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月と陽のあいだに 177

波濤の章

演習船(3)

 船旅はおおむね順調だった。順調でないのは白玲とトーランで、ご多聞にもれず船酔いに苦しんだ。穏やかだとは言っても、沖の波はそれなりに大きいから、足元は四六時中揺れている。二人は交代で厠に駆け込んでは、胃の中が空っぽになるまで吐き続けた。
 甲板から水晶島が見える頃になって、ようやく船酔いを克服したが、その時には頬がげっそりとこけて、「これで視察ができるのか」と船員たちの心配そうな視線を浴びたのだった。

 氷海に浮かぶ水晶島は、古くからアザラシ猟の基地で、外洋で漁をする船の寄港地になっている。島の周囲の海岸は、荒波に削られて切り立った崖が続いているが、南西に開いた小さな湾が天然の良港になっていた。
 わずかな平地から崖に刻まれた階段を上がると、平坦な丘陵に小さな村がある。寒さと強風で作物の栽培は難しく、村の周囲に広がる畑には、ソバの新芽が遅い春の光を浴びて揺れていた。
「ここは北の守りの要になる。島の東を流れる海流に乗れば、輝陽国まで一気に南下することができるし、風待ちの港にもなる。この港を拡張して、守備隊を置きたい」
 白玲はそう言うと、島の地形や気候を事細かに調べた。
 今はわずかな村人だけが冬を越しているが、守備隊が常駐するようになれば、水も食料も燃料も必要だ。それをどうやって調達するかは、航路開発の一番重要な問題だった。

 難題を抱えながらも、白玲の好奇心は衰えることがなかった。島のあちこちに出かけては、珍しい鳥や植物を見つけると、大急ぎでその姿を描き写した。キタイの航海士の絵を見慣れたトーランには物足りない出来栄えだったが、白玲は気にしなかった。
 毎日、船に戻ると自室にこもって、細かい字で丹念に記録を書き続けた。そしてそれを小さな樽に入れて、しっかりとフタをした。
「いちいち樽に入れるのは、面倒ではありませんか?」
トーランがたずねると、お守りみたいなものよ、と白玲が笑った。
「絶対にあって欲しくないけれど、もしも海に投げ出されることがあっても、この樽が流れつけば、私の調べたことが誰かの目に届くかもしれない。そうすれば、苦労して記録したことも無駄にならないでしょう?」
 まあそうですが、と言いかけたトーランに、白玲はこの船は大丈夫と笑った。

 数日の滞在の後、水晶島を出発した船は、大きな帆を巧みに操り、向かい風を推力に変えながらバンダル領の沿岸を目指した。
 ルーン川の河口より東側の海岸は山が海に迫り、荒波に侵食された崖が続く険しい地形だった。
 それでも、ところどころ崖の切れ目に深い入江があって、比較的大きな入江は白玲の乗った演習船が接岸できるくらい良い港になっていた。

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