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血脈の記憶がまた一つ消えた

今日、東京では桜の開花が宣言された。
その「宣言」を聞くこともなく、父方の伯母が亡くなった。

90歳を超えてもしっかりとして、家族に囲まれて暮らした人だった。
大往生なのだろう。
「もっと話を聞けばよかった」
伯母自身の人生と、伯母の父である私の祖父のことについて。

祖父は私が大学生の時に亡くなった。
寡黙な人だったから、自分のことはほとんど語らなかった。

田舎町で生まれた祖父は、小さなタクシー屋を営みながら親と妻子を養った。
戦争では2回召集され、満州から、そしてインパールから、命からがら戻ってきた。
ぽつりぽつりと話してくれた祖父の人生の断片。
それ以上を聞くことも無く、祖父は逝ってしまった。

父は祖父の話を聞いていない。
だから祖父のことを一番知っていたのは、伯母だった。
10年くらい前だろうか、祖父のことを知りたくて、祖父の戸籍や戦歴を調べた。
その時から、いつか伯母に話を聞こうと思っていたのに。

伯母は、幼い私のことを可愛がってくれていた。
けれども成長した私は、ずいぶん偏った見方で伯母を見ていたように思う。
伯母の目から見た私たち家族のことも、本当は知っておくべきだったのだ。

身内の距離感は難しい。
近しいだけに問題も起きやすく、冷静に客観的に向い合うのは難しい。
淡々と話をしたいのに、利害やら体裁やら、色々なものが邪魔をする。
そうして一日延ばしにするうちに、命はあっけなく失われてしまうのだ。

伯母の記憶は、彼女自身の人生と両親や祖父母から受け継いだ先祖の記憶。
それを聞いて次の世代に受け継ぐのは、同じ血をもつ者の役割だったのではないか。

伯母が亡くなり、その記憶も失われた。
それは、たった1冊しかない書物が永遠に読めなくなってしまったようなもの。
だからこそ。
急げ、急げ。
読むべき書物は、まだあるのだから。
もうすぐ失われる書物が、目の前にあるうちに。

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