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月と陽のあいだに 219

落葉の章

追憶(3)

 夏の盛りの華やかさもないまま、月蛾国は秋を迎えようとしていた。

 ネイサンの書斎へ入った日から、白玲はようやく外へ出られるようになり、少しずつ元気を取り戻していった。ずっと薬湯と粥ばかり口にしていた白玲が、好物を食べたいと言った時には、邸中が生き返ったように動き出した。

 長く閉ざされていたネイサン邸の門が開かれると、思いがけない弔問客が訪れた。
 皇后だった。簡素な黒い衣に身を包み、侍女も護衛もほんの数人。かつての皇后を知るものには、驚くばかりの変わりようだった。
「もっと早くに訪ねたかった。けれども、陛下に止められていてね。
 オラフをそなたに引き合わせたのは、私。このようなことになるとは思いもしなかったけれど、だからといって、責任がないわけではない」
 皇后はそう言って、ネイサンの遺骨を祀った祭壇の前に深く首を垂れた。
「私は皇宮を去ることになった。皇家に余計な波風を立てぬため、陛下は皇后位の返上をお認めくださらなかった。その代わり皇宮を出て、神殿付属の孤児院と救貧院で過ごすことになった」
 皇后は、明日にも皇宮を出るという。

 皇后は、一人息子のアイハルを皇位に就けたかった。それが無理なら、せめてしっかりとした後ろ盾のある令嬢を娶らせ、思う存分政務に腕を奮えるようにしてやりたかった。しかし、そんな親心はアイハルには届かず、アイハルは異国へ旅立ち殺された。しかも、己を殺した国の農民と結ばれて子まで成していた。
 愛する息子の血を継ぐものであっても、皇后は白玲を受け容れることができなかった。白玲を見るたび、息子への愛情と無念が、何度も込み上げた。この子に罪はないと頭ではわかっていても、湧き上がる憎悪を止められない自分に苛立った。
「皇后府では、そなたを深く傷つけた。そのことも詫びたい。今さら詫びても、許されるものではないけれど……」

 たとえ位は残っていても、皇宮を出れば会うことさえままならない。
「ネイサンがそなたを庇って命を落としたことで、そなたは自分を責めているのだろう。けれども、そなたが何を悔いているにせよ、もう自分を責めるのおやめ。
 責めは私が負えば良い。ネイサンは、そなたを守れて良かったと思っているに違いない。だから、よく養生して早く元気におなり。そして今度は、そなたが陛下をお支えしておくれ」

「おばあさま……」
 白玲は小さな声で呼びかけた。わだかまりが解けたわけではないけれど、去りゆく人に恨み言はない。
 皇后は白玲をそっと抱きしめると、ネイサン邸を後にした。

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