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掌編 「こわれちゃった」

 在原がマンションの中へ入った時、既に事は済んでいた。
「茜さん、またですか」
 ワンルームのその部屋の、廊下には、点々と赤い血の跡が続き、廊下と部屋を隔てる扉のちょうど境の場所で、一人の男が倒れていた。
 在原は土足のまま、部屋に上がり、スーツの内ポケットから、ビニールカバーを取り出して、靴にかぶせるように履かせた。
「茜さん?」
 灯りの点いた部屋の方へ、彼は歩いていく。死におおせた男の死体を跨ぎ、部屋に足を踏み入れた瞬間、黒い影が彼めがけて、ものすごい勢いでとんできた。
「っと――」
 在原は、茜の突き出したナイフをやんわりといなし、その華奢な身体を軽々と抱き上げた。
「茜さん、自分です。在原です」
 ナイフを持つ手を抑え、もう一方のあいた手で茜の頬を叩く。
「だれ? 私のへやに、かってに入ってこないで」
「……あーちゃん、少し大人しくしてて」
 在原が、茜のことをあーちゃんと呼んだ瞬間、彼女の死んだ魚のような目に、光が宿った。
「よっちゃん? 本当によっちゃんなの? どこ行ってたの? 私、さびしかったよ」
「ごめんごめん、話すと長くなるから、質問はまた今度ね」
 在原は慣れた様子で、まるで台詞でも言うように、ぺらぺらと口を動かす。
「あーちゃん。遊んだから、お洋服が汚れてるね。少し、綺麗にしに行こうか」
「綺麗に?」
「うん」
「それって、デート?」
 茜の瞳がうれしそうに、きらきらと光った。
「デートだよ。下に車を待たせてあるから、先に行ってて」
「待って。デートなら、おしゃれしなきゃ」
 茜は身をよじり、在原の腕から抜け出ると、クローゼットを開け、空っぽの中身を見て、んー? と首をかしげた。
「よっちゃん、私のお洋服知らない?」
「あーちゃん、お洋服なら、ぼくがいくらでも買ってあげるからさ、早く行こうよ」
 茜は、在原の言葉にまたも、んー? と頭を斜めにした。
「よっちゃん、私の、お洋服は?」
 いつの間にか、茜の瞳からは、再び光が消えていた。
 在原は、部屋の入口に横たわっている死体に目を向け、あはは、と苦笑いを浮かべて、頬を掻いた。
「あーちゃんの服なら、全部、家に置いてあるよ」
「なんで」
「それは、家に着くまでのお楽しみ」
「――なんで?」
 在原は、短く息を吐くと、茜を正面から見つめ返した。
「本当は秘密にするつもりだったんだけどなぁ。あーちゃんの服のサイズを知りたかったんだよ」
「服の?」
「そう。どうしてか分かる?」
 茜はこどもっぽく首を振った。なめらかな髪がふるふると揺れる。
「だって、結婚式の時に必要でしょ」
 それを聞いた瞬間、茜の顔がぱっと明るくなった。
「もしかして!」
「そう、そのもしかしてだよ」
「ウェディングドレスのこと?」
「そうだよー」
 在原は全力で胸の飛び込んできた茜を受け止めて、ぐっと声を漏らした。首に回された茜の腕が、ぎりぎりと在原を抱きしめていた。
「あーちゃん、だから、ぼくの言うこと、聞けるね?」
「うん、聞く!」
「じゃ、じゃあ、車のとこで、ま、待っててくれる?」
「分かった!」
 赤い顔をした在原にキスをして、茜は部屋を出て行った。途中、踏みつけられた死体が、ぐじゅと音をたてたが、茜は気にも留めず、裸足のまま、上機嫌で駆けていった。
 残された在原は、咳払いをしつつ、取り出した携帯電話で連絡を取る。
「ええ、そっちに向かったんで、後はよろしくお願いします。それと、掃除が必要だから、遠藤を寄越してください」
「ここにいますッス」
 廊下から、ひょっこりと顔を出して、遠藤が在原の様子を覗いていた。
 在原は通話先の相手に、適当な挨拶をして、電話を切る。
「やたら早いな」
「外で待ってたンで」
「茜さんに見つかったらどうするんだよ」
「ま、その時はその時って感じっス」
 遠藤はにやにやと気味悪い笑みを浮かべながら、在原に近付いていく。わざとらしく、在原の全身を眺め回した後、首元に顔を寄せて、鼻をすんすんと鳴らした。
「お楽しみだったみたいっスね」
「首絞められただけだ」
「でも先輩。好きっスもんね。茜さんのこと」
 在原の手がすっと伸びて、遠藤の顔に影を落とした。ぺちっと音がして、在原のデコピンが炸裂する。
「だ」
 遠藤が額を抑えて、しゃがみこんだ。
「仕事しろ」
「先輩はいいっスね。役得っスね」
 遠藤は変わらず、へらへら笑いを顔に張り付けている。
「私じゃダメっスか? 人殺しがそんなに好みなら、私だって、人間くらい殺せるっスよ」
「馬鹿。人間とか言ってるからダメなんだよ」
「ホント、茜さんは化物っスね~」

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