言葉という言葉に飽きている。 というより、“言葉”という言葉に飽きている。 僕には高校時代から長く使い古してきた言葉が幾つかある。言葉、物語、喜びの共有、共同性、承認、民主主義…。そのときそのときの課題意識、流行り、気まぐれによって多分に使われ、間違いなく僕自身を構成している言葉たちだ。思い入れもある。思い出もある。 しかし、もう、これらの言葉について、あまり考えたくないのだ。彼ら“いつメン”を見飽きてしまった。言い飽きてしまった。僕自身、日々成長しているかはともかく、少な
最近朝起きて、最初に思うことは「あいつに会いたい」ばかりだ。天井をカッと見つめ、時計を確認し、瞼を緩める。そうして布団横で仰向けになっているスマホを手に取り、スクリーンの上で親指が散歩するのをただ眺める時間がくる。これが20分ほど続いて、何かが吹っ切れたとき、はじめて体を起こすことができるのだった。もう朝の日課と化している。 美術館の展示を1つ1つ慎重にじっと見つめるようにして、スーパーの中を練り歩くのが好きだ。白身魚から赤身の魚に変わり、外国産の牛肉がしばらく並んだ後、待
中学生くらいまでは、ゲームが大好きな子供だった。ゲームの中の世界観、草むらからポケモンが飛び出してくるとか、四天王といったカッコいい称号と組織があるとか、そういったものを純粋に愛していたし、愛し続けられる人間になりたかった。たぶん皆も同じで、だからゲームの話が分かる先生はいつも人気だったんだと思う。 でも、僕は現在ゲームをしない。部活とか委員会とか勉強とか、“学園”が忙しくなる中で、自然と生活の中から排除されていった。「この学校を如何に善くするか」が思想の主軸にあった僕に、
セカイ系を卒業した。 つまり、僕の悩みは世界の悩みではないし、僕にとっての正義は、僕の、僕だけの人生から導き出された、僕にのみ当てはまるものなのだと、身体の底の方で固く信じるようになってしまった。 すると、僕はもう他者と関わることに自信もやる気も持てなくなった。 ただ自分の趣向に従って、自由に生きる。 ウタをウタうように、ただイマ・ココにいる自分を満足させ続ける在り方。 日常だけが続いていく生活。 大学はそれが可能な環境だった。 授業は独り、視界に映る人間の数が一番少ない最
「僕の所属している小さな世界がキラキラしていること」そして「僕がその世界の中で”気持ちが良い奴”であること」が僕の喜びである。キラキラしているためには、勿論、その世界が”素晴らしい”言葉の往来と突然始まる悪ノリと冒険に溢れていなければならない。そぉしてぇ!外の世界に対して、傲慢すぎるほど幅を利かせていて欲しいのだ。小さな世界で繋がっている僕達が、お互いの存在をふとしたときに意識しながら、各々の得意とするフィールドをより気持ちよくさせているとする。すると、僕達はより強く共に生き
僕は妖怪なのかもしれない、と自虐めいた冗談を言っていた時期がありました。何をやっていても、ふと、それは「自分がやるべきこと」なのかを疑ってしまう、「なりたい自分」を模索してしまう。そうなると随分と不安になってきて、僕には優しい友人が何人かおりましたから、彼らをあたかも行政サービスセンターかのように、ひたすら自分の悩みをぶちまけました。それで勝手に納得したかと思えば、帰り道、ハイテンションな音楽を聴きながら全能感に酔いしれて、「明日も頑張ろう」と小さくジャンプするのです。そうや
memoみたいな文章を、noteに書き記しているとき、僕は何をしているんだろうという気分になる。あまり何が何だか分からない。僕は常々、善く生きたいと思っていて、するとメモ的にノートを使うことの是非がひどく気になってきた。少し考えてみよう。 メモ、と言われて真っ先に思い浮かぶのは、例えば電話越しに聞いたアドレスの殴り書き、お目当ての本のコード、隣の人のタイムカードを間違って切ってしまったときの謝罪文。なるほど、我々は付箋や紙切れに数秒で読み取れる情報を残したもの、をメモと
朝起きる度、昨日の自分がどうでもよくなっていることに気が付く。 どうでもよいままで、すっと思い出されるのだから、「昨日」は、知らない人たちが走ったり飛び跳ねたりしている運動場を眺めるときみたいに、網膜のずっと外側にある。 19歳になった。けれど、19年分の記憶も技能も友達の数(質?)もないのだから、僕は僕を19歳だと証明できないし、たぶん僕はずっと、せいぜい2, 3歳であり続けるのだと思う。 だから、「昨日」の自分は僕と同い年だ。遠くに住むようになった幼馴染みたいな、緊張感が
W教授 平素お世話になっております。某組の藤田です。 本日期限の課題について、期限延長の了承を得たく連絡致しました。 つい三日前、私の日頃の不摂生のせいでしょうか、発熱致しまして、翌朝まで高熱が続くものですから、近くにある病院に伺ったところ、インフルエンザ陽性であるとのこと。それから大学を休んで静養しておりましたところ、やっと今日の昼頃から体調が回復して参りまして、頭の痛みもほとんど消えてきています。最近の薬の効果覿面なること、医学研究者とその厳しき道を辿る医学生なる友人達
最近随分と薄れているけれど、「(君と)共に生きたい」という欲求を如何に満たすか、は一つ、人生の主題になる予感がしている。 高校を卒業して二か月と少し経つ。 関係性の維持、を目的化しないよう、なるべく意識の外側に追いやりながら、すなわち何となく会いたいという動機で、週に1, 2回、中高で出会った友人(高校時代の友人、にしたくないと思っている)と二人っきりでご飯に行くのが習慣化した。 大学生同士の付き合いは常に虚しさを伴う。 無制限の余暇と無制限に変態しうる自我、はもうない
友人がある。 たましいの抜けたような目をしていて、その足音を聞いた覚えがない。待ち合わせは無意識のうちに終わってしまい、しばらく言葉を交わしていると、「じゃ」の一言ですっといなくなる。 あるとき、 「君は小説みたいな人だ。」 と彼に言ったことあった。人様が書いた文章を読むときの、己の内部から響き聞こえる声みたく喋るのである。加えて“自分の吐いた言葉を後で回収する”ことを信条としているらしく、また僕自身の人生においても、彼の吐いた言葉を数年越しに思い出し、ハッとなること
手段の目的化より、目的の手段化の方が怖い。 好き、は好き、であるだけで良いのに、ドライアイス、みたいです。熱が入ると簡単に昇華してしまって、社会正義?のためにやらなきゃいけないみたいな顔をしてきます。飄々と生きる、って案外大事なことなのかも、とか思いますね。 皆さんいかがお過ごしですか。 大学デビュー、というより、アニメ『頑張って生きているつもりです。』シリーズの新シーズンといった感じで、僕は頑張って生きているつもりです。 大学、本当に面白い。 まず「この人、何のためにこ
純情たれ自分。それが最大限の自己肯定だと信じる。 純情、とは、つまり心の中で生じる、できたてホヤホヤの、鶏に先立つ卵だと確信する言葉、に素直であること。それをなるべく傷つかないまま、新鮮なまま、口から吐き出して、空気にフワりと漂ったら、隣にいる君が音もなく丸呑みしてくれる、ような会話を愛している。 僕はこれを、静を基調とする会話、と名付けた。 お互いが、ビームみたいに、自分自身だと思うもの全てを、過去の思考の蓄積やホットなエピソードを打ち合って尽きたあと、にしか生まれない沈
僕は、少し変わった人が好きです。 その人がその場に現れた途端コロコロと振動する空気、に敏感なのでしょう。その人にしか持ちえない特有のイントネーション、口癖、昆虫的な繊細さを伴う身振り、相槌、…浅短な自分には分析しきれない無数の異物に魅了されやすい性格なようです。 つまり、その人がその人である、という最も簡潔で、僕にとっては何よりも自然な理由で、気づくとその人の背中を追いかけているのでした。 僕の、この傾向が一番強かったのは、恐らく中学生の頃だったと思われます。 開成
MY へ, ハッピーバースデー。 と書いている僕は君の存在を証明できない。 猫をカゴに閉じ込めなくたって, 1つ壁の向こう, ノートに必死な君はいつだってシュレディンガー。 ドアについてる小窓から,ギリギリ見えない座席, にちょうど君が座ってる, という僕の想像。 今日どこかで話せたら良いなって呟いて,廊下をずんずん闊歩した。 なんだか僕は,いつも君を信じてる。 改めまして。 シュレディンガーのMY へ, ハッピーバースデー。 アイラブユー。 生まれてきてくれてありがとう
生きなさいとだけ体で表して愛してはくれないホームドア 手を広げ死ぬなだなんて言う君に飛び込めないよ駅のホームで こんなにも大好きなのに僕のものにならないものと会話している もう愛はきもいと言い捨てて君とセックスをする勇気がほしい