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月と陽のあいだに 171

波濤の章

アンザリ領

 カナンガンはルーン川の河口に位置し、河川水運と同時に氷海沿岸の漁業の拠点になっていた。川岸に沿って、大きな倉庫や水産物の加工場が並び、その中でも一際目を引く建物が、白玲たちが目指す造船所だった。

 造船所の敷地に入った白玲は、積み上げられた木材を見て、思わずため息をついてしまった。水に浮かぶ大型船が、どこにもなかったからだ。
「試作船は完成しましたが、本当に造りたい船は、それよりずっと大きい。船より先に、造船所を造らなければならないのですよ」
 後ろから聞き覚えのある声がして、白玲が振り返ると、ヤズドが笑って立っていた。
「ご案内しましょう」
ヤズドは造船所の経営者の一人だった。思わず頭を下げかけた白玲を押しとどめ、丁寧に挨拶すると、ヤズドは歩みを進めた。

 柵に囲まれた広い敷地に大きな建物が並び、その間を資材を運搬する馬車が行き交う。川に沿った岸壁には、木材を吊り上げる巨大な滑車がいくつも並んでいた。
 一番大きな建物が船の組み立て工場で、河岸の水門を開くと、工場の内部に水を引き入れることができる。船が完成したら水門を開き、船渠で進水式を行うのだ。

「今は、作業に使う大きな滑車と吊り上げ機を作っているところです」
 ヤズドに続いて、白玲とオッサム、護衛のトーランが工場の中へ入った。天上の高い建物の中には、人夫たちのかけ声や槌の音が響き、外の寒さを忘れるような熱気が溢れている。
「夏の初めには準備が整って、大型船の建造が始まる予定です。お二人の赴任期間のうちに、進水式ができるよう頑張りましょう」
 ヤズドは楽しそうに笑った。

 カナンガンを後にした白玲たちは、カナンへの帰路についた。
 途中の小さな町や村に立ち寄って、船着場の様子や人々の暮らし向きを訪ねて歩き、カナンへ戻ったのは五日ほど後のことだった。皇衙へ帰還の報告を済ませた三人は、アルシーの待つ宿舎へ急いだ。

 カナン皇衙へ赴任した新人官吏は、皇衙が用意した宿舎で共同生活をするのが慣例になっていた。三階建の宿舎は、一階に食堂を兼ねた居間と台所、風呂場と手洗い、二階と三階に二つずつ個室があった。白玲は、アルシーと護衛のトーランと一緒に、この宿舎で暮らすことになっていた。
「お姫様と同居なんかできるか」
最初は拒んでいたオッサムも、料理や掃除を一人でするより四人で手分けした方が効率的だと考えたのか、余った部屋に住むことになった。

 冷たい外の風をまとって戻った三人を、アルシーは温かいお茶で迎えてくれた。
 両手で包み込んだ茶器の温かさが、冷えた指先にじんと沁みた。やがて生気を取り戻した三人は、アルシーにお土産を渡すと、旅の間の出来事を話し始めた。北の暮らしの驚きや造船所の様子。トーランは、白玲とオッサムが内緒にしていた失敗談を話して、笑いを誘った。最初は眉間にシワを寄せていたオッサムも、最後には一緒に笑って、ようやく打ち解けた。

 アルシーは三人の留守中にカナンの街を歩き回って、市場や手頃な商店を見つけていた。そして夕食に、鶏肉と干しあんずの煮込みと冬野菜のあえ物を作ってくれた。旅先でも珍しい料理を食べたが、アルシーの心づくしの料理は何より美味しかった。オッサムとトーランが遠慮なくおかわりしたので、鍋はたちまち空になった。
「すごく久しぶりに家庭料理を食べた気がして、ユイルハイの母を思い出しました」
満腹になったトーランがしみじみつぶやいた。
「今日は特別よ。明日からは、お当番が作ってね」
アルシーはほんのり頬を染めながらも、クギを刺すことは忘れなかった。

 夜中に歩くなとか、居間に私物を置くなとか、小さないざこざはあるものの、四人の共同生活はおおむね順調に過ぎた。その中で一番大きな問題は、トーランの料理だった。
 軍に入隊した兵士は、みな食事当番を経験したはずなのだが、トーランの作る料理は正直まずかった。最初は、失敗したのだろうと黙って食べていた白玲たちも、二度三度と続くうちに、トーランは料理の才能がないのだと悟った。
 四度目の当番の時、とうとう我慢できなくなった白玲が口を開いた。
「悪いけど、トーランは食事当番から外れてくれる?」
 言われたトーランは驚いたようにまばたきしたが、「いいんですか?」と聞き返した。そしてアルシーとオッサムの心配をよそに、満面の笑みを浮かべて言った。
「実は私は料理が苦手で、連隊にいた頃は同期の仲間に当番を交代してもらっていたんんです。料理をしなくていいなら、皿洗いでもなんでもします」
 それならあなたは皿洗いね、と白玲が即答し、この一件は落着となった。

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