短編 「人形の夢」
深い青紫の封筒には、こう書かれていた。
「月灯りの夜へようこそ。日が暮れて、三度目の時計の鐘が鳴る時に、あなたをお迎えに上がります」
見れば、銀の箔が押された封筒は、こうこうと月が照らす群青色の空の色をしていた。上質な紙とインクが、涼し気な初夏の夜風のように匂った。
文章は、二枚目の紙に続く。
「身体を清め、部屋の灯りを消し(注釈、常夜灯を点けておいてもかまいません)、そして、まぶたを軽く閉じてください。そのまま、ゆっくりと深呼吸をして、秒針の音を数えます。あるいは、窓の外を通る車の音に耳を傾け、沈黙に耳を澄ませます」
すると、まぶたのくらやみの向こうに、封筒の淵をかたどった、蔦の絡み付くような銀箔の模様が浮かび上がり、それは、くらやみを長方形に切り取る額縁へとかたちを変えた。
あたたかな闇の中で、アンティーク家具のような、チョコレート色の額縁が浮かんでいる。
額縁には、銀の水の膜が張り、あなたが指で触れると、気だるげに波打ち、波紋が広がった。冷たく、なめらかな手触りはどこか心地良く、手の平をぴったりと銀の水面に押し付けると、ひんやりとした感触の中に、腕が沈み込んでいった。
あなたが慌てて、腕を引っ込めると、水の膜はふるふると揺れ、何事もなかったように、また静かな水面へと戻った。肘まで銀の水に浸かったあなたの腕には、まだひややかな感触が残っている。もう片方の手でそっと触れると、腕が冷たくなっているのが、はっきりと分かった。
だが、不思議と恐怖は感じなかった。それどころか、もう一度、冷たい水のおもてに触れてみたいとすら思った。
「どうぞ、こちらに」
あなたが手を伸ばしかけた時、向こう側から、声がした。やわらかい女性の声だった。
その声を合図にしたように、銀箔の模様が解けて、足元へと雫のように垂れた。空中に、銀色の糸が、ふわふわと揺れる。額縁は糸を追いかけるようにかたちを変え、扉へと変化した。
扉はあなたの姿を映し、静かに、その銀の膜を揺らしている。
「どうぞ、もう一歩、前へ」
あなたは声に誘われるまま、足を踏み出した。鼻先から、徐々に冷たいものに包まれていき、あなたはまぶたを閉じる。全身が銀の水の中に沈むと、ほのかな灯りが、あなたの顔を照らした。
「いらっしゃいませ、旅人さま」
まぶたを開くと、目の前には、深緑のローブを羽織った、たおやかな女性が立っていた。手には大きなランタンを提げ、白い肌の顔があたたかなオレンジ色に照らされている。切れ長のすずしげな眼が、あなたを捉えた。
「ようこそ、月灯りの夜へ。私はこの旅の案内人、ダリア・アニムズドールと申します。ただ、アニマとお呼びください」
アニマは深々と頭を下げて、あなたに敬意を表した。
「あなたの旅の目的は、唯一つ。この道の先にある、芝居小屋に灯る灯りを、そっと吹き消していただきたいのです」
彼女がランタンを掲げると、踏み固められた獣道が見えた。背の低い草ばかりの生い茂るあぜ道は、人通りが多いのか、土がむき出しになっている。
あなたは、どことも知れない森の近くの、田舎道に立っていた。辺りに建物はなく、街灯もない。月が夜を照らしているが、叢雲に遮られ、その光も満足に夜の底へは届かない。
どこからか花の甘い香りが流れてきて、道の向こうの森の木々を揺らした。大きな影になった森は月灯りを受け、新緑は白い花のように輝いていた。
「芝居小屋までは一本道です。森を抜け、湖を渡り、野守の詰所が見えれば、小屋まではあとわずか。そのまま坂を下った先、街の中央広場の左手に、それはあります。煤けた黒い木製の壁は、百年前の大火にも耐えた、それはそれは古い小屋なのです」
アニマがランタンで道を指し示すと、遠くから鐘の音が響いてきた。
「少し、話しすぎてしまったようですね。……参りましょうか」
あなたとアニマは、薄暗いあぜ道を森に向かって、歩き始めた。暗い足元を照らし、彼女が前を行く。裾の広いローブが、ランタンの火を受けて、つややかに揺れた。
アニマは右手に持っていたランタンを、左に持ち替えて、そっとあなたに指し示す。
「あちらの灯りが見えますか?」
くらやみにようやく慣れたあなたの目は、林の影にほのかに光るともしびを見つけた。
「あれは炎になる前の、くすぶりなのです。いわば、火のこども。時々、森と畑の境目にこうして宿ることがあるのです。ほら、見てください。火防の男たちが火を消しに来ました。ここからずっと東に物見やぐらがあるのです。それはそれは、高いやぐらですよ」
そうこう話している内に、あなたとアニマは森の入口についていた。真っ暗な口を開いて、森はあなたたちを誘っている。
「恐ろしいのですか?」
中々、森へ入ろうとしないあなたに、アニマが振り返る。
「夜ですから、立派な森に見えるのも無理はないですね。ただ、見た目ほど大きなものでもないのです。昼の間には、こどもたちは花や果物を摘みに、森へ入ることもありますし、木漏れ日の豊かな木陰は、とてものどかなのですよ」
さあ、くすぶりの熾る前に早く、とアニマは言った。遠くで男たちが火を消す声が聞こえている。何を言っているのかは分からないが、大きな声があちらこちらに響く。
あなたはその声に追い立てられるように、足を前に踏み出した。爪先に触れた木の葉が、かさりと音を立て、風に巻かれて、どこかへ消えた。
「湖はすぐそこです」
アニマが微笑んだような気がした。
森を歩いている内に、雲が晴れ、薄暗い木々の下生えにも、銀色の月光が届くようになった。夜露に濡れた草花がきらきらと光る。
道はわずかに左に曲がり、見通しが悪くなっていた。火防の男たちの声も、いつの間にか聞こえなくなり、森はどこまで広がる迷宮のように思えた。
「湖には、とある伝説があるのです。その昔、湖の底には妖精たちの王国があり、そこを訪れた勇者に伝説の剣の鞘を与えたというのです。以来、この湖は願望成就の聖地として、とても大切にされてきました。この頃では、湖の底に硬貨を投げ入れると、願いがかなうという噂が街で広まっているようですが……」
アニマの言葉がゆっくりと鎖されていく。不審に思ったあなたがふっと視線を上げると、目の前には月灯りに照らされた湖があった。一面、白銀の光の洪水。花が春を謳歌するように、手裏剣状の光の花びらが、見渡す限りの水面に咲き誇る。
「いかがですか、妖精の王国があったというのも、あながち間違いではないでしょう?」
アニマは桟橋を渡り、ランタンであなたに舟を指し示す。湖の中心から吹く風と波に、舟はその横腹を、幾度となく、桟橋にぶつける。
あなたはそっと船に乗り移る。舟の揺れが予想より大きかったことに驚きはしたが、船はすぐに安定し、再び桟橋にぶつかった。
アニマはもやいをほどいて、舟に乗り込んだ。オールを手にし、そっと漕ぎ出していく。
「野守の詰所の灯りが見えますか? 今頃は、酒宴の真っ最中かもしれません」
少し遅れて、人は忘れていくものなのですね、とアニマは言った。
「大火の時、難を逃れて、街の住人はこの湖まで逃れてきました。まるで地獄の釜のふたが開いたように燃え盛る街のそばには、決していられるものではありませんでしたから」
舟は湖の中心にまで近付いてきていた。アニマが舳先に掲げたランタンが、湖に浮かぶ澪標を照らす。
「見えますか? そこにあの日の人の願いが沈んでいるはずです」
あなたは舟のへりに乗り出して、湖を覗き込んだ。きらきらと月の光を反射する水面を通り越し、湖の一番深い所を見透かすと、そこには金、銀、銅に輝く硬貨が、確かに見えた。
「ここに沈む願いは、祈りでもあるのです。祈りは届かないものに、それでも届けたいと思う気持ちの表れですから……。あの日、誰もが願い、そして祈ったのですよ。燃え盛る炎の中の命について」
墓標のように立つ澪標を後にして、アニマは野守の詰所へと舳先を向けた。湖のみなもに手向けられた銀色の月の花々は、ただ静かに風に揺れていた。
詰所の桟橋に舟を止めると、詰所の鎧戸から蝋燭の灯りと、陽気な笑い声が漏れてきた。中では、アニマが言ったように酒盛りでもしているのかもしれない。
彼女は顔を背けるように目を伏せ、詰所の横を通り過ぎる。何か思う所があるのだろう。
「少し、話をしてもよろしいですか?」
一歩、歩くごとに、灯りから遠ざかっていく。掲げたランタンの光で、アニマの姿は暗い影に見える。
「私と、私の親ともいえる人の話です。かつて、芸術の最先端が演劇とされていた頃の話になります。とある田舎町で生まれた彼は、村に来た旅芸人の演技を見て、その道を志したのです。彼は成人の歳、許嫁を置いて、村を去り、街へやってきました。もちろん、演劇に関わるために。
ですが、演技も演出も経験のない彼を受け入れてくれる劇団などありませんでした。仕事もなく、幾日と街をさ迷い歩いた彼が辿り着いたのが、そう、私たちがこれから向かう芝居小屋です。
そこは電気設備のない、当時としても古ぼけた、ボロ屋でしたが、彼にとって、そんなことは些細なものでした。彼は小屋の窓を、ボロ布を継ぎ合わせたカーテンで覆い隠し、か細い蝋燭の灯りのもと、劇を行いました。それが街に大きな災いをもたらすとも知らずに」
アニマとあなたは森を抜け、丘の上に立った。眼下には街が見えたが、輝きは月灯りにかき消されていた。
「大火は、後々、街に発展をもたらしもしました。火事で焼け落ちた建物を潰し、徹底的な計画の元に街の再建を図ったからです。近代的な装いに生まれ変わった街が、大火からの百年でどれほどの発展を遂げたか、この景色を見てもらえれば分かると思います」
アニマはそう口にしたが、街は百年前と変わらぬ、石造りの姿を見せている。教会を中心に放射状に広がった大通りは、街の計画的な再建を感じさせたが、それでも広場に見える黒い芝居小屋が変わらぬ街の象徴のようだった。
「見えますか? ダリア」
アニマは、彼女自身のものであるはずの名を呟いた。
「さあ、行きましょう」
そうして、アニマは坂を下っていく。
街に着くと、静かな家並みに心地良い風が吹いていた。いずれの家も鎧戸を閉め、すっかり灯りを落とした後だ。石畳の道の隅に吹きだまった木の葉が、からからと乾いた音を立てる。
「彼が、小さな芝居小屋でしていたのは、人形劇でした。手先が器用な彼は、人形にたくさんの衣装を作り、着せてあげました。彼が街に来る前は、許嫁に服を贈ってあげたこともあったくらいです。
彼の……彼の許嫁はとても幸せだったでしょうね。私はそうであってほしいと願っています」
アニマは緑のローブの裾をきゅっと握った。
「許嫁は彼を追いかけ、街へとやってきました。彼は初め、彼女を村へ帰そうと邪険に扱いましたが、彼女の懸命な姿を見て、考えを改めました。二人は協力し合って、劇を上映することにしたのです。それはきっと、二人の人生で最も幸せな時期だったと思います」
道が次第に大きくなり、向こうに教会の高い塔の頭が見え始めた。辺りには、ほんのりと焦げ臭いようなにおいが漂っている。
「彼は大火によって、彼女を失いました。また、火災を起こした張本人として投獄され、そして、牢獄の中でその命を終えました。
彼の後悔はいかばかりだったでしょう。多くの命を奪い、最愛の人までを失った大火の、その原因が自分自身だと知りながら、何を思ったのでしょうか。
今や、それを知る人はいません。ただ、彼が獄中で作り上げたものが一つ、残されています。彼はベッドのシーツを切り刻み、一枚のローブを作りました。彼の許嫁、ダリアに贈るプレゼントだったのです」
彼女の話が終わると、あなたは古びた芝居小屋の前に立っていた。
「私は中へ入ることができません。どうか、おねがいします」
あなたが扉に手をかけると、錆びついた蝶番がきぃ、と音を立てた。中は暗く、アニマが話した通り、窓には隙間なく、分厚いカーテンが掛けられていた。
小さな小屋の中、質素なベンチを置いただけの観客席の向こうに、一段高くなった舞台が見えた。そこに、燭台に乗った蝋燭が灯っている。
あなたは舞台へ近付いていって、燭台を手に取った。すると、
「消してしまうのですか?」
と声がした。振り返ると、観客席の端に、うなだれた男が座っている。
「消してしまえば、劇は終わってしまうのですよ」
男はこけた頬を歪ませて、そっと呟く。
「まだ劇を続けていたい《ショーマストゴーオン》」
まだ彼女に謝れていないんだ。男は両手で顔を覆い、声もなく、涙を流した。
「どうか、消してください」
外から、アニマの声がした。
「どうか、この悲劇を終わらせてください」
男に、その声は聞こえていないようだった。
「ああ、ダリア」
あなたは燭台を顔に寄せ、蝋燭の弱い灯りを、そっと吹き消した。
辺りは一面のやみに覆われ、何も見えなくなる。
「これで、これでようやく……。ああ、眠り。これが眠りなのですね」
彼女の声が遠くで響く。
「おやすみなさい。アニムス」
彼の名を囁いて、彼女は消えた。
男が観客席から立ち上がる音が聞こえ、足音が遠ざかる。
「……おやすみ、ダリア」
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