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細かいことの積み重ね

 先月のことだけど、知り合いの方の手伝いに呼ばれたことがあった。
わかりやすく言えば肉体労働というやつである。中々に良い経験だった。

その時にたまたまビニールハウスの設営を少し手伝ったりしたのだが、それで改めて思ったことがあった。改めて言うと非常に単純なことなのだけども。

「世の中にある巨大で複雑な構造物は、一つ一つの小さなことからできている」

人体がその絶妙なバランスで恒常性を維持しているように、僕たちの生活に関わるものというのは大雑把なものでできているわけではない。

目に見えてわかりやすい、直感的にわかるものの裏には山ほどの工夫とバックアップが控えているし、簡単に揃うシステムを支えるために多くのサービスや流通が存在している。

最近色々試しているトラックの作成にしても、それを作るための手順は単純なようで色々な手順がある。録音なり作成時の技術、つまり演奏が上手だから良い曲、とはならない。

他の音源との組み合わせの際に、どちらが表に出てくるか、音質のバランスや調整といった細かなことをしっかりしていないと、何かが足りない。

別段、聞けないということではない。ただ、まとまりがないというか、モヤッとする感じになる。これはカラオケをそのまま録音したものをそのままCDにするとよくわかるのだけど、原音を忠実に録音してそのまま出してもしっくりこない。

あくまで、録音なりリバランスの細かな調整が必要なのだと思う。


まぁ、そうは言っても細かなことばかりできたら良いわけではなく。
要するにどこを基準にものを見るか、ということになる。

基本的に、何かをするための手順はこんな感じだと思う。

①目的なり計画を考える
②必要なリソースと方法を決めて予定を作る
③実行手順を作って、そこに具体的に工程を決めていく
④適宜調整をしながら、目標値に近いところに持っていく

前提として、目的の部分にブレがないとか、柔軟性を持たせるなどの明確な形を提示をする必要がある。

そこから詰めていく時に、徐々に細部への細かな作業なりが発生していく。
この部分が甘ければ甘いほど、目標値の下へと向かっていくことが多い。

基本的には、立てられた目標値に近いほど納品レベルとしては問題ないところに行き着くのだけど、それが正解かというとまた難しい。

ゲームが好きな人なら一度は通ったことがあると思う、「クソゲー」というものは別に元々クソゲーを作るために作っているわけではない。

元々の目標値の下でしか完成しなかった結果そう呼ばれることもあるし、目標通り作っても目的がユーザーに合っていなかったり・・・。

もしくは目標値のはるか上でこだわり抜いて、スタッフからしたら傑作だと思っていたのにも関わらず、作り込みすぎた結果評価が散々であったり。

おそらく何やっても良いものは良くて、悪いものは悪い。

タイミングや運も要素としてあるのだから、成功と失敗と努力に必然性などない。

少なくとも、他人からの評価がどうであるかなんて関係なく、頑張ってコツコツ作ったことには意味はあるんだよ、っていう。

そういう意味だと、やったことに意味がないなんてことはないのだと思う。


馬鹿馬鹿しいものを真面目に楽しく、くらいのスタンスでやれると素晴らしいと思うけれど。

嫌なことを嫌な気持ちで続けても、どうやっても楽しくなんてならないから。
それで他人も同じ沼に引き摺り込もうとするのはもっと良くない。

そういうところで細かな工夫までするのは、とても不毛だと思うのである。

SNSはプラスの方向で使うには非常に素晴らしいと思うけど、マイナスの方向に向かうと際限なくそっちの方向に向かってしまう気がしている。

自分、ひいては他人の幸せにしたって、細かなプラス方向の工夫の積み重ね。相手から奪うことばかりしていても、最終的には狩り尽くされてしまう。

足し算をしろとは言わないけれど、引き算を自分からする意味はない。
時々した方が良いけれど。

足の引っ張り合いは引き算ではなく割り算だから、そんなことやってる暇なんてあまりないと思うんだけども。

人は往々にして、低きに流れようとする性質を持っているのかもしれない。


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