくるのは、岡崎さんだったの」
そう言ってから、貴子は唇を噛んだ。耐えがたい汚物を吐き出したような、苦しい顔をして、貴子は立ちすくんでいた。
「……今も、そう思うの?」
貴子は答えなかった。つまり、答えはそういうことだ。
「私が隣にいる時、貴子はずっとそう思ってたってこと?」
先生が私の肩を掴む。
「岡崎、そんな風に新城を責めないであげてほしい」
貴子の身体が怯えるように、びくっと跳ねた。
「あ、ち、違うの、貴子。責めてるんじゃないの」
私は先生の手を振りほどいて、貴子をぎゅっと抱きしめた。貴子の細い身体は、私の腕の中にすっぽりとおさまった。
「……安心した。私、ずっと貴子が犯罪者になっちゃうんじゃないかって心配だったの。だから、貴子が私だけを見てくれてるのなら、それはすごくうれしい」
「岡崎さん、私のこと、へんだと思わないの?」
抱きしめた貴子の吐息が、肩にかかる。ぱた、ぱた、とじんわりしたぬくもりが、肩口に広がる。
「へんだと思うよ。だけど、それが貴子なんだって、思うから」
貴子が不安に思う気持ちも、私は分かる気がするんだ。私も小さい頃は、へんだったから。男の子たちの間にまじって、色々とやんちゃなことをした。虫を触ることだってできたし、道端に咲いてる花の蜜を吸うようなことだってした。だけど、木登りで腕を骨折して以来、みんながへんなものを見るような目で、私を見始めた。
それから、私はへんに思われないよう、今までの自分を押さえ込んで、女の子の振りをしてきた。
だから、貴子の気持ちは、きっと私と同じものなんだ。
「私、ずっと思ってたんだ。この子のためなら、死んでもいいって思える友達がほしいな、って。きっと、その友達は貴子だったんだよ。貴子が困っていたら、命を投げ出したって助けたいって思うもん」
「あ、ありがと……。ありがとう」
貴子は私の首に顔を埋め、泣いた。
「私は、貴子がへんだとは思わない。貴子はそのままでいいんだよ。私は貴子に殺されて、多分しあわせだよ」
それからしばらく、貴子は涙を流し続けた。私は、そのぬくもりを、ただ確かめていた。
ショートケーキのイチゴをいつ食べるのか。私は一番初めに食べてしまうのだけど、貴子は最後に食べるタイプだった。
あの日以来、非公式自殺クラブの話題はまるで存在しなかったみたいに、私たちの間で交わされることはなかった。
私たちはあの一件から、少しだけ仲良くなったような気がするし、あるいは、それは勘違いなのかもしれない。
ただ、貴子の態度は確実に変わったと私は思っていて、というより、貴子からのスキンシップが多くなって、困っている。
もしかすると、私が貴子に殺されてもいい、と答えたことで、貴子は私の身体を、自分のものだと思っているのかもしれない。
もちろん、それはある意味では間違っていないし、私も満更ではないと答えるけど……。
貴子は私の首筋に顔を埋めて、私を強く抱きしめる。首に付けられた痣を、どうやって隠そうか、と私は頭を悩ませている。
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