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月と陽のあいだに 173

波濤の章

キタイの翁(2)

 四月も半ばを過ぎて雪解けが進むと、白玲とオッサムは農村の視察を始めた。
 温暖な輝陽国の農村で育った白玲にとって、アンザリ領の農村の厳しさは、想像を超えたものだった。ルーン川の沖積平野に広がる農地は平坦だが、寒さのために米はほとんど収穫できず、麦や雑穀、芋類が主な作物だった。度重なる冷害に備えるために、皇衙の技官が寒さに強い作物の栽培を勧めたが、その成果は全ての領地には届いておらず、カナンから遠ざかるほど貧しい農村が増えた。
「同じ月蛾国くにでも、こんなに違うんだな」
 オッサムは、自分の故郷との違いに戸惑いを隠さなかった。
 白玲たちは、内陸の農村の後に、氷海沿岸の小さな漁村も回った。
「私は、氷海沿岸にもっと港が必要だと思うんだけど、こんなに寒いと食糧の確保が難しいわ。寒さに耐える作物とその栽培方法を確立しないと、大きな港も町も作れないし、海防にも影響があるってよくわかった」
 これらの漁村では美味しい魚も貝もとれるが、一年の半分を氷に閉ざされる海を前にして、人々は貧しい暮らしを強いられていた。それでも村人たちはたくましく、はるばる訪れた白玲たちを親切にもてなしてくれた。
 この人たちの暮らしが少しでも豊かになるように、一つずつできることをしよう。カナンへ戻った白玲は報告書をまとめると、先輩官吏や技官とともに、新しい農業のやり方を模索し始めた。

 そんな白玲に、キタイ語を使う機会がめぐってきた。カナンガンの造船所から、組立て工場の工事が終わり、いよいよ船の建造が始まったという知らせが来たのだ。
「ヤズド殿が、白玲にぜひ見せたいそうだ。行ってきなさい」
 領事に言われて、白玲は踊りださんばかりに喜んだ。
 造船所に着くと、迎えに出たヤズドの後ろに、見慣れない男が二人立っていた。頬の入れ墨に気がついて、白玲はキタイ語で「初めまして」と声をかけた。するとそれまで厳しい目をしていた男たちが一瞬目を丸くして、たちまち笑顔になった。
「お二人はキタイの航海士です。この国に漂着して五年近く経ちますから、月蛾語もお上手です」
通訳はキタイの翁の息子だった。片言で自己紹介する白玲に声をかけてきた。
「キタイ語を習いに通っている女の子のことは、親父から聞いています。ずいぶん上達されましたね」
白玲は、キタイの言葉は難しいですと、顔を赤らめた。そして後ろに控えたトーランを呼んだ。
 トーランが、翁に教わったキタイ流の挨拶をすると、男たちは嬉しそうに肩をたたいた。「もっと言葉を教えるから、今度一緒に食事をしよう」とキタイ語で話しかけられて、白玲とトーランは舞い上がった。「喜んで」とキタイ語で答えると、男たちは大きな手で握手してくれた。

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