見出し画像

月と陽のあいだに 198

流転の章

巡察使

 白玲が婚礼の準備に追われていた頃、輝陽国の暁光山宮では、岳俊が陽淵の呼び出しを受けていた。白玲が去った後、岳俊は神官を辞して陽淵に仕えていた。
「お前に行ってもらいたいところがある」
陽淵は、執務室の窓から北の山脈を見つめていた。
「暗紫山脈を越えるのですね」
岳俊が確認すると、陽淵は黙って頷いた。

 大神殿では岳俊と白玲は大巫女付きの神職として、よく顔を合わせたし話もした。婆様の葬儀で帰郷するまで、白玲が月蛾国へ渡るそぶりは少しもなかった。だから白玲失踪の知らせを聞いた時、岳俊は不意打ちを喰らった気分になったが、意外だとは思わなかった。
 蒼海学舎を去るとき、岳俊は陽淵のもとで働かないかと誘われた。けれども同じように学んでいても、女性である白玲には巫女として生きるしか道がなかった。
 もしも月蛾国で違う人生を選べるとしたら……。白玲なら、暗紫山脈を越えるかもしれないと思った。

 ここ数年で、暁光山宮と南湖太守との確執は一層深まっていた。湖州の安定を理由にして、南湖太守は皇帝の帰還命令を拒否し続けた。
 そんな太守に圧力をかけるため、暁光山宮は湖州に巡察使を派遣した。
 表向きは産業や治安に関する定期的な査察だが、湖州巡察使の役割はそれだけではなかった。

 南湖太守が月蛾国との貿易で私腹を肥やしていることなど、皇帝側はとうに把握していた。それでも黙認してきたのは、太守が先帝の実弟であり、横領した利益を湖州の振興のために使っていることがわかっていたからだ。だが、暁光山宮からの締め付けが厳しくなるにつれて、その使途は民のためから己の保身へと変わっていった。
 今回の巡察は、もうこれ以上は黙認しないという皇帝の意思表示であり、太守に揺さぶりをかけて、皇帝側に有利な時期に謀反を起こさせるための下準備でもあった。

「やることは山積みだな」
 陽淵が独りごちた。
 二十年以上の湖州統治で、太守は子飼いの戦力を育ててきた。その力は皇帝といえども侮れず、湖州を包囲する軍事拠点を作り上げるには、もう少し時間がかかる。他州からの援軍が期待できないから、太守は挙兵したら一直線に貴州府を目指すだろう。太守の軍勢が州境を越える前に、何としても撃破しなければならない。
 さらに月蛾国からの武器や援軍が入らないように、月帝にナーリハイ辺境伯を釘付けにしてもらわなければ……。
「白玲に借りを返してもらう時がきたようだ」
陽淵のつぶやきに、副官の凌慶雅が岳俊を呼んだのだった。

「旅芸人の一座に紛れて月蛾国へ向かい、白玲に私の親書を届けるのだ」
黙礼する岳俊に、陽淵は重ねて命じた。
「どんな手を使っても、白玲に直接会って、腹を割って話してこい。互いの国の内紛には干渉しないという了解が取れるよう、白玲を足がかりにするのだ」
 岳俊は、震える手を握りしめた。いくら白玲と面識があるといっても、課された役目はあまりに重い。
「できるだけのことは、してまいります」
 岳俊の声は、掠れていた。
「雪が降る前に、山を越えよ。必ず生きて役目を果たせ」
岳俊は深く一礼すると、足音も立てずに退出した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?