自分の内面に潜るとおかしくなる

相変わらず小説を書いている。〆切は明日の24時。本当の〆切は明後日なのだが予定があるので空けておきたい。それにデータに不備があった場合の予備日が必要だ。月曜日は出社だから印刷所から連絡をもらったとしてもすぐに対応することができない。選択可能な一番遅い〆切を選んでいるし、ページ数も部数もまあまあ多いのですぐに修正データが送られて来ないのは印刷所も困るだろう。できるだけ余裕を持って入稿したい。私も早く解放されたい。

今日も出勤の時間を使い、ルビをつけるべきところについているか、一字下げがちゃんと反映されているかなど仮作成PDFを見ながらチェックをするつもりだったのだが、電車の中でデータを開いた瞬間に気分が悪くなってしまった。逃げ場がないように読みかけの本なども持ってきていなかったため、ただ気分の悪い私を引き連れて1時間の移動をするだけの無駄な時間が発生したというわけだ。そこでこの弱音のようなnoteを書いている。

小説を書きながら思うことは、少なくとも、「数年前に自分が書いた文章と長期間向き合うのは体に良くない」ということだ。具体的には4〜5年前の文章なのだが、言ってしまえば、4〜5年前に自分が書いた物語や根底に流れる考え方、問題の解決方法など、何も変わっちゃいない。自分は大学生から社会人になり、転職もしたし恋愛もしたし、いろんな人や作品と関わることで何か自分の中の根幹みたいなものが変わったのではないかと思ったが別にそんなことはない。大学生の時に感じていた鬱屈とした気分、外界や他人に対するうっすらとした嫌悪感など、読めば読むほど今の自分が感じているものと重なって共鳴する。私は個人的に社会に出て楽になった。自分のことを考えなくて済むから。他人と関わる機会は増えたけど、そんなに深く関わらなくていいから。他人と関わる機会の分だけ自分のことを考えずに済むから。私は気を紛らわしながら生きている。もしかしたら私は神経質なんじゃないかと思い始めた。緊張すると体調が悪くなる。ちょっとの不安で気分が悪くなる。だから不安についてあまり深く考えないようにするために解決に走ったり、それが難しい時は自分の外側に興味のあるものを探してそれについて考えたりする。自分の内面に潜れば潜るほど気分が重くなってくる。今は作業としてそれをやっている。人と遊びたいけど自分のために予定を空けてもらっている。すでに決まっていた予定をなしにしてもらったこともある。絵を描くことは控えている。最近アニメも見ていない。本も読んでいない。とにかく〆切までに原稿を最高の状態にできるように、時間を確保している。本当に苦痛で、なんなら土曜日の入稿後にもイベント用のお品書きを作ったり準備をしたりするために作業が待っている。それは少し楽しみ。だけど十分な時間はない。すべてをギリギリのスケジュールでやっている。Twitterには気を紛らわせるためのいろんな情報が流れていて、毎週更新される漫画も楽しみにしている。だけどそれ以外の時間のすべてを原稿をやらなくちゃいけないという義務感に駆られながら過ごしている。何月から? 秋には作業を始めていたので、もう半年経つんじゃないか。

それでも小説は小説として、せっかく紙にするのだからいいものに仕上げたい。「いいものを作りたい」と思う気持ちがあるからこんなにもこだわっているのだと思う。いいものを作りたいと思う気持ちは尽きることを知らない。430ページの小説はやろうと思えばどこまででもよくすることができる。体裁のミスをなくす。誤字をなくす。表記ゆれを統一する。日本語を読みやすくする。全体の整合性をとる。足りないところは補足する。全体の流れを整える。いくらでもできる。そして楽しい。だけど終わりがなくて苦しいし、中途半端に始めると全体に反映させないといけないから時間がかかる。見切りをつけないといけない。諦めないといけない。だけど自分で自分を許せるくらいには整えたい。だけどやってもやっても自分を許せない。入稿はとうとう明日の24時。解放されるわけではなく、そこに至ったらもう足掻くなということだ。それまでは足掻いてしまう。だっていいものを作りたいから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?