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遠きあくがれ
私と恋人は過ぎ往くときを唯々諾々と過ごしていた。
己を良く見せる為の姑息はとうに尽き、努めるも繕うも最早無し。
部屋を漂うは茶葉の香と、甘ったるい敗北。
とある中国式茶舘。薄暗い四方三尺ほどの空間には古今東洋の書物が粗雑に詰め込まれていて、頭上では埃を被ったランプが寂莫と紅い壁を照らす。
丸い小机に狭しと置かれた2つの茶盤のなかにはそれぞれ3つの茶器。小ぶりな急須、白湯を湛えた瓢箪型の青磁、そして茶を吞むための椀。
瓢箪から急須に少しずつ湯を注ぐと、くびれのなかで湯と空気が入り交じり、コポコポコポ、と小気味よい音を立てる。そうして茶葉の風味に潤った急須の湯を椀へとうつし、口元にそそと運ぶ。
時を鳴らし、時を満たし、時を吞み、時を燻らし、時を哄う。
くすぐったい戯れ。
過ごす、ということそれ自体。それこそが私達なのだと。
時間は主(あるじ)の鑑査官ではない。ましてや主の背を追うことも出し抜くことも出来はしない。
無為の極北。かのbig brotherも此処までは辿り着けまい。
思えば金銭とは一つの悲劇だ。労働に大量の時間を費やせば、たとい貧乏でもHermèsやCHANELのひとつが買えてしまうのだから。
そこから人は徐々にあやまつ。
けれども思い出してほしい。
見上げれば誰の空にも満月。
・・何か困難な問題を解決するとき、あまりにもスマートで賢いやり方というのは、少なからず誰かを傷つける。或いは、誰かの心を幾分かなおざりにする。
合理的手段というのはどうにも、がめつくてキライである。
ネックを、支障を、面倒を、障害をこそ愛したいと思う。
寄り道のさなか、曖昧なまま、涙と涙のはざま、気付かぬうちに私達がしあわせでありますように。そこに一匙のさみしさが染みついて離れませんように。
何年か前は喫煙に凝っていた。
身体という直接を介して、時間そのものを吐いたり、吸ったり、燻らせたりする。胃の辺りに付き纏う後悔や憂いさえ立ち昇る軽やかな煙。
沈鬱とジョークのあわい。
それにしても煙。生きている証が、呼吸が、眼に見える。何故これだけのことがこんなにも心安らぐのだろう。
眼前の茶の湯気に問う。
「我らには 問う神仏も すでに無し
あくがれ出づる 魂(タマ)も見えなば」
ただそこに風が吹くこと。
冬を掠める春風を受くるは、幾つもの蕾。
その蕾とは紛れもないあなたでありわたしであり、だれか。
二杯目の茶をそそぐ。
風に漂うさみしさはきっといい薫り。