またね、の法則
観覧車は愛と思惟とを乗せて延々と廻り続ける。
「愛してる」
「綺麗な景色だね」
「今日はありがとう」
吐息は巡り、睦言は絶えることなく谺(こだま)する。
午後5時30分、広くくり抜かれた窓へ射し込む飴色のひかり。
雲は風の行方を追うように空を去りゆき、太陽はその円かさを一片も損ねることなく輝いている。
身の竦むような高さ、近くで軋むボルトの音、風に揺れる機体。
にも関わらず美しい。
にも関わらず美しい。
生きる歓びとは、感受することそれ自体。
生きる苦しみとは、覆われることそれ自体。
怖れという覆いが破られた時そこに調和が生まれ、調和が感受への架け橋となり、感受によって満たされた円かな心がその歓びをみずから光る。
清浄な心とは、心がそのまま私の太陽である。
閉ざされた者にとって、思い込みとは自縛であり命綱。
自尊のために不相応な冠を被ろうとする。或いは根拠のない不安や恐怖へ陥れ、みずからの裡に殻をつくり閉じ籠もらせようとする。
ひとは本来、自分で自分を苦しめずにはいられないのだ。
空の旅もそろそろ佳境、下を見遣ると次々と地上へ降りていく人達の賑わいが見えてきた。
地面に降り立ち、さっきまで居た空を見上げると、観覧車は新しい人達を続々乗せていつまでも廻り続けていた。
「またね」
「・・またね、」
とある職場を辞めることになった際、かつての同僚が最後に掛けてくれた言葉。
今より未熟だった当時の私は(ずるい)と思ったものだ。(二度と会うことは無いと分かっているのに何故そんな言葉を掛けて来るのだろう、余計悲しくなるだけなのに、)と。
けれど今なら分かる。あの挨拶は「わたし」と「あなた」という仮初めの向こう側へと開かれた普遍的な「またね、」であったということを。
..遠い未来に私達は姿かたちを変えてきっと出会える。
『またね、の法則』に身を委ねること。
(これは私が勝手に命名した法則。)
宇宙のあらゆる物質はこの合言葉のもとに巡り廻るという意味だ。
命とは縺れた糸のようなもの。
柔らかくて、脆くて、あやふやで、それでいてつねに完結している。
けれど命は生きなくてはならない。
目覚めた命を生きようとするその過程で、私たちは次第に頑なになり、いつしか命を自分自身から遠ざけてしまう。何かが次第に曇り、漠然と苦しくなってゆく。
「命」と「生きること」、この幻みたいな矛盾の挟間でもがき苦しまずにいられない。それこそが存在の抱える業なのだろう。
この矛盾から生まれる葛藤が「私」という塊。
孤独、不満、無気力、拒絶、
・・今でも怖れは何処からか訪れ、時々心に影を落とす。
その度に『またね、の法則』へこの身を開く。
(この小さな怖れが消え去りますよう。)
(あらゆる覆いは棄て去られ、円かなわたしへ立ち返れますよう。)
(宇宙のなかの"わたし"で在れますよう。)
(このてのひらが優しくほどかれますよう。)
生きることは祈りなのだ。
怖れる心を励まし、絶えず無邪気あろうとし、時にはみずからを頑なに守り、或いは敢えて危難に曝し、かつ学び、綴り、躓き、もがき、眠ること。その全てが祈りであり、つまり私とは「わたし」という仮初めの祈りの形態そのものなのだ。
そして同時に、すべての「あなた」がそれぞれ独自の祈りのかたち。(円かな心をその奥底に秘め。)
「またね、・・・」
「・・・またね、」
永遠に形は無い。永遠とは谺そのもの。
生きようとすること、続こうとすること、絶やさないということ。
宇宙の法則とは愛なのだ。
だから私達が"ここ"にいる限り、愛をわすれてはいけない。
宙(そら)の車輪は愛の吐息に延々と廻り続ける。