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掌編 「塹壕奇譚」

 機関銃斉射を受けた屍は新月の夜、立ち上がり、故郷への道を踏む。人の肉をついばんだ鳥は人語を介し、無能な指揮官そっくりの声で突撃を命じる。砲火で赤むけた大地は流血で乾く暇なく、血と土の泥で兵士の足を止めた。

 夜の前線、膠着状態が何年も続いた戦場でも、月のない夜ばかりは静かであった。
 死肉を漁りに飛んできた梟が地面へ降り立ち、夜目を光らせる。まだ腐っていない、肉付きのいい死体へ近付き、鋭い爪とくちばしで器用に骨から肉を剥がしては、咀嚼し、嚥下して、くらやみに響く、あの声で鳴く。
 その声を聞いた新兵が、東の塹壕から頭を出す。懐で大事そうに抱えていた小銃をゆっくりと構え、声の方向へ狙いを定めた。もう一度、梟が鳴くと、新兵は無知で無垢な好奇心で引き金を引く。青白い発火が、彼の顔を照らした。
 弾丸は風切り音と共に梟の翼へ噛み付くと、柔らかな羽毛を食いちぎった。ふわふわと、飛び散った灰色の綿毛が夜空に降り、まるで雪のように見える。梟は、汚れた獣の血を流し、声も上げずにのたうち回った。
 新兵は息を殺し、もう一度、引き金を引く。当てずっぽうに撃った弾丸は闇に飲まれ、彼の居場所をはっきりと知らせた。
 西の塹壕からいくつもの火花が飛び、静寂を裂いて、銃弾が飛ぶ。
 新兵はヘルメットごと、撃ち抜かれた。

 見張りの詰め所の三人の元にも、銃声は届いた。彼らは故郷から届いた菓子や酒を頬張り、各々好き勝手に振る舞っている。
「おい、また間抜けが勝手に祭りを始めたぞ」
 その声に、机に向かって、手紙を書いていた一人がぴくりと反応する。
「その間抜けって言うの、やめましょうよ」
 酒で顔を赤くした中年を、ひげの剃り跡のない若者がたしなめた。若者はそう口にしながらも、手紙を書く手は止めない。
「アンリ! こんな夜中に無駄弾撃ち込む馬鹿が、どうして間抜けじゃないんだ?」
 アンリと呼ばれた若者は顔をしかめて、酔っぱらいの方へ身体を向ける。
「ピエールさん、静かにおねがいします。手紙を書く邪魔ですから」
 ピエールと呼ばれた男は顔をより真っ赤にさせて、
「お前から突っかかって来たんだろう! 階級は同じでも、俺の方が長いんだからな!」
 と叫んだが、アンリは既に机に向き直っており、その怒声を背中で受け止めた。その響かなさに、ピエールは腹を立て、椅子を蹴り飛ばす。今にも、いきり立った彼がアンリに殴りかかりそうだ、という気配を漂わせると、三人目が口を開いた。
「まあまあ、そんなに怒らなくても」
 彼は熱心に巻いていた煙草に火を点け、煙と共にピエールに差し出した。
「どうです?」
 口から煙を吐き出し、人懐っこい笑顔で笑う彼を見て、ピエールは毒気を抜かれる。おずおずと煙草を受け取ると、一口吸い込む。
「落ち着きましたか?」
「……どうもね」
 ルイの見事な仲裁に、アンリも安堵の息を吐く。
「これも任務とはいえ、そう堅苦しくしなくてもいいでしょう」
 不服そうなピエールから煙草を受け取り、呑気な顔で煙を吐くルイは再び人懐っこい笑みを浮かべ、菓子を食べ始める。
 ピエールは苛立ちをのらくらと躱された不満から、不機嫌な顔をした。酒瓶を抱え、うやむやを飲み込むように、酒を呷る。盃を乾かした後、不満をぶちまけるように、胃の底から息を吐いた。
 その後、三人はまた無言になり、痛いほどの沈黙の中、各々の楽しみに戻った。緊張状態の続いた塹壕戦で、誰もが息を殺すのに慣れている。夜の静けさは、昼の激しい砲撃を思うと幻のようであり、得難い貴重な時間でもある。兵士たちも亡霊のように、その静寂を蓑にしてようやく眠る。夜半の見張りという貧乏くじでも、その時間を活用しないのは、まったくの愚か者である。
 踊るように滑っていたアンリの筆が、突然止まる。彼はうーんと唸り、頭を掻いた。
「あの、妹から、何か話を聞きたいと頼まれたのですが、何かいい話はありませんか?」
 アンリは二人の方へ振り返って、おずおずと尋ねた。楽しみを邪魔する気まずさも手伝って、普段より言葉遣いが丁寧になった。
「妹? いたのか、そんなの」
 アンリの席まで近付き、手紙を覗き込んだピエールは、写真を見せろとアンリにせっつく。
「嫌です。妹はまだ結婚先も決まってないんですよ」
「何だ、その言い草。まるで俺に見せたら、けがされるようなこと言いやがって!」
 ルイは二人のじゃれ合う姿を眺めながら、やはり笑っていた。いくら酔っぱらいでも、新兵の世話はピエールに任せろ、という評判は伊達や酔狂でない。ルイは年の離れた兄弟のような二人を見て、懐かしそうに目を細めた。
「最近、噂になっている話なら知っていますけどねぇ」
 ピエールに纏わりつかれながら、アンリは前のめりに目を輝かせた。
「それ、どんな話です?」
「戦死したはずの戦友を塹壕で見かけた、というのですよ。そんな話をもう二十は聞いています」
「それなら、俺も聞いたな」
 と答えるピエールに対して、アンリはがっくりと肩を落とした。
「面白い話ではありますけど、妹に聞かせるには少し物足りないですね」
 アンリの頭を、ピエールがぽかりと叩く。アンリは、何するんです、と憤り、ピエールは、この馬鹿やろう、と罵る。直後に、吹き出したルイを、二人は不思議そうに眺めた。
 ルイは、わざとらしく佇まいを直し、咳払いをしてから、話を続ける。
「それが、この話には続きがあるんですよ。その死んだはずの戦友を見かけたという兵士はみな、その次の火に亡くなっているんです」
「偶然じゃないのか?」
 今度は、ピエールが水を差す。
「それならいいんですけれどね」
 とルイは含みを持った言い方だ。
「どういうことです?」
 ルイはアンリの目を見据えた。
「彼らはみな、戦友に誘われているんです。こちらへ来ないか、と。そして、気になって調べたんです」
 三人の肩に静寂が重くのしかかる。戦場を満たす呻きや叫びも、人の声という点では、救いにもなる。この世界に生まれ落ちた赤ん坊がまず初めに叫ぶのも、自分はここにいると知らせるためならば、いくら凄惨な塹壕の中でも、苦しみを分かち合う仲間がいるといないでは感じるものも変わる。
 しかし、物音一つしない詰め所で、彼らはたった三人だった。そこには他の誰もいない。絶海の孤島に取り残されたように、死の満ちた静寂の海が彼らを包んでいた。
 その重圧に耐えかねたように、ルイが口を開く。
「その話をしてくれた兵士の死体は、いずれも味方の銃弾で、背中から撃たれていました」
 確認できたのは三人だけでしたけれど、と付け加え、ルイは口を閉じた。
「それって……」
 青ざめたアンリが、口を手で抑える。隣で話を聞いていたピエールはまだ飲み込めていないらしい。
「どういう意味だよ。幽霊はどこに行ったんだ」
 拍子抜けしたのか、ピエールは軽口を叩いて、笑う余裕が生まれていた。大した話でもないな、と口にして、先ほどまでの重たい沈黙を笑い飛ばそうとする。まるで、恐怖した自分を恥じ入るように。
 ルイは変わらない笑顔でいた。
「幽霊話などではありませんよ」
 アンリが、話を継いだように語りだす。
「その弾丸を撃ったのが幽霊であれ、生きた人間であれ、とにかくぼくらには背中にだって、安全はないってことですよ」

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