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短編 「パープル・アンガー」

 ジェーン・ドゥが死んだ。
 新しいマネージャーに変わって以来、このモーテルで人が死ぬのは初めてのことだった。つい先日、その不愛想なマネージャーが、塗料も泡立つような熱射の中で塗り終えた、ピンクともパープルともつかないド派手なモーテルは、アミューズメントパークを中心とした都市の郊外にあり、時折、金のない観光客が来て、金を落としていく。
 エリィが、その話を聞いたのは、三階に借りている自分の部屋へ戻る途中のことだった。話しかけてきたのは、左脚のない元軍人だった。一度、仕事を断ってから、彼はエリィを売女と呼んだ。
「ジェーン・ドゥが死んだよ」
「話しかけんな、くそ」
「お前が殺したんだろ。散々、金を借りてたもんなあ」
 このモーテルに住んでいる人間で、彼女に金を借りていない住人はいなかった。ジェーン・ドゥは名前の通り、正体不明で、誰も彼女の本当の名前を知らない。彼女がどこと繋がりを持っていて、どう薬を仕入れてくるのか、誰も知りたがろうとはしなかった。
 短いブロンドの髪をかきあげて、エリィは男を見下ろした。愛嬌のある二重瞼の瞳が酷薄に細められる。足元へ唾を吐き、エリィは口を開いた。
「ああ、私が殺してやった。あんたには、感謝してもらわないとね。これで、女を呼んで、セックスする必要もなくなった。てめえのディックを勃たせる薬は、もうないんだから」
 余った金でまともな服でも買いな、臭せーんだよ、とエリィが吐き捨て、階段を昇り始めると、男は足を引きずり、彼女を追いかけた。
「触んな、デブ」
 掴まれた腕を振りほどき、エリィは男の胸をハイヒールで蹴飛ばした。男は一瞬怯んだものの、彼女の細長い手足は暴力には向いていない。男はエリィへ再び、鋭い眼光を向けると、拳を握り締めた。
「俺のモーテルで争いごとは困るな」
 そこへ、マネージャーが来た。グレーのGAPのTシャツに短パン姿の彼は、ランドリー帰りのブルーカラーに見えた。彼は男の肩に手を置いて、咥え煙草に火を点ける。吐き出した煙は、大麻の甘い香りがした。
「さあ、部屋へ戻りなよ。もうすぐトゥルーマンショーが始まるよ」
 あの女が、と男が口答えを始めると同時に、エリィは再び階段を昇り始めた。マネージャーは男をなだめ、肩越しに叫んだ。
「エリィ、今週の代金がまだ支払われてない! ついでに言えば、先週の分もだ」
「それがどうした、くそマネージャー!」
「払えないなら出ていってもらうだけだ!」
「払えないんじゃない、払わないだけだ!」
 階を隔てて、大声で騒ぎ立てる二人に、モーテルの住民たちが顔を出し、口々に文句を言い立てる。
 マネージャーは仕方なく、階段を上がり、エリィを追った。
「もし払わないのなら、明日にでも出ていってもらう。中にある荷物もなにも、外へ投げ捨てるぞ、いいな?」
 中指を立て、エリィは扉を閉めた。一瞬見えた中は、極彩色のジャングルのようだった。
 締め出されたマネージャーは肩をすくめ、注目している住民たちに、呆れたようなジェスチャーをした。

 エリィには二歳の子どもがいた。去年の一月頃、死んだ。それきり、エリィは一人でモーテルに暮らしている。
 夜、けばけばしいほどライトアップされたモーテルの、けれど、みすぼらしく、埃っぽい事務室をエリィは訪ねた。ホットパンツから伸びるサスペンダーを引っ張って、彼女は地面に唾を吐き捨てる。
 エリィはノックもなく、扉を開けた。
「くそマネージャー、いる?」
「やあ、エリィ」
 拾われたオフィスチェアは、狭苦しい事務室に不釣り合いだった。マネージャーはそれに座り、野球中継を眺めていた。頭だけもたげて、彼は入り口のエリィを見やる。
「……」
 エリィはホットパンツのポケットから、くしゃくしゃになった札を取り出し、デスクのキーボードの上に放り投げた。
「また、盗んだ金じゃないだろうな?」
「どんな金だって、お前には関係ないだろ」
「お前って言うな、と何度も言っているだろう」
 立ったまま、マネージャーを見下ろしているエリィに、彼は不思議そうな目を向けた。
「まだ何か?」
 彼はダイエットコークを飲み干すと、缶を握りつぶし、デスクの下で城のように積み重ねた一角へ、さらに積み上げた。
「お前、死ぬのか?」
 と聞かれ、マネージャーは、ああと嘆息した
「ジェーン・ドゥのことか。明日、ご近所付き合いに参加する予定だ。医者によれば、死因は衰弱死だそうだ。恐らく平気だろう」
「でも、お前、ライセンス持ってるんだろ」
 免許証《ライセンス》という言葉に、マネージャーはぴくりと眉を動かした。じっとエリィを見つめる。
「ただの噂だ」
「あいつらは噂だと思わないかもしれない」
「誤解を解く機会ぐらいあるさ」
「お前の話を聞くぐらいなら、殺した方が手っ取り早い」
「……まあ、そうかもな」
 マネージャーはテレビのボリュームを絞り、エリィの方へ身体を向け直した。古いオフィスチェアが、きぃ、と鳴る。
「けど、どうしてそんなことを聞く? 俺が死んだって、エリィには関係ないはずだ」
「後任がくそ野郎だと困る」
 マネージャーは声を上げて、笑った。
「お前は金払いが悪いからな」
「お前って言うのをやめろ」
「どうして? 子どもに悪いからか?」
 エリィはすかさず、彼の足を蹴飛ばした。
「……あの子が死んで、私なりに考えたよ。人が死ぬってどういうことなのか」
「それで?」
「あんたはくその中でも、ましなくそだ。最後に抱かせてやってもいい」
 今度、マネージャーは固まった。見開いた瞳に、エリィの美しいブロンドが写った。
「私の部屋に来なよ。それとも、ここでする?」
 エリィの言葉に我に返ったのか、マネージャーは蠅を払うような仕草で、手を振った。
「冗談はやめろ。からかってるなら、よそを当たってくれ」
「私に構ってたのは、そういう意味だろ?」
 誰が商売女の、と言いかけたマネージャーの口をおさえ、エリィは彼に顔を寄せた。
「するのか、しないのか?」
 金魚のように口をパクパクさせて、マネージャーはエリィに口を離すようジェスチャーする。
「そのまま話しなよ。面白いから」
 エリィはニヤニヤと笑みを浮かべていた。
「……殺されるつもりはない。だから、お前とも寝ない」
 それに、と彼は続ける。
「虱をうつされてから、俺は不眠症だ」
「……お前と寝たか?」
 マネージャーは気まずそうに、忘れてくれ、と言った。困ったように眉を下げ、目を逸らす顔を見て、エリィはぼんやりと、その時のことを思い出した。
「そうか、お前がここに来た頃のことか。……そうだった。お前、たしか泣いてたよな。私の胸に顔をうずめて、ガキみたいに」
 マネージャーはお手上げのポーズを取るが、エリィは構わず、話し続ける。
「医者《ドクター》になりたかったって、一晩中泣いてたよな。何だっけ、精神《メンタリティ》?」
「心理学《サイコロジィ》だ」
「ああ、そうか。だから、ライセンスなんて持ってるんだな」
 エリィは半ば、吐き捨てるように言った。
「お前、どうしてここにいる?」
「……モーテルのマネージャーだからだ」
「そうじゃない。お前みたいなインテリが、どうしてこんなくそ溜めにいるんだって聞いてるんだよ」
 打って変わって、エリィの視線は威圧的だった。見下すように、マネージャーを見つめる。
「分かるだろ。しくじったからだよ。そうじゃなきゃ、今頃、俺は博士《ドクター》になってる」
「それじゃあ、やっぱりライセンスを持ってるのか」
 ああ、とマネージャーは頷いた。
「先に言っておくが、依頼なら受けない。誰か殺したい奴がいるなら、別の資格者《ライセンサー》に言ってくれ」
「お前は、人を殺したことがあるか? 殺したいと思ったことは?」
 マネージャーは引き出しから煙草を取り出して、火を点けた。
「ここの前任者は俺が殺した」
 ふーっと煙を吐き出したマネージャーを見て、エリィはぷっと吹き出した。
「やめろ、やめろ。くっだらない冗談だな」
「でも、笑った」
 あんまりにもつまらないからだよ、と言い、エリィはマネージャーから煙草を奪った。
「吸ったことあるのか?」
「バカにするな」
 煙が、事務所に溜まる。エリィは思い切り吸い込んで、涙目になって、むせた。マネージャーが伸ばした手に煙草を返して、エリィは何度も咳き込む。
「で、お前はどうして、俺に抱かれる気になったんだ?」
 間をおいて、エリィは声の調子を整える。
「……ん、アイスクリームのツケを返してなかったと思って」
「アイスクリーム?」
「買ってくれただろ、私とあの子に」
「何だ、たかがそんなことで、抱かせてやるなんて言いに来たのか?」
「大事なことだ……!」
 そうか、と呟いて、マネージャーは煙草をもみ消した。
「この煙草も、もうじき吸えなくなるなあ」
 吐き出した煙は青く、いつまでも消えず、天井の隅でわだかまっていた。

「起きろ、仕事だ」
 カーテンを閉め切った、薄暗いモーテルに男が入ってきた。男がベッドのふくらみに近付き、布団を剥ぐと、そこには裸の女が眠っていた。
「乱暴だなあ」
 男の後頭部に銃口が突き付けられる。
「仕事だ、殺し屋」
 仕事を強調し、男はゆっくりと振り返った。
 幼い顔立ちに、無精ひげを生やした殺し屋は黒髪、黒い瞳に紫の影を宿していた。
「誰?」
「モーテルのマネージャー」
「そいつは何をしたの?」
「何も」
「じゃあ、殺す理由は?」
「安心しろ。筋書きはできてる」
 殺し屋は銃を下ろし、枕元に置いてあったミネラルウォーターを一口、含んだ。
「どうせ、ジェーンおばさんの件でしょう? あの辺りが空白になるのは、まずいってことだ」
 男は溜め息をつき、
「覗き屋は早死にするぞ」
「でも、まだ死んでない」
 殺し屋は両腕を広げて、笑ってみせた。白い歯が小暗い部屋に眩しく見えた。
「他に言うことはある?」
「相手はライセンス持ちだ」
「関係ないよ、それ」
 男が部屋を出ていくと、ベッドに寝ていた女がおずおずと身体を起こした。
「ねえ、今の誰?」
「……」
「ねえ、お金は? 払ってくれるんでしょう?」
 殺し屋は女ににっこりと笑ってみせて、洗面所の方を拳銃で指した。
 娼婦は安堵したように息をつき、カーペットに散らばっていた荷物から、コンパクトを取り出して、メイクを確かめた。
「ねえ、あなた名前は?」
 緊張がほどけたのか、女は馴れ馴れしい口調で聞いた。
 殺し屋は困ったように眉を下げて、女の質問を無視する。
「いつ頃、出ていってくれるかな?」
 殺し屋は尋ねた。
「今、出てく所。急かさないで」
 殺し屋は撃鉄の上がった拳銃で、頭を掻いた。もう少し、怖がらせておけばよかった、と考えている。
「ぼくはもうすぐ出なきゃいけないんだ。この部屋の代金は、知り合いのよしみで後払いにしてもらっててね。もし、君が立て替えてくれるって言うなら――」
「――分かった。すぐ出ていく」
 女は立ち上がり、部屋の奥の洗面所へ歩いていく。ちょうどレストルームへ入った所で、殺し屋はその後を追った。
「ちょっと、お金ないんだけど?」
「君に払う分はない」
 こちらへ顔を出した女の頭を、彼は撃ち抜いた。
 死体を中へ押し込むと扉を閉め、殺し屋は財布と拳銃を手に、外へ出た。部屋の鍵を閉め、神経質にドアノブを二回、回してから、思い出したように財布を取り出して、中から一枚の免許証を取り出す。
 そこには、名前とIDが記されていた。だが、その名前が本当に彼のものなのか、殺し屋には分からない。
 彼には、この三年より前の記憶がない。目覚めた時、持っていたのは二十ドル札と、ライセンスだけだった。
 殺し屋は、燦々と降り注ぐ太陽の下に出て、ぐっと伸びをした。眩しそうに目を細め、手をかざして、太陽を見つめる。
 モーテルの脇の自動販売機でマウンテンデューを買い、その足で、彼はマネージャーの元へ向かう。
 その日の午後、マネージャーは事務室で発見された。

 銃声を聞いたその足で、エリィは事務室の扉を叩いた。彼女の懸念通り、中では、マネージャーが血を流し、空き缶の山に埋もれていた。
「ニック!」
 抱き起こすと、マネージャーはエリィにゆっくりと焦点を合わせた。
「はは、誤解を解く暇もなかった」
「待ってろ、今、助けを呼ぶから」
 きびすを返そうとしたエリィの腕を、マネージャーが掴む。
「無駄だ。それより、煙草を取ってくれないか?」
 デスクの上の最後の一本を咥えさせ、エリィは火を点けた。
「バカ、ちゃんと吸わないと火が点かないだろ」
「吸ってるよ、ドアホ」
 エリィはマネージャーの口から煙草を取り、一度、ふかしてから、もう一度、彼の口に咥えさせた。
「誰だ? 誰にやられた?」
 エリィの質問に、マネージャーは首を振る。
「一つ、聞きたいことがあるんだが、いいか?」
「ああ、何でも聞け」
「あの子は――ルーシィは――俺の子どもか?」
「そんなこと、私が知るか。何人、客を取ったと思ってるんだ」
「そいつら、全員、ここらの奴らか?」
「ああ。多分」
「なら、あの子《ルーシィ》は俺の子だ。あんな賢い子、それ以外に考えられないだろ」
 彼は半ば、独り言のように呟いた。
「もっと、ちゃんと、やさしくしてやればよかったなあ」
「バカなこと言うな。お前は充分やさしくしてくれたよ」
 はは、と力なく笑った彼の胸から、赤黒い血がこぼれた。
「今、車を借りてきてやるよ。医者の所に行こう」
 エリィの言葉が聞こえなかったかのように、マネージャーは続けた。
「あの子の仇、とってやれなくてごめんな」
 彼の口から、煙草が落ちた。
 マネージャーを胸に抱いて、エリィはじっと天井を見つめた。瞳のおもてに、さまざまな色が浮かんでは沈む。それは思い出でもあり、感情でもあった。エリィは囁くような声で、子守唄をうたう。それは、彼女がルーシィにうたうために覚えた、唯一の子守唄だった。
 うたい終わると、エリィは彼のまぶたを閉じてやり、軽くなった頭を床へ下ろした。ふと視線をやったデスクの下に、拳銃の黒光りするボディが見えた。
 彼女は手を伸ばし、ずっしりとした重さの鉄の塊を掴んだ。拳銃の安全装置を外し、エリィはマネージャーに哀れむような目を向ける。
「どうして撃たなかったんだよ。ライセンスの意味がないだろ」
 エリィは強くグリップを握り直して、事務室を飛び出した。モーテルの駐車場には、ボロのバンがいつも通り、止まっていた。そのわきにあるプールには落ち葉が溜まり、日焼けを楽しむ観光客もいない。廊下の柵で洗濯物を干していた住人たちは、不思議そうにエリィを見下ろした。
「今、ここを誰か通らなかった?」
 住人たちは、一様に東を指差した。
 エントランスの前に植えられたヤシの木が、風に揺れている。正午の、まっすぐに差す陽の光に、影はほとんど動かない。
 エリィは走った。モーテルの壁が切れ、東棟の真新しいペンキの跡が、ぎらぎらと視界を撃つ。
 殺し屋は、そこの自販機の前にいた。
 彼が手にしていたコーラの赤い缶が弾ける。
「てめえか、ニックを撃ったのは!」
 殺し屋の服には、マネージャーの返り血が付いていた。彼は、照準を合わせられ、頭の高さで手をあげた。
「あなたは?」
「私が誰だろうが、関係ないだろ」
「じゃあ、ぼくも関係ない。仕事で来たんだ」
 エリィはもう一発、撃った。殺し屋の背後で、自販機のパネルが割れる。
「ライセンスはちゃんと持ってる? ぼくを殺せば、警察に捕まるよ?」
「そんなもん、母親の腹の中に置いてきた。もう一度聞くぞ、チェリーボーイ。てめえがニックを撃ったのか?」
「……ぼくの仕事《ワーク》だ」
 よし、よしよし、とエリィは何度も呟いた。それを見て、殺し屋はにこにこと笑い始めた。
「少し話をしてもいいかな?
「黙れ」
「マネージャーが、どうして殺されなくちゃいけなかったのか、っていう話なんだけど」
 怒りに凝り固まったエリィの表情の下で、わずかに何かが動揺した。
「これはジェーン・ドゥが勝手に死んだ後始末なんだ。だから、悪いのは全部、ジェーンおばさんなんだ。分かるかな?」
 殺し屋は肩をすくめて、エリィの反応を見た。引き金にかかった指はそのままだが、張り詰めていた殺気は、いくぶん和らいでいた。
「衰弱死だろうが、老衰だろうが、彼女が死んだ後には、ちゃんと片付けをしないといけない。例えば、このエリアを誰が引き継ぐのかとか、引き継ぐ人間を誰が選ぶのかとか、あとは、その責任を誰が取るのか、なんてことを決めなくちゃいけないんだ。
 今、上の方はそれを決めるので忙しい。自分の部下を配置できれば、もっともっとお金儲けができるし、偉くもなれる。じゃあ、そのためにはどうしたらいいのかっていうと、ジェーンおばさんを殺した犯人を突き止めればいい。犯人をでっちあげて殺してしまえば、死人に口なし《デッドマンテル ノーテイルズ》」
「そのためにニックは殺されたのか」
「そういうことだね。ライセンスを持っていたんだ、仕方ないよ」
「そんなのただの噂だ。ニックはライセンスなんて持ってなかった」
「……ライセンスを持っていようが、持っていなかろうが、どうでもいいのさ。証拠なんて噂で充分。とにかく彼は選ばれた。ぼくに依頼を頼んできた偉い人にね」
「てめえは、そいつを知ってるのか?」
「まあ、一応」
「じゃあ、そいつを殺してこい」
「いやだ」
「なら、てめえを殺す」
「どっちにしたって、ぼくは死ぬじゃないか」
 二人は黙ったまま、睨み合った。車も人もぱったりと途絶え、遠いアミューズメントパークのパレードの音がモーテルまで届いた。不意に、エリィの胸を激情が突き上げた。殺し屋を睨み付けたまま、瞳から大粒の涙があふれさせる。
「なぜ泣くのさ」
「うるさい」
 音楽は能天気な声で、夢の国の扉はいつでも開いているよ、とうたう。殺し屋は頭痛に耐えるような表情で、顔をしかめた。
「ぼくはこの街が嫌いなんだ。この街には子どもが多すぎる。以前、ぼくのモーテルを訪ねてきた子どもがいてね、彼女は、ぼくのことをパパと呼んだ。その子はぼくと同じ紫がかった黒髪と黒い瞳をしていて、今思い出すと、たしかに似ていたような気もする」
 退屈になったのか、殺し屋は腕を上げるのをやめた。エリィはそれを見ても、何も言わない。
「多分、ゆすりやたかりの類だったんだろう。けど、ぼくはとてつもなく怖くなってしまってね、ついその子を撃ってしまった。今でも夢に見るほど、恐ろしかった。それ以来、ぼくは娼婦を呼ぶと必ず殺すことにしている。またどこかで、ぼくの子どもが訪ねてこないとも限らないから」
 殺し屋はエリィの表情を確かめて、言葉をつなぐ。
「これでも、ぼくは女衒や娼館に好かれているんだ。ぼくが必ず女の子を撃ち殺すから、まともな商売の店はぼくに女の子を売ってくれない。だから、真っ当じゃない野良猫を捕まえてくるのだけど、そういう子たちは場を荒らすから、大抵のお店に嫌われてる。ぼくはいわば、お掃除係なんだろうね。しかも自主的だから、お金もかからない。ぼくが女の子を一人撃ち殺すごとに、街は一つ綺麗になる。だから、ぼくは呑気にこんな商売を続けていられるんだ」
 エリィは涙でぐちゃぐちゃになった顔で、殺し屋を睨み付けた。噛み締めた奥歯が、ぎり、と鳴った。
「どうして。どうして、てめえみたいなやつがライセンスを持ってるんだよ。何で、私たちにはライセンスがないんだ!
 本当にライセンスが必要なのは、てめえらみたいな奴らじゃなく、私たちみたいな底辺の人間だろう? てめえらは人なんか殺さなくったって生きていけるくせに! 私たちは、どうして殺しちゃいけないんだ。ぶん殴られて、レイプされて、全部奪われて、どうして、まだ我慢しなきゃいけない? それでも、人殺しはいけないって言うのか? 殺人権って人権だろ? 国が保証した立派な権利だろう? それなのにどうして、てめえらみたいな限られた人間だけのものになってるんだよ」
 エリィは崩れ落ちた。拳銃を取り落とし、地面に膝を突いて、泣き出してしまった。まるでかよわい女の子のように、両手で顔を隠し、わあわあと涙を流した。
「ぼく以外にも殺したい相手がいるの?」
 殺し屋は尋ねた。
「私は娘を殺されたのに、仇も取ってやれなかった」
「見逃してくれるなら、そいつを殺してきてやってもいいよ」
 殺し屋を見上げ、エリィはゆっくりと頷いた。光をたっぷりたたえた瞳は、すがるように彼を見つめていた。
「どこにいる?」
 エリィはモーテルの二階を指差す。
「きっと今頃、俺を一階のジェーンの部屋に移せって騒いでるよ」
「じゃあ、きっとそいつは足が悪いんだね」
 殺し屋はエリィに背を向けると、モーテルの方へ歩いていった。
 殺し屋には影がなかった。蜃気楼のような何かが、音もなく通り過ぎていく。
 エリィは取り落とした拳銃に手を伸ばした。涙を拭うと、素顔の彼女が現れた。
 絶対に神のいませぬ空に、銃声が響き、雲一つない真っ青な水面を、鳥の羽が叩いた。
 パレードの音楽は、もう聞こえなくなっていた。

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