見出し画像

歓待

  職場に持っていく弁当箱を、プラスチック製のタッパーから、鮮やかな赤色のものに変えた。元々私は家で食べるおかずも、ところどころ傷のついた粗末なタッパーに盛りつけていた。以前は「蓋が付いているからラップをかける必要が無くて便利だな。」ぐらいにしか思っていなかったのだが、テーブルに侘しく並ぶべこべこしたそれを見ている内に、段々と「鳥の餌を食べている気分だな…」と感じるようになっていた。ふと疑問が湧く。どうして"器"は大事なのだろう。作った料理を、いい加減な器に入れること。これは一体誰にとっての"失礼"なのだろう?料理?それとも食べる人?

  人は、TPOに合わせて慎重に衣服を選択する。職場では職場に相応しい服を、寝る時は寝るに相応しい服を選んで身に着ける。気の置けない友人と会うときも、その友人に対する自分の好意の形に沿うべく、微細な工夫を凝らす。冗談のひとつも言い合えるような仲ならば思いきり好きに着飾るだろうし、もしくは部屋着同然のファッション身を包むことで相手に対する静かな信頼を表現することもあるだろう。

  誰かと会う約束をする。何色の服を着るべきか?襟シャツのボタンをどこまで留めるか?アクセサリーはつけすぎない方が良いか?ズボンにする?スカートにする?革靴にする?自分の着る衣服のひとつひとつを微調整することで、その相手に相応しい距離感を示し、或いは相手への親愛の念を込める。そうして積み上げた誠意を自分それ自身と共に、相手へ示し届けること。自分と衣服の関係は即ち料理と器の関係にも通ずる。だから、器に拘ることも、衣服と同様、料理を目にする相手への気配りとなる。日々の器選びは、作る相手と食べる相手との関係性構築において、微かではあるが何らかの影響を及ぼし得るはずだ。

  優しい食卓の第一歩として、料理のための器を丁寧に選ぶこと。高くなくていい、料理を美味しく食べてもらうために、相手の目を、どうか視界をワクワクさせるような器を。料理を大切に扱うことが即ち、大切に扱われているところの料理を食べる相手への歓待となるのだから。

  朝早い出勤日に備えて、前日の晩に弁当を用意する。とはいえ、夕飯に炊いたご飯と残りのおかずを詰めるだけだ。自分は自分なので気を使うも何もないが、自分を歓待するつもりで、目にも鮮やかな赤い弁当箱を選んだのだ。器によって丁寧に扱われた料理は、食べる者の心をほぐす。

  「自分で自分の機嫌を取る」という表現は好きではないが、敢えて言うなら、それは単なる甘やかしではなく、自らが創意工夫を働かせることで成立するものではないだろうか。