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ひとり旅と子連れ旅、そしてその先の旅のかたち

好奇心の赴くままに、
好きなことを好きなときに好きなだけ、
わたしはいつだって自由なのだ!と豪語して、
とことん自分のペースで歩ける旅が好きだった。

学生時代はよく、ひとりで海外に行った。
専攻の関係もあって
ヨーロッパの美術館や博物館、
遺跡や建築をめぐり、
オペラやコンサートにかぶれて、
芸術家や文化人の足跡をたどるあまり、
花の都パリで一日墓地めぐりをしたこともあった。

ブランドものにさほど興味もなく、
ショッピングやグルメもそこそこに、
恋人や友人と一緒に行くことがあっても
現地では自由行動、
旅はひとりが一番!と思っていた。

当時は、スマホもSNSもなく、
紙の地図をにぎりしめて動きまわり、
ときにうまく移動できず途方に暮れては、
泣き出しそうな気持ちを抑えて
知らない街で夜を過ごすこともあった。

日が暮れてゆくなか、よく知らない街の、
言葉も通じないような場所でひとりの心細さは
今でも忘れない感覚で、
けれどもその孤独に向き合ったとき、
まるで眠っていた本能が研ぎ澄まされていくように、
わたしの旅への感受性は強まっていく。
そんな瞬間がどうしようもなく好きだった。

働きはじめてからも、
自由気ままな旅を好んでいたわたしが
ひとり旅の終焉を余儀なくされたのは、
出産して子どもを持ってからだった。
お母さんになることと引き換えに、
もう、自由に旅ができる時間は終わったのだと悟った。

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子ども連れの旅はあまりにもそれまでと勝手がちがった。
持ち物が増え、移動手段を吟味し、
滞在スタイルを変え、トラブル想定をし、
予定を詰め込みすぎず、
まわりの迷惑にならないよう、
行き先も行動範囲も狭まった。
ひとことで言えば、不自由。

それでも、
旅先で息子が笑ってくれればそれで良かった。
たとえ小さい息子の記憶に残らなくたって、
わたしたち夫婦が、その旅での息子の様子を覚えていれば、それで充分。
いつか息子が巣立ったときに、
旅の思い出話を肴にして、
夫婦でお酒を酌み交わせれば良いと思った。

観光はせずに滞在型のリゾートで一日ゆっくり過ごすことも、
それまで興味のなかったマリンスポーツやハイキングといったアクティビティも、
タクシーではなくメトロやトラムで移動することも、
動物や自然とのふれあいも、
クルーズ旅行も、キャンプも、
全部、息子がいたから広がった世界だった。

旅はひとりに限る!
そう思っていた時期が確かにあったのに、
もはやその信条は自分のものではなかったように風化した。
それくらい、この10年で、
わたしの旅のとなりには家族がいることが当たり前となっていた。

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子どもが10歳になって、
わたしはまた、近い将来
ひとり旅をする自分の姿が見える。

もうそこに、繋いだ小さな手はない。
肩にもたれかかった身体の重みと温かさも、
大きなスーツケースを懸命に両手で押す影も、
急なトイレに慌てることも、ない。

わたしはこれに耐えられるだろうか。
空いた左手が寂しくて、
夕暮れの孤独に慣れるまでは、
もしかしたら
夫とふたり旅するのも、良いかもしれない。

” 私はかつて自由で気軽で、それを充分味わって、それでだれかといっしょにいることを選んだ。遅くなるときは相手に断り、帰れないときは相手に気兼ねし、たったひとりで遠くへいくことのできない、そんな不自由を選んだのだった。誕生日をひとりで過ごしてもへっちゃらな自由ではなく、祝ってもらえないことに腹をたてる、そんな不自由を。”
(『ふたり』角田光代/『私らしく、あの場所へ』角田光代、大道珠貴、谷村志穂、野中柊、有𠮷玉青、島本理生/講談社/2009)

#旅とわたし #子連れ海外 #ひとり旅

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