noteを始める

最近、本を読むことにはまっている。積極的に本を読む時間を取ろうとしている、と言った方が正確かもしれない。

きっかけは、1年ほど前にした転職だった。新しい仕事は、本や出版に、ほんの少し関わる仕事だ。もともと、私は本や出版、文章、表現、その他それらに関連するあらゆる営みに興味があり、好きだった。だが、自分のそのような興味や関心を仕事にすることについては、自分の選択肢から無意識のうちに外していた。
だが、機運が熟したのだと思う、唐突にすべての準備が整い、少しだけ踏ん張って転職活動をした結果、いつの間にか私は自分の興味のある分野を仕事とする人間になっていた。私は今の仕事をとても気に入っている。

新しい仕事のおかげで、私は今までよりもっと本や文章との距離が近くなった。仕事中にもさまざまな形でさまざまな種類のテキストと対面するが、その延長で、自分の自由な時間にも自分の好きなものや興味のあることに関する文章を読みたい、と思うようになった。また、転職することで、単純に自由な時間が増えていた。長めの通勤時間は集中して本を読むのに適しているし、在宅で仕事をする際は空き時間に本を読み、読み終わったら本棚に本を戻して、別の本を選ぶ余裕すらある。

私が今興味を持っているのは、大きい枠で括ると、哲学、生物学、詩歌だ。
大学で、最終的に私が興味を持ったのは西洋哲学だった。卒業論文は、ヒュームのイギリス経験論について書いた。ゼミにはデカルト、ヘーゲル、フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティなどの研究生がいた。在学中はどうにも興味を持つことができなかった大陸系の哲学だが、今読んでみると面白い。他の学生がゼミで発表していた内容が断片的に残っているのを呼び起こしながら、また、自分が興味を持って読んだイギリス哲学との違い、繋がりを意識しながら読み進めていくとワクワクする。
また、時代が新しくなるにつれて、哲学分野と生物学分野が近づき、同じ地平で語られてくるようになるのも面白い。最近はそのような本に多くめぐり合うことができ、興味を惹かれる。ダーウィンの進化論以降の哲学にあたるのだろうか。高校生の時、生物の先生が何気なく仰った「生物の分野と哲学の分野は、実は繋がっているんですよ」という言葉の意味が、今になってわかってきつつある。昆虫の複眼の話をしていただろうか。黒板には、横から見た人間の眼球の図が書かれていたような気がする。その時、私は初めて「見る」ということが単純な動作ではないことを知り、「見る」という行為には「像を結ぶ」という別の動作が伴うことを知った。卒業論文で取り上げたヒュームは、人間の知覚を印象と観念に分け、そこから時間や空間まで論じた哲学者だった。私の興味はずっと変わっていない。

また、詩歌が好きなのは、ことばというのものが好きだからだ。表象としてのことば、記号としてのことばが好きだし、ことばに付随するイメージのことも好きだ。ことばにイメージを持ってしまう人間の認識の動きも好きだし、その動きを利用して、ことばが人間にある種のイメージを持たせてしまうのも面白い。ことばのもつ力と、それを利用する人間が好きなのだと思う。ことばと人間の相互関係が表象する場所としての詩歌が好きなのかもしれない。ただ、これに関してはいまだ検討中だ(関連するだろうと見当をつけているジャンルがある。いつか、機会を見つけて書籍を読みたい)。

人間が自分のもつ考えやイメージを共有するためにことばを利用する場所として、SNSやブログも好きだ。他者の校閲を通さない、うまれたてのことばが生のまま溢れている場所のことも好ましく思う。
だから、noteという場も、自分に合っているのではないかと思っている。noteを始める際、noteは「街」のようなサービスだという文言があった。私はこの、誰にでも開かれている感じが好きだと思った。街の中を散策するようにランダムで新しい記事に出会ったり、気になった書籍名やキーワードで検索をかけて、気に入った記事を見つけたり、自分の気に入った、興味の惹かれる記事を書く人を見つけてフォローしたり……さまざまな経路から、さまざまなきっかけで欲しいと思った情報をキャッチできるのではないか、という期待をしている。

私も自分のメモの代わりに、あるいは頭の中で膨らんでいくさまざまな考え事の避難スペースとして、noteを使っていくことができたらいいなと思っている。これからよろしくお願いします。

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