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月と陽のあいだに 174

波濤の章

キタイの翁(3)

「さあ、組み立て作業をお見せしましょう」
微笑ましいやり取りを見ていたヤズドが、組み立て場の扉を開いた。
 着任直後に見た時に工事中だった建物は完成して、部品の組み立てが始まっていた。
 長い腕の先に大きな滑車をつけた吊り上げ機が何台も並び、巻き上げられる綱の先には、さまざまな形に組まれた船の部品がゆっくり動いていた。釘を打ち付ける金槌の音、作業を指示する監督の声が、高い天井にこだました。
 設計図通りに切られた木材は、別の組み立て場で小さなまとまりごとに組み立てられる。そうして出来た船の部材が、最後にこの組み立て場に集められて、船の形に組み上げられていく。作業はまだ始まったばかりで船の形には遠かったが、それでもこの木材がやがて大海原に浮かぶのだと思うと、白玲の胸は高鳴った。

「この船が白い帆をあげて、氷海の荒波を越える姿が目に浮かぶようだ」
後ろから懐かしい声がして振り返ると、ネイサンが立っていた。ネイサンはヤズドに遅刻を詫びて、二人の航海士にも流暢なキタイ語で挨拶した。
 ネイサンとヤズドを先頭にした一行は、組み立て場を回った後、会議室に移って設計図を囲んだ。作業の進行に伴って発生する技術的な問題や、追加の費用について話し合うためだ。できる限り予習をしてきた白玲だったが、キタイの造船技術はずっと進んでいて、わからないことが多かった。それでも将来のいつか、外洋に航路を拓くときにはこの知識が役に立つかもしれない。門外漢の自分をこの場に招いてくれたヤズドの配慮が、ありがたかった。

 会議室を出た白玲が、思わず伸びをしたのを目ざとく見つけた人がいた。慌てて姿勢を正すと、かまわないさと笑われた。
「知らない大人に混じって、難しい船の話を聞いたんだ。伸びのひとつもしたくなるだろう」
私だって大人です、と口を尖らせる白玲に、ネイサンが笑った。
「ヤズド殿がそなたをここに呼んだのは、そなたの好奇心を満足させるためではない。氷海航路を開発するときには働いてもらおうという計算あってのことだ。きっとこき使われるから、覚悟しておきなさい。それに、今日ここでキタイの航海士と面識を得たことは、そなたにとって大切な宝になるはずだ」
白玲は深く頷いた。

 今日の視察の一行の中で、もっとも高位にあるのはネイサンだから、皆が敬意を払うのはわかる。だがヤズドはそれ以上に丁寧な応対をしているように見えた。怪訝そうな白玲に、ヤズドがささやいた。
「ネイサン閣下は、この事業の最大の出資者なのですよ」
なるほど、お金の力は侮れない。白玲が頷くと後で声がした。
「どこかのとんでもない家出娘を保護してくださったお礼だよ。私は元来、義理堅い性格でね」
ギョッとして振り向くと、ネイサンが人の悪い笑顔を浮かべて立っていた。
「その家出殿下のおかげで、私たちは閣下から多額の資金を提供していただくことができました。もちろん、事業が軌道に乗れば相応の利益をお渡しいたしますが、家出殿下が私の前に現れてくださったのは、神様の計らいだったと信じておりますよ」
ヤズドが言うと、白玲は返す言葉もなく、ただ二人に頭を下げた。

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