短編 「漁村」

 地面が揺れていた。鈍い脈動が後頭部で膨らみ、揺れに合わせて、ひどく痛んだ。眠りの膜は薄く、すぐに弾ける。ぼくはゆっくりとまぶたを開いた。
 ぼくは馬車の、小暗い荷車の中にいた。うずたかく積まれた木箱の間で、ぼくは見知らぬ匂いの毛布に包まれ、寝かされていた。馬車は悪路を揺れながら進んでいき、車輪は泥を跳ね、小石を踏む。
 荷台の垂れ布からは、灰色の光が差し込んでいた。身体を起こし、外を見やると、そこは荒れ地だった。空は厚い雲に覆われ、痩せた灌木が街道の脇で、立ち枯れている。辺り一面、霧とも雨ともつかない靄が満たし、濡れた地面は荷車の重さに、深い溝を道に残した。
「ああ、起きたみたいだ」
 御者席から声が聞こえた。振り返ったのは、若い男だった。彼は手綱を握る御者の肩に親しげに手を置くと、席を降り、こちらへやってきた。
「どうだい、調子の方は?」
 フードに付いた水滴を雑に払い、彼はその青白い顔を晒した。黄金色の髪と、紺碧の瞳は到底、荷馬車に乗り合うような身分には見えなかったが、まぶたの下に半月型に刻まれた深い隈は、まるで阿片窟から連れてこられた中毒者のように見えた。
 彼は、ぼくの頭を抑えると、じっと後頭部を覗き込んだ。一度、彼の手を払いのけたが、男はぼくの肩をがっしりと掴んで、ぼくにお辞儀の姿勢を取らせた。
「血は止まっているね。傷跡が残らなければいいが」
 彼の指が触れたところに、鋭い痛みが走った。今度こそ、彼の腕を振りほどき、じっと睨み付ける。
「ははあ、君、覚えていないんだろう? ここがどこか分かるかい? どこへ行くつもりだった?」
 ぼくは、記憶がぽっかりと抜け落ちていることに気付く。道が霧の中に滲むように、ぼくの頭の中には何の見通しもなかった。
「ひとまず、君から預かっていたものを返すとしよう」
 彼はそう言って、ローブの中から一枚の封筒と、金貨袋を取り出した。
「大丈夫、中身は触っていない。私だって、その印の意味が分からない男ではないよ」
 ぼくはそれを受け取り、中身を取り出した。手の平に三枚の金貨がおさまる。手紙の方は、固く蝋で封印されており、中を確かめることはできなかったが、蝋の印は、確かに王家のものだった。
「さ、確かめたのなら、早く仕舞い給え。また山賊が来て、頭を殴られるぞ」
 彼は小声で言いながら、ちら、と御者に視線をやった。御者は声が聞こえていたのか、
「山賊はあれでおしまいですよ」
 と言って、笑った。
 青白い顔の男は、苦笑いをこぼし、
「この辺りじゃよくあることらしい。彼には、いい小遣い稼ぎになっただろう。私たちにだって――まあ、値は張るが、悪くない授業だった」
 皮肉なのか、正直なのか、分からない声色だった。真剣に言っているのなら、彼は馬鹿が付く、お人好しだ。
「しかし、君、本当に覚えてないのかい?」
 ぼくは仕方なく、頷いた。彼を信用する気にはなれなかったが、ここで話を聞いておかなければ、途方に暮れることになる。
「なら、どこまで覚えてる? この馬車に乗った時のことは?」
 ぼくは首を振る。覚えていることといえば、何一つない。すがすがしいほど空っぽだった。自分がどこの生まれで、どう育ったかということくらいは頭の中に入っていたのが、救いだろうか。
 ぼくが静かになったのを見て、彼は思う所があったのか、御者に声をかけた。
「おい! 次は、もっとやさしく殴るよう、山賊に言っておいてくれ」
 御者は笑いながら、左手を上げるだけだった。
「さて、アル。そうだ、名前は? 覚えている?」
 アル、アルフレート。それがぼくの名前だ。
「それくらい覚えてる」
 ぼくが返事をすると、彼は驚いたような顔をした。
「はは……そうだなあ、じゃあどこから話せばいいか。ああ! ぼくの名前はジーク。ジークフリート・アンデルヌ。王都での身分は学徒だ」
 とジークが言うと、御者が再び、笑い声を上げた。
「ははは、学徒だなんて。今時、話好きのじいさまだって言わないよ。あんた、変わってるなあ」
 ジークは憮然とした表情で、御者の背中を睨み付け、
「……古い土地の生まれでね。話し方が古いのはそのせいなんだ」
 と呟いた。
 確かに、ジークの発音は正確で、しかし古めかしかった。口調も格式ばった言い方が多く、まるで小説の一説のようだ。
「しかし学徒様、王都で暮らしているんだっていうなら、その髪と瞳の色、もしかしなくても、貴い身分のお方なんじゃないですか?」
 御者は振り返りもせず、言った。口調には下卑た、いやしいニュアンスがあり、つい眉根が寄った。
「大した家柄でもない。学舎でだって、末席も末席。こんな田舎に出てくるのが、大切にされていない証拠さ」
 ふーん、と御者は気のない返事をした。はたして、納得したのか。山賊とグルになっていたことを考えると怪しいものだった。
「もう質問は終わりかな?」
 とジークが芝居がかった声を上げると、御者は邪魔してすみませんね、と謝った。それを聞き届けると、ジークはぼくの方へ向き直り、わずかに膝を寄せ、ぼくに身体を近付けた。
「まずは私が知っている所から、話そう」
 ジークは小さな声で話し始めた。
「私たちが今、向かっているのは、とある『漁村』だ。この馬車は『漁村』へ向かう定期便で彼に(といって、ジークは御者の背中を指した。)金を払い、乗せてもらったんだ。さて、もうすぐ出発という時、君が来て、不思議な縁のもと、乗り合わせることになった。君は初めから、その手紙を持っていて、何か事情があるのは察せられた。山賊に出くわした時も、それだけは奪われないよう、荷物の下の隠していたからね。君はとにかく、その手紙を無事に漁村に届けなければいけない、と言っていた。封書の中身について、私は何も聞いていないし、君も聞いていないのだろう」
 ジークは声を低くし、さらにぼくの方へ身体を寄せた。
「その手紙が、本当に王家の親書だとするなら、君が送り出された理由は、おのずと漁村の事情に因るものだろう。そして、それは恐らく、漁村近海を覆う水銀水に関係しているものだと、私は思う」
「水銀水?」
 とぼくが尋ねると、
「ああ、名前の通り、水銀のような水のことだよ。水銀と同じように毒を含み、銀色の膜を海面に広げていった。水銀水は海水より比重が軽く、水面に漂い続ける。舟の舷は腐食し、水揚げした魚は毒されて、とても食べられたものじゃない。そういう病に漁村は侵されているんだ」
 とジークは答えた。彼の顔には暗い影が差し、目には妖しい光が宿っていた。
「そして、これには興味深い話が付随していてね。先々代の王が漁村の東の干潟のそばの渓谷に城を建てようと計画していたんだ。彼の妃はその辺りの出身で、王都をそこへ移すつもりだったんだろう。だが、巨大な主塔が完成した頃、王妃は亡くなった。漁村の東には、大きな時計塔が今も残されていて、月の光を背に、孤独に立ち竦んでいるという。もちろん、それだけの話ならば、特筆することもない悲劇だけれど、ちょうど水銀水が海に滲み始めた頃、その時計塔から、夜な夜な歌声が聞こえるようになったというんだ。とても清らかな、天上人の歌声が――。
 かつて、漁村は人魚の住処だったと伝えられている。元々、周辺は暗礁や霧の多い場所で、船の墓場と言われるほどだった。
 私は、水銀水が人魚と何かかかわりを持っているじゃないかと思う。それを調べるのが、私の研究でもあってね、この馬車に乗り合わせた理由が、それなのさ」
 熱に浮かされたような瞳で語り終えると、ジークははっと我に返ったようだった。話に夢中になったのを恥じるようにはにかんで、
「すまない。私の話ばかりで。ただ、私が思うに、ハインリヒの病に水銀水が役に立つのではないか、ということが言いたいんだ」
 そう言って、彼は東国の皇帝の話をした。
 はるか昔、東の大国の皇帝が不老不死を得るため、求めた神秘の水は、水銀だったという。今、病に伏せる当代王の側近が、神秘を眼差し、使者を送るというのは自然な話にも思えた。
 ジークは、短髪をがりがりと掻きむしり、ぼくから距離を取った。彼は壁際へ寄ると、片膝を立てた姿勢でローブを目深にかぶった。
「村に着いたら、起こしてくれないかな? 少し寝不足でね」
 馬車が橋を渡る。車輪が一つひとつ、木目を叩いて鳴らし、荷台はがたがたと揺れた。
 ぼくは薄暗い荷馬車の景色に飽いて、御者の元へ行く。
「傷の調子は?」
「血が乾いて、不愉快だ」
 道は真っ直ぐに続いているようだった。煙るような雨の中、道先の見通しは良くない。雨の針が中空に漂い、露天に晒されたぼくらの身体を無遠慮に刺す。ぼくは毛布を身体にきつく巻き、灰色に埋まった景色をじっと睨んだが、道のりは予測もつかなかった。

 馬車の後方から、遠雷が聞こえていた。鋭い雨の痛みを思わせる、激しい雷鳴だった。重く、低い雨雲はぐんぐんとこちらへ近付いて、急かすように紫の稲妻を、地面へ落した。
 やがて雨滴を受けて毛羽立つ泥が、馬車に追いつくと、四方は音という音に包まれた。空間を満たす雨粒が、五線譜から逃れた音符のように、手当たり次第に音をばらまいては弾ける。
 ぼくは、御者の指示で、荷台に雨が吹き込まないよう、荷車の後ろの垂れ布を強く張り、隙間を埋めた。
 雨が強くなるにつれ悪くなっていく道に、馬車が足を取られる度、木箱を固定するロープを固く締め直しては、眠るジークが荷物に押し潰されていないかと、荷物の間を覗き込んだ。
 彼は、どんな雨音も雷鳴も気にせず、膝を抱え、眠り続けていた。正直、呆れるほどの鈍感さだった。御者に働かされたくなくて、あえて眠る振りを続けているのなら、それも呆れ果てる図太さではあるが……。
 そんな風に、雷雨と格闘を続けていると、ある瞬間、ふと、辺りが明るくなった。見れば、背後で雲の切れ間ができていた。午後の弱々しい光が差し込むと、雨はそれを恐れるように圧を弱め、辺りを埋め尽くしていた雨粒は軽くなり、風に吹かれて、散っていった。
 雨の帳は、既に遠くなっていた。雨雲は馬車を追い越し、東へ向かって行く。
 遠景の晴れ間の中に、村が見えた。光の柱が、点々と見えるあばら家を包み、大きな教会の十字架が、きらりと瞬いた。
「さあ、もうすぐ着くぞ。学徒の兄ちゃんを起こしてやんな」
 晴れ間は長く続かなかった。空は再び雲に覆われ、霧雨が絶え間なく降り続く。陽の光を受けて、温まった叢からは草いきれと共に靄が立ち込め、視界は一層、悪くなった。
 馬車はゆっくりと勾配を下り、漁村へ近付いていく。雨煙の中にあっても、御者台からはぼくらを襲った猛烈な雨が、漁村に降り注いでいるのが見えた。
 馬車が広場に止まると、声をかけるもなく、ジークが起きてきた。御者台に足をかけ、うーんと伸びをする。髪にかかる霧雨が気になるのか、フードを被ると、広場をぐるりと見回した。
 広場にある井戸を中心に、家々が輪形に立ち並んでいる。いずれも黒く薄汚れた木造のあばら家で、長雨に荒み、屋根には苔が生えていた。村で一番立派な建物であるはずの教会ですら、白壁には黒黴が見えた。
「誰も出てこないなあ?」
 ジークは独り言のように呟いた。
「この雨ですからね、渓谷の方に言っているんじゃないですか?」
「渓谷? あそこに何が?」
 ジークは東へ視線を向けた。水溜まりがいくつも出来上がった干潟の向こう側に、大きな時計塔が見えていた。
 その後、しばらくすると時計塔の方角から、村人たちが帰ってきた。その内の一人が、馬車に気付き、小走りで近付いてきた。
「来ていたんですか。気付かないですみませんね」
 彼は御者に声をかけると、ぼくとジークに視線を移した。
「初めまして、えーと」
 とジークが口ごもると、
「この辺りの領主代理をしていますマイヨールと言います。あなたたちは?」
「ジークです。王都から研究のために来ました」
「研究?」
「ええ、伝承や民話の蒐集を。こちらには人魚の伝説を伺いに来ました」
 ははあ、とマイヨールは相好を崩した。
「それはよくいらっしゃいました。人魚の伝説など、もう中央の方たちからは忘れられたものと思いましたが――いや、とにかく歓迎いたします」
 そう言って、マイヨールはぼくを見た。
 ぼくは無言で、封筒を渡す。
 マイヨールは怪訝な顔でそれを受け取り、裏を見て、態度が急変した。
「すぐにお部屋をご用意いたします。ただちに封書の内容を確認し、返答をお渡しいたします。それまで、どうかお待ちください」
 そこへ、ジークが横から口を挟む。
「時計塔の見学に向かいたいのですが、よろしいでしょうか? 道中、彼に話したところ、どうも興味を持たれたみたいで……」
 そこまで聞いて、マイヨールは話を理解したのか、ジークを遮った。
「干潟の方に水が溜まっていますから、時計塔へは明日、向かわれるのがよいかと」
 そして、ぼくの方に視線を移して、
「人魚の話にご興味があれば、一席、設けさせていただきます。ただ、本日はこの雨ですから、お時間を頂ければと存じます」
 彼は頭を下げると、場を辞していった。それを見届けたジークが、にやにやと笑いながら、ぼくの方へ身体を寄せる。
「どうも勘違いしているようだったね。ま、気付くまで利用させてもらおう」
 マイヨールさん、とジークは叫んだ。
「お手伝いしますよ!」
 御者台から飛び降り、ジークは盛大に泥を跳ねる。
「何をしてるんだ、アル? 君も行くぞ」
 ぼくの嫌な顔をじーっと見つめたと思ったら、ジークはマイヨールに向かって、
「彼も手伝うと言っています! どうぞ遠慮せず!」
 と一言、付け足した。
「これで逃げられないな」
 と御者が呟いたのを、軽く小突いて、ぼくも馬車から下りる。
 ジークとぼくは小走りでマイヨールに追いつき、共に歩き出す。
「どちらに向かうのですか?」
「……渓谷の貯水池に土砂が混じりまして」
「貯水池?」
「ええ、山から下ってきた水を飲用に」
「広場には井戸がありましたが?」
「あれは、もう水銀水に毒されおります。この雨も……。昔は、これほどに雨の多い土地ではなかったのですがね。これも水銀水の影響なのでしょう」
 それから、ぼくらは貯水池の周りに土嚢を積み、水の中に沈んだ泥を掬い出したりした。渓谷と漁村の間に広がる干潟は、ひたすらに広く、遥かに見える海からは白銀の煙が延々と立ち昇り続けていた。
 夜になって、ぼくらが撤収したあとも、村人たちは灯りを手に、貯水池の方へ向かっていくようだった。彼らの生活が、小さな貯水池にかかっているのか、と思うと、それはもどかしい永遠に思えた。
 ぼくとジークは、ほとんど幽閉されるような勢いで、部屋へ案内された。マイヨールの邸宅の一室へ入れられると、食事さえ部屋の中に運ばれた。家の前には二人の見張りが張り付き、ぼくらを監視しているようだった。
 が、ジークはのんきにベッドに横になり、寝息を立て始めた。馬車の中でも眠っていたというのに、と呆れていると、
「アルも寝ていた方がいい。夜更けには時計塔に行くよ」
 彼は目を瞑ったまま、言った。
「彼らは秘密にしていたいことがあるみたいだねえ。だからこそ、暴きたくなるというものだけれど」

 夜が更けていくにつれて、雨もわずかずつ勢いを増していった。窓を叩く雨粒の音が強くなり、格子が揺れる。
 ぼくとジークはローブを目深にかぶり、ランタンを懐へ抱えて、そっと部屋を抜け出した。廊下のつきあたりの窓から、屋根へ出て、泥棒のように、広場へ下りた。
 外へ出ると、ふいに歌のようなものが耳に触れた。風雨に紛れて、旋律めいたものが聞こえる。
「これが、人魚の歌? まるで悲鳴じゃないか」
 ジークが吐き捨てるように呟いたのを、ぼくは聞き逃さなかった。彼はフードの奥で顔をしかめ、固く口を結んだ。
 ぼくはジークに促されるままに、家と家の間の路地を、広場とは逆の方へ進んだ。壁が途切れ、道が開ける瞬間、行く手に影がよぎった。
「うわっ!」
 思わず、声を立てると、それは顔を上げ、ぼくを見た。
 それは、背の曲がった老人だった。
「おや、ご客人。こんな夜更けにどこへ?」
 彼は無表情に言った。
「悪いことは言いません。どうか、部屋へお戻りください。この村には、魔物が出ます故」
「魔物?」
 ぼくを押しのけて、ジークが老人に相対する。
「例え魔物でなくとも、現に人が消えます。あの歌が聞こえるようになってから、もう何人がいなくなったことか」
 老人がそう言い終えると、くっくっ、とジークは声を押し殺して、笑った。
「何がおかしいか?」
「……私はそれを知るために、ここに来たのですよ」
 その瞬間、空が光った。稲光がさっと暗い雲の下を走り抜け、ジークの顔が照らされた。
「あっ!」
 それを見た老人が、声を上げる。それを聞きつけたのか、入り口から、見張りが誰だ、と声を張り上げる。
「そこを通してくれるかな?」
 ジークは静かな声で、老人に言った。老人は見開いた目をゆっくりと正面に戻し、辞儀をするように道を開けた。
「ありがとう、――」
 ジークは、名を言ったように、ぼくには聞こえた。
「ここは私に任せ、どうかお進みください」
 老人はぼくらを残し、見張りの方へ歩いていった。
「今のは?」
 ぼくが尋ねると、ジークはふふっと笑い、ローブを被り直した。
「さあ? 勘違いでもしてるんじゃないのか」
 ジークはぼくの質問から逃げるように、一目散に駆け出した。雨が全身を打ち、風がローブの裾を払った。干潟から立ち上る水蒸気に含まれた、水と生き物の腐臭が風に吹き散らされて、迷子のように夜に漂う。
 ジークは水溜まりを避け、砂の尾根を伝うように干潟を走り抜ける。昼間、マイヨールから聞いた底なしの流砂の話が脳裏をよぎった。
 水銀水の浸透により、地下に空いた空洞に、干潟の砂が落ち込み、そこへ人や獣が飲み込まれるのだという。
 今も、踏みしめた砂の丘が崩れ、波紋を立てながら、低きに流れていくのを見て、背筋が冷たくなった。濡れた砂の塊が、空洞へ落ち、鈍い音を立てた。砂は暗い穴へ飲み込まれていく。
 潮溜まりには、銀の膜が張り、そこからは強い潮と、屍体の臭いが立ち上がる。臭いは喉にひりつき、吐き気を催した。口の中には、血の味が広がった。
 渓谷を右手に見ながら、迂路を経て、次第に時計塔が近付いていた。雨音の喧騒に混じって、アリアは高らかに天を衝く。ジークが悲鳴だ、と言った意味が、ぼくにもようやく分かり始めていた。
 漁村に響く人魚の歌は、時計塔に幽閉された何者かの悲痛な叫び声であったのだ。
「ジーク、分かっていたの?」
「ん?」
 と振り向いてみせたものの、彼に答えるつもりはなかったのだろう。にやり、と口角を上げて、ジークは再び前を向いて、走り始める。
 漁村と渓谷を繋ぐ獣道で、ふらふらと狐火のような灯りが揺れていた。ぼくらは時計塔の扉の前に立ち、悲鳴の講堂と化した時計塔をじっと見上げた。
 王の権威を示すべく、豪華絢爛に飾り付けられた外壁や、美の限りを尽くした彫刻が、夜の深い影の中に沈んでいる。時計盤の長短針は錆びつき、もう長く動いていないようだった。
 ジークは懐から鍵の束を取り出し、扉の鍵穴に差し込んだ。かちり、と音がして、鍵が開く。
「ジーク、本当は何者なんだ?」
 相変わらず、彼は答えない。彼は扉を閉め、忍ばせてきたランタンに火を灯した。灯りをかざし、彼は安堵したように息を吐いた。
 ランタンのか細い光に照らされた、そこはがらんとした望楼だった。四辺の壁に沿って、階段が上へと伸び、時計を動かすべき歯車は、打ち捨てられるように、まばらに床に転がっている。
「時計塔が完成することはなかったんだ。体裁だけを整えられて、そして、捨てられた」
 中は、外の大雨が嘘のように静かだった。囁くようなジークの声も、はっきりと聞こえた。
 どこか痛みを抱えた声は、否が応でもジークの過去を想像させる。先々代の王の時代であるなら、もう六十年も前のことのはずだ。それをまるで昨日のことのように話す彼は、いったい?
 ひた、ひた、と水滴が垂れる音がする。水よりも、もっと粘ついた、血垂れのような。
 ジークは迷いなく、扉に手をかけ、地下への階段を開いた。地下からは悲鳴が響く。枯れた喉から絞り出すような、しわがれた声だった。
「付いてくるかい?」
 その時、ようやくジークが口を開いた。彼は眉を八の字にして、情けない顔でぼくを見る。
「この先には何があるんだ?」
「時計塔に閉じ込められた人魚」
「ジークは、彼女に会いに来たんだろう?」
 ジークは頷いた。
「なら、ぼくは邪魔だな」
 ぼくはジークに道を示す。地下へと続く階段は暗く、そして、急だった。
「ありがとう」
 彼は小さく呟くと、そっと階段を下りていった。足音が遠くなり、やがて、切れ切れに聞こえていたアリアが止んだ。
 人魚とジーク、二人の関係がどんなものかは想像するしかないが、しかし、その再会はきっと長い時を隔てた、思いの積み重なったものなのだろう、とぼくは思った。
 ゆっくりと目を瞑ると、ジークと人魚が抱き合う姿が、まぶたに浮かんできた。
 ひた、ひた、と水の滴る音が聞こえる。その一定の音を聞いていると、次第に意識が遠のいていくのを感じた。壁に背中を預け、座り込み、まぶたを閉じた時、頭の上から声が降ってきた。
「こんばんは、アルフレート」
 はっとして、顔を上げると、衝撃が頭を揺さぶった。気付くと、ぼくは埃だらけの床に倒れ、額から血を流していた。血は、ぼくの顔を伝い、床に広がっていく。
 声の主は、ぼくの髪を掴み、床へ叩きつけた。そこで、ぼくの意識は途切れる。彼、マイヨールはその直前、
「この詐欺師め」
 と毒づいた。

 再び、ぼくが目を覚ますと、そこは井戸の底だった。水の枯れた井戸は長く、放置されていたのか、苔や草が生え、石積みの隙間はぎっしりと緑に埋め尽くされていた。
 空は相変わらずの曇り空だったが、井戸の底はわずかながら光が届き、手元が見えるほどには明るかった。
 井戸には横穴が続き、そこは文字通りの暗黒だった。横穴からは湿っぽい、かびくさい風が吹いていた。
 しばらく、そのままいると、ふっと影が差した。見上げると、村人の一人が、こちらを覗いていた。彼はすぐに顔を引っ込めると、マイヨールを伴って、戻ってきた。
「やあ、起きたみたいだね。君が目を覚ますのを待っていたんだ。怪我の具合はどうかな?」
 マイヨールは頭の後ろをさするような仕草をしてみせた。思えば、山賊に殴られた傷と、図らずも同じ場所だ、と気付き、ぼくは顔をしかめた。そっと、襟足に手を伸ばし、そして、違和感を覚えた。そこに、傷跡がなかったのだ。血で固まった髪の毛が、手の平を刺すが、触れた頭に傷みはなかった。
「さて、君の目的をぜひ聞きたいのだが。まず何から質問するべきかな?」
「ぼくをこんなところに閉じ込めて、どういうつもりだ?」
 ははは、とマイヨールは笑った。
「しらを切るつもりかな? しかし証拠はこちらの手元にある。言い逃れはできないよ。親書があれば、私たちを騙せると思ったのだろうが、君も迂闊だったね」
「親書?」
 あの、王家の印が押された封筒のことか。
「分からない。道中、山賊に襲われて、記憶がないんだ」
「戯言は聞き飽きたよ。どこであの印を手に入れた? いや、そんなことはどうでもいい。だが、あれでは騙すには不十分だ。あれは先々代の王印なのだよ」
 先々代の王。かつて、この漁村に王都を築こうとした人物の?
「ジークは? ジークなら何か知っているかもしれない」
「……彼なら死んだ。私が確かにこの手で刺した」
 もはや、知る術は失われた。ぼくはただ茫然として、沈黙するしかなかった。マイヨールはそんなぼくを見て、全てを悟ったのか、途端に瞳の色を失い、井戸から身体を引いた。
「じきに日が昇る。潮が満ちれば、その井戸は水銀水で満たされるだろう。さよならだ、アルフレート。……貯水池の泥除け、大いに助かったよ、礼を言う」
 そうして、気配が遠のいていった。
 ふと足元を見ると、さっきまで乾いていた井戸の底が、わずかに黒く、湿っていた。横穴からは悲鳴のような風音が響き、ぼくはここで朽ちていく自分の身体を思った。
 ぼくはしばらく、井戸の底に座り、ぼんやりと空を眺めていた。欠如した記憶には、思い返すべき何かもなく、過ぎていく一秒を、確かなものとして数え上げることしかできなかった。突如消えた、頭の傷や、ジークと人魚の関係が気になりはしたが、死にゆく身体が秘密を知ることはない。
 何もかも諦めたその時、井戸の上の丸い空に影がかかった。それは、夜に路地で行き会った老人だった。
 彼は、何かを井戸の中に投げ込むと、
「ジークフリート様は生きておられます。横穴を抜け、時計塔へ向かいなさい」
 と言った。ぼくのぼんやりした視線に、老人は頷くと、すぐにその場から去っていった。
 ぼくの手元には、彼が投げ入れた鍵だけが残された。横穴は暗く、女の悲鳴がこだましている。
 地面からは、銀色の粘液が染み出し、ぼくの裸足を冷たく包んだ。既に選択肢はなかった。ぼくはくらやみの中へ歩き出す。
 ひとたび、くらやみに足を踏み出すと、奥から湿っぽく、冷たい風が吹いてきた。かすかに潮の混じった風は、屍臭のようでもある。怖気がかすかに背筋を伝う。
 手探りで壁沿いに移動すると、少し離れた所で鈍くも、きらりと光を反射する何かが見えた。近付くと、それは細くなった洞窟を完全に遮断する鉄格子であると分かった。
 苦労しながらも、鍵を開けると、鉄格子は錆びた蝶番を軋ませながら、開いた。重たい蝶番は錆を噛んだようで、がりっと、音を立てると、そこから開かなくなった。どうにか細い隙間に身体をねじ込み、先へ進む。
 道は右に曲がり、井戸から差し込む光は完全に届かなくなった。
 ぼくは、その場で目を閉じ、じっと数を数えた。まぶたを再び開いた時、道の先にぼんやりと青白い光があるのが見えた。
 見れば、足元の水銀水もかすかに光を放っているように思える。発光しているのは、潮溜まりなのかもしれない。
 そう思い、光の元へ近付いていくと、それはぬたりと揺らめいた。ぼくの目線ほどの高さにあった光源が、低くなり、足元から照らすような影が生まれる。
 ぼくは息を止め、その様子を見守った。何かがいる。鳥肌が立ち、身体が全身で危険を察していた。
 そして、光はふたたび動いた。今度は、びちゃ、びちゃ、と粘度の高い水音が耳を突く。光がこちらへ近付き、水音が高くなる。
 角から顔を出したのは、金属質に光る人間だった。だが、それは人の顔ではなかった。顔の形をしているだけの、何か。顎からは絶えず、銀色に輝く粘液を滴らせ、その度に顔の造形は崩れる。大きな大きな、しずくが重力に逆らい、人の顔を保ち続けようとするかのようだった。
 それが、壁に手をかけると、全容がぼんやりと分かった。そのなめくじのような、水銀の生命体は、全身が溶けかけた白銀の液体で出来ていた。四肢は既にとろけており、足に至っては、蠕動を繰り返す扁平な尾びれと化していた。腕は化物が背負った襤褸の外套によって、何となくの気配は察せられたが、指も節もなく、水飴のような、滴型の腕がだらりと垂れているだけだった。
 化物の動きは緩慢で、のたり、のたりとひどく気怠そうに動いている。どうにか気付かれないよう、隣を走り抜ければ、と考えていると、それがふいに顔を上げた。
 とろけた顔面の、不完全な水晶体は、ぼくを確かにとらえた。
 下がるか、突き進むか、一瞬の逡巡の内に、ぼくは水銀の両腕で、肩を掴まれていた。
 ひんやりした感触が、服を透かして、肩に触れる。
 化物は、伸びをするようにぼくの顔を覗き込んだ。奴の背後には、青白い光の軌跡が残っている。
「童、どこから来た?」
 それは、人の言葉を話した。声を聞きつけてか、化物の出てきた角に光が集まりだす。
「かの格子の鍵、どこで手に入れた?」
 向こうから、次々と化物が現れる。
「答えよ、童」
「い、井戸に落とされて、鍵は老人に投げ入れられた」
「老人?」
「ジークハルト様は生きている、と」
 ごぼ、ごぼ、と化物の身体の中で音がした。それはどうやら、笑い声のようだった。
「ああ、戻られたか。我らが王。我らが魁」
 そう言うと、化物はぼくの肩を離し、道を譲った。
「ジークハルト様にお伝えください。我ら領民、枯れ井戸に控えております、と」
 彼が指差すと、洞窟はほのかに光った。
「道標の先は、時計塔に繋がっておる」
 彼らは、時計塔の方に向かって、頭を下げた。今や、くらやみだった洞窟は、光を反射する水銀水に照らされて、夜空に跨る天の川のように、うねりながら、道を示していた。
 洞窟の果てまで来ると、そこには重々しい扉が待ち構えていた。華美な彫刻には金が鏤刻され、深い影を伴い、怪しげな光を蓄え、揺らめいている。
 扉までも道は緩やかな上り坂が続いており、扉に着く頃には、ぼくは息を切らしていた。どれほど上ったのかは分からない。どこまでも続いていくような、暗い洞窟をただひたすらに歩き続けた。
 ぼくは扉に手をかけた。扉はゆっくりと、音もなく開いた。耳の奥に、ひた、ひたと雨垂れの音が響く。
 目の前には、大きな歯車があった。恐らくは時計塔を動かす内臓であるそれは、死体のように動かない。だが、滴下の音は、そこから聞こえるようだった。
 ぼくが部屋へ足を踏み入れると、ふいに声がした。
「アル? アルなのか?」
 声は、ジークだった。
「ジーク、どこにいる?」
 声は聞こえるはずなのに、姿が一向に見えない。
「ここだよ、ここ」
 声は歯車の方から聞こえていた。
 ぼくは歯車から滴る水銀水を避け、裏側へ回る。すると、案の定、そこにはジークがいた。彼は歯車の側に座り込み、じっと何かを見つめているようだった。
「そこで何してる? マイヨールに何かされなかったか?」
 彼はぼくの声にようやく振り向いた。と同時に、彼の影になっていた歯車の向こうが、ぼくの視界に入った。
 人魚。そうとしか言えない女が、歯車の下敷きになっていた。ぬめるように輝く肌と、下腹部から伸びる鱗の身体。足ともヒレともつかないものを歯車に挟まれ、それは血を流していた。
「アル、手伝ってくれないか?」
 ジークは人魚の血――水銀水の水溜まりに膝を突き、歯車に右手を差し込んだまま、顎でその手の先を差した。
「切り落としてくれ」
 側には、斧が立てかけてあった。
「質問はなしだ。とにかく、やってくれたまえ」
 ぼくは、ジークの有無を言わせぬ勢いに気圧されながら、歯車の下で、見る影もなくなった彼の腕を想像し、決意を固めた。ジークも同じことを考えたから、ぼくに腕を切り落とせ、と言っているのだろう、と。
「タイミングは?」
「いつでも」
「それじゃあ、やろう」
 ジークは身体を捻り、腕と身体を遠ざけた。ぼくは彼の二の腕に目標を定め、斧を振り上げた。
 だん――と手応えがあって、ジークが呻き声をあげる。一瞬遅れて、血がぼたぼたと音を立てて、垂れた。
「……ジーク、これは」
 彼の血は、人魚と同じ銀色をしていた。
「質問は後にしてほしい」
 ジークは血が流れ出るのも厭わず、歯車に挟まった右腕を取り出そうと、力を入れる。力んだタイミングで、血がばたばたとこぼれた。
「アル、その斧で歯車を支えてくれないか?」
 ぼくは言われた通り、歯車の下へ斧の柄をあてがい、体重をかけた。
「かつて、この土地には人魚がいた、という伝説は話したね。渡るのに非常に難度の高い海路だった。だけど、それ故に、ここに築城することには意味があった。この海域を制し、航路を広げることで、利益を上げようと先々代の王は考えた。北方のルートは、西の大国との貿易競争で確実に勝利する方策の一つだったからだ」
 血を流し続けるジークの右腕を、少しずつ歯車の下から引きずりだす。
「そんな折、漁村への視察に訪れた彼は、帰国するとすぐに婚姻を発表した。相手は、漁村で見初めた美しい娘だった。もちろん、周囲は猛反発した。どこの家柄とも知れない娘を、王宮に入れるなど、と。貴族も大臣も、国民すら彼女の悪い噂を口にした。
 王は反発を受けて、開き直るように、王城の遷都を下命した。まったく愚かなことだよ。たった一人の娘のために、王城を移すなんて……。そして、それが二人の悲劇のはじまりでもあったわけだ」
 ジークの隣で、じっと彼の顔を見つめていた人魚が、かなしげな声でアリアを歌いあげた。彼は人魚に、大丈夫、心配ないと微笑みかけた。
「城よりも民よりも早く、漁村へ居を移した王と王妃は、確かな蜜月の日々をそこで過ごした。少しずつ出来上がっていく時計塔を眺め、干潟を歩き、まるで幸福な絵画のように、理想的な日常を楽しんでいた。
 だが、王はある時気付いた。娘が満月と新月の夜、必ず、暗い夜へ出かけていくことに。彼は不安になった。ここは彼女の故郷であり、長く住み続けた土地だ。かつて恋をしたこともあっただろうし、惚れた相手もいたことだろう、と。それは自分への裏切り、許されぬ恋の逢瀬なのではないか、という考えに至った時、彼はいてもたっても居られなくなり、彼女を夜の中、追いかけた。
 彼女は満月の灯りが照らす下を、或いは、まったくのくらやみの干潟を、少しも迷うことなく、渓谷に向かった。そこは王が、彼女と初めて会った泉だった。
 彼女は泉の側に立ち、靴を脱ぐと、そっと青白く光を放つ水面に爪先で触れた。すると、不思議なことが起こった。水面に反射する光が、そっと彼女の白い足を駆け上った。光の糸が彼女を包み、その肉体は、虹で編んだ布をほどくように、極光へ変わった。光のカーテンが幾たびか揺れ、一際激しい光を放つと、彼女は消えていた。泉のおもてに伝う波紋が、確かにそこに彼女がいた証拠のように見えたが、墨をこぼしたような暗い泉に、姿を探すことはできなかった」
 ジークの語りをかき消すような、けれど弱々しいアリアは、虚しく時計塔にこだまする。彼女はジークのかなしみに満ちた顔を見つめ、傷付いたような表情になる。
「王が見初めた相手は、人魚だった。彼は娘を追いかけた次の朝、彼女を問いただした。彼女は言い訳をするでもなく、ただ静かに真実を話してくれた。永遠に生きるもの、不老、不死の化物、死なずの魚人。それが自分なのだ、と。
 そして、彼女は迫った。真実を知った以上、これまでの生活を続けることはできない。このまま袂を分かつか、それとも、王もまた不死人になるか、選ばなければならないと」
 ジークはそこで口をつぐみ、弱々しく笑った。
「あとは分かるだろう?」
「……彼は人魚の血を啜り、不老不死の化物となって、王都から去った」
 彼は静かに頷いた。
「だが、先々代の王は不死の噂を広めることになってしまった。人魚の血を飲んだものは、不死人の末席に加われるなどというくだらない噂を」
 その結果がこれだ。漁村を訪れた野盗の群れは、元々の住民を枯れ井戸に押し込め、果ては人魚を捕まえて、時計塔へ幽閉した。
 ジークは自嘲するように笑い、そして、右腕を引き抜いた。切断された腕の断面を、そっと合わせると、水銀の血は糸引くように纏わり、切断面を接着した。
「さあ、アル。最後にもうひとつ、手伝ってくれないか?」
 ぼくは、恥ずかしげもなく言うジークを、なかば呆れるように見つめた。
「――この時計塔を壊してしまおうと思う」
 そう言った瞬間、井戸へと続く扉の向こうから、悲鳴が聞こえた。
「……あれは?」
「村の方からだろう。約束が果たされたんだ」
「約束?」
「ああ。私がここへ戻ると告げた日から、彼らはずっと待ち続けていたんだ」
 枯れ井戸に住まう不死になり損ねた領民たちの姿を、ぼくは思い浮かべた。
「人魚の血は妙薬でもあり、劇毒でもある。彼らは野盗に利用されたんだ。不老不死を得るための実験台としてね」
 だが、ジークはそれ以上語らなかった。扉から顔を背けて、空虚な時計塔を眺める。
「火薬を仕掛ける。手伝ってくれ」
 ジークの視線の先には、何十もの樽に入れられた火薬があった。
「これだけの量、どこから?」
「アルは知っているはずだよ」
 そうして、火薬を仕込もうと動き始めた矢先、階上が騒がしくなった。無数の足音が、ばたばたと走り回り、こちらへ下りてくる。
 扉を真っ先に開いたのは、マイヨールだった。髪を振り乱し、彼は数人の部下を連れ、ぼくらの前に現れた。
 彼は、ぼくとジークの姿を見て、驚いたように一瞬固まったが、すぐに後ろに控えていた部下に鋭く指示を飛ばした。
 刃を抜き、彼らがこちらへゆっくりと近付いてくる。
「ジーク、どうする?」
「問題ない。このまま点火しよう」
「……みんな、死ぬぞ?」
「ああ、みんな死ぬ」
 ジークは燐を擦り、あらかじめ用意しておいたであろう導火線に火を点けた。くらやみにさっと火が走ったと思うと、人魚の下敷きになっていた歯車の側で爆発が起こった。爆音と暴風が、狭い地下の空間にこだまする。大きな歯車が、その重みに見合った遅さでゆっくりと倒れる内に、爆発は誘爆し、ぼくらを火薬の匂いが包む。
 眩暈と地響きを合わせたような、揺れがぼくらを襲い、身体に衝撃を受けたと思った瞬間には、ぼくは壁に打ち付けられていた。
 呼吸ができない、と思う間もなく、次の爆発が起き、ぼくは気を失った。
 意識が途切れる刹那、誰かがぼくを抱え上げるのを感じたが、それはぼくの身体が爆風に巻き上げられた錯覚なのかもしれない、とぼんやり思った。

 漁村からゆるやかに続く坂を上りきった所に、馬車は止まっていた。不親切な御者はぼくらの姿を認めると、手を上げ、ぼくらを出迎えた。
「随分と派手なお戻りで」
 今もくすぶり続ける炎の煙が、干潟の向こうに見えていた。時計塔は柱を吹き飛ばされ、砂でできた城のように、あっさりと潰れた。残るのは火と、煙だけだ。
 ぼくは後ろを振り返った。ジークはおぼつかない足取りの人魚に手を貸しながら、坂を上ってくる。彼女は自分の足が存在することが信じられないというように、一歩一歩、確実に歩みを進めている。
「全部、知っていたんだな」
 ぼくは呟くように言った。御者はふんと鼻を鳴らして、ぼくに答える。
「知らぬ知らぬは、子どもばかり」
 最初から、計画通りだったのだ。御者を伴い、漁村に入り、時計塔から人魚を救い出して、そして、村を領民に襲わせることなど。
 そこにぼくがいた意味は、まだはっきりとはしないが……。
 だが、ぼんやりとこう考える。
 ぼくに傷を負わせ、人魚に犯された自らの血を、ジークはぼくに飲ませた。やがて化け物となったぼくを漁村に放ち、彼は人魚を助け出すつもりだったのではないか、と。
 やたらに治りの早い傷。爆発を受けても死ななかったこの身体は、既に尋常の人のものではない。
 偽の親書も、その演出の一つだったのだろう。先々代の王、ジークハルト・アルデンヌの封印などの見え透いた虚栄で、ぼくを上手く囮に仕立て上げた。
 まったく、信用ならない王様だ。かつて、姫のために国を傾け、今、一人の人魚のために、若い命を天秤にかけるなど。
 ぼくはようやく追いついたジークを軽く小突いた。
「ん?」
 学者然とした線の細い顔は、まるで何もなかったかのように、ぼくを見つめる。
「ジーク、これからどこへ行くんだ?」
「家に帰るよ」
 じーっとぼくを見つめた後、ジークは何かを閃いたように、ぱっと顔を明るくした。
「行く当てがないのなら、付いて来るかい?」
 その言葉の軽さに苛立ちながら、ぼくは頷き、馬車の荷台に足をかけた。
「ようこそ、不死の国へ」
 御者の卑屈な笑い声が、高らかに響いた。
 空は相変わらずの曇り空で、行く先には雨の帳が見えていた。ぬかるんだ道を、馬が蹴り上げ、泥が飛ぶ。
 ぼくはただ、静かに眠りたい、と思った。

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