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掌編 「落ちて、ブルー」

 世界はくっきりと二つに分かれた。群青と水色。ぼくは群青へ向かって、真っ直ぐに落ちていく。ここには鳥もいなければ、雲もない。器のように群青が世界を支え、水色はベールのように世界を包む。ぼくらは各々、世界へ投げ出され、自由気ままに落下する。あるのは、この身体だけ。翼のように両手を広げても、ぼくらは飛べない。
 大きな水色が、ぼくらを抱えてる。群青がそれとは気付かない内に、ゆっくりと近付く。

 ぼくは身体を目一杯広げて、落ちていく。風がぼくの髪や指の間をすり抜けていく感覚が気持ちいい。口を大きく開けると、風に含まれた水色が身体の中で淡く光り出す。胸一杯に吸い込んだ水色は、血液のように巡る。
 指先には、目に見えないほど繊細な粒子が付いていて、くっつくのと同じだけの量が、風によって剥がれていく。ここでは、誰も飢えない。誰も哀しまない。全ては風と水色が漂白してくれる。目の中へ入ってきた群青を咀嚼するので精いっぱいだ。
 その時、ふと誰かの涙が降ってきた。見上げた時、それはただの影に見えた。切れ長の、少し怒ったような目だけが白く浮かんで、ぼくを見ていた。目と目が合うと、今度、それは口を開いた。何かを訴えているようだったが、風の音にかき消されて、聞こえない。口元の動きで、何か叫んでいるのは分かるのだけど……。
 きっとそれは人違いをしているのだろう、とぼくは思った。段々と近付いてくるそれを見ながら、ぼくは何がそんなに真剣にさせるのだろう、なんて冷めたことを考える。水色の中をもがきながら進んでくるそれは、やはりぼくには似つかわしくない必死さなのだ。それがボクに向け、懸命に手を伸ばしてみせても、その手を取ろうとは思わない。ぼくはこのまま落ちていく。群青に抱かれる夢を見て。
 その人影は、どうやら少女のようだった。ふわふわの栗毛をなびかせて、ぼくへと手を伸ばす。
 ぼくがその気になれば、その手を取れる距離まで、彼女は近付いていた。少し前までおぼろげだった表情も、今でははっきりと見える。人違いにしては、不相応な真剣さで、彼女はぼくに何かを叫び続けている。そう、それはとても真剣で、顔が歪むほど懸命にぼくへと訴えかけてくる。
 その暑苦しさに、ぼくは目を閉じた。涙が降って、ぼくの頬を伝っても、不思議と心は動かされない。
「……!」
 名前を、呼ばれた気がした。ぼくの空耳なら良かったのに。
 頬を包む彼女の手。唇に触れた熱が偽物ではないことに、ぼくはひどく動揺して、まぶたを開く。開いた瞳に、彼女の涙が落ちてきて、ぼくの視界までぼやけてしまった。
「君は、いつでもあたたかいね」
 水平線に茜が差す。
 あの群青を名残惜しく思いながら、ぼくら二人は燃え上がる。灯し火はすぐに全身を包み、ゆっくりと爪先から灰になっていく。群青と水色の世界は破られた。
 最期の一片が燃え尽きるまで、ぼくらは離れない。

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