物を書くことのモチベーション

ここ数ヶ月、創作小説を書いている。5月にCOMITIA(コミティア)というイベントがあり、そこにサークル参加をするつもりでいる。ずいぶん前に決意し、準備を進めているはずなのだが、はっきり言って進捗は良くない。平日は仕事があるため小説を書くだけの体力が残っていないし、休日も溜まった家事を片付けていると一日の半分くらいが終わっている。まとまった時間がある日は休憩を挟みながらできるだけ原稿に向かうようにしているが、それでも一日に1万字も進められることはなく、1,000文字とか、多くても5,000文字くらいの文章を見るのが限界だ。私が行っているのは、数年前、私が大学生の頃に書き、WEBで公開していた創作小説の改稿作業である。すでに公開し、完結までしている小説なのだから、脱字チェックさえすれば製本を進めてもいいと思われているかもしれないが、やはり数年前の文章、それもとにかく「リアルタイムで更新し」「完結させる」ことを目的に書き連ねていた文章であるため、表現が荒く、不要なパートも多く、説明が足りない部分は補わなければいけなかったりして、「整える」ことにかなりの時間を必要とする。別にすばらしいものを作りたいとか、より良くしたいとかでこだわっているわけではなく、人様に見せることのできる最低ラインまで持っていこうとするだけでこれくらいの手間暇がかかる。逆に言えば、この作業が終わるまで、この文章は「製本してはいけない」と思っている。この作業はこの文章が本となって外に出ていくための、最低限の身支度だと思っている。もし5月のイベントまでにこの身支度が終わらないようなら、イベントへの参加を先送りにしてもいいと思っている。それほどに、気になるポイントが多すぎる。と同時に、今自分は自分の向き合っている原稿に対して、「ちゃんとした状態で世に送り出したい」と願っているのだなと思う。改稿作業は全然進まず、自分の過去に書いた文章を読み直し、表現をチェックしていくのはとにかく時間がかかるが、苦しいとか、疲れるだとかのマイナスな感情は一切芽生えない。目の前の文章と向き合って、自分の頭の中に見えている光景と照らし合わせること。また、頭の中に映されているスクリーンの電源を切り、文章だけを読んだときに、同じ光景を頭の中で思い浮かべられるかどうか、吟味すること。頭の中にあるイメージと体の外側へ出された表現を交互に見つめながら、本当にこの光景が、そこから滲む心象が、他者にも伝わるか考えること。静かな作業だが、この作業は好きだ。私が見つめた後に、かつての状態と比較して少しは形を整えられた文章たちが積もっていくのが嬉しい。もっと読みやすくてわかりやすい文章になったのではないだろうかと思えると、心地よい達成感に包まれる。

この小説は、私が大学生の頃にWEBで公開していた小説だと書いた。確か、大学3年生くらいのころに、本編となるストーリーを考えた。しかし、そこに出てくる人物たちはもっと前から存在しており、彼らのエピソードは「小話」として、高校時代の文芸部誌に載せたりしていた。また、「小話」の元である登場人物たちや世界観の設定は、ほとんどが中学生の頃、落書き用のノートに描いていたキャラクターたちの設定を繋いだり、膨らませたりしたものだ。私は現在社会人となり、小説を書くこと以外の趣味も増えたが、それでもこの、中学生の頃に考えた登場人物たちの物語を筆記していくことをやめないでいる。また、それをわざわざWEBで公開したり、体裁を整えて本にしようとしている。

書くことは地味な作業だし、書いた文章をわざわざ「公開」するというのは、「書く」のとは別のベクトルの意欲を必要とする。「公開」という行為は、必ずしも「書く」行為にとって必要ではないと思う。しかし個人的には、自分の書いたものを、誰かの目に触れる可能性のある場所に置いておくことを、心がけている。地味で、まだまだ終わりの見えない改稿作業を進めながら、最近、思い出すことがある。
高校3年生のころ、部誌に載せるために書いた小説で賞を取った。上にも書いた、今書いている小説のスピンオフに位置する短編小説だった。どんな賞だったのかは忘れてしまったが、確かその賞を取った学生が私の住んでいた県から出たのが久しぶりだったからとかで、地元の新聞社から取材を受け、文化欄に小さく載ったことを覚えている。どうして自分の小説が賞を取ってしまったのかがわからなくて、優しそうな記者から「どんなことを考えて書いたんですか」と訊かれたり、家族やクラスメートから「どんな話を書いたの」とか訊かれたりするのがぜんぶとにかく恥ずかしくて苦痛だった。その時私は私の書きたいものを私の書きたいように書いただけで、他人に読まれること、ましてや他人から評価を受けることを考えていなかった。私は私の書きたいように書くことができて満足していたが、他人に「よかったよ」も「よくわからなかった」も言われたくなかった。誰かに何かを言われたくて書いたつもりはなかった。私の書いたものに口出しをするなと思っていた。
ある時、職員室でクラス担任と二人きりになった。当時の担任は古文の先生だった。定年間近の大ベテランで、いろんな生徒から慕われている人気の先生だったのだが、私は古文の成績もよくなかったし、先生は忙しかったし、この先生と仲良くなりたいと思っている生徒たちが多くいることを知っていたから、私はクラス担任と個人的に関わろうとはしなかった。
別の用件で伺ったと思うのだが、先生から「読みましたよ、〇〇さんの小説」と言われたので狼狽えた。
その時、私がなんと答えたのか、また先生がなんと仰ったのか。昔のことすぎて正確には覚えていないのだが、「世の中には、いろんな人がいて」と、先生は話し始めた。

「うまく行っていない人や、社会的に弱い立場にいる人がいる。そんな人たちが書いた小説も、世の中にはたくさんある」
「だけど、君みたいな頭のいい人が、こうやって小説を書くことにも、意味があると思う」

これからも書き続けるんですか、と問われたのか、これからも書き続けなさいとエールをいただいたのか。その後、何を続けて言われたのか覚えていないにもかかわらず、私がすとんと腑に落ちたこと、そして、「これからもものを書き続けよう」と素直に思えたことは覚えている。

先生の言葉はうろ覚えだ。一体どんな意味でそれを仰ったのか、真意はわからないまま月日が流れ、もしかしたら私が都合のいいように、思い出を作り変えている可能性もある。
だけど、ものを書くとき、私はあの言葉を一つの指針にしている。私がものを書くことには、私が書いたものを外に置いておくことには、何か意味があるのかもしれない。それは私にとってだけじゃなくて、私ではない誰かにとってもそうなのかもしれない。

ありがたいことに、私はこれまでの人生で、私の書いたものを読んだ人に「好きだった」と声をかけてもらう機会に恵まれてきた。高校2年生で短歌部門に入選したとき、全国大会の場で審査員には酷評されたが、休憩時間中に他県の入選者がわざわざ声をかけてくれて、「私は入選作品の中で、一番好きでした」と伝えてくれたこと。大学の短歌サークルを卒業する際、後輩からもらった色紙に「部誌を読んで、先輩の短歌が好きだったから、短歌を始めました」と書いてあったこと。小説もそうで、WEBで読んでくださった方から「私は好きです」と感想を伝えてもらうことが何度かあった。し、遡ってみれば、本当に多くの方から、嬉しい感想を、好きだという気持ちをいただいていた。私は、私の書いたものが良いか良くないかは判断できないけれど、「私は好きです」の一言には、本当に、心から嬉しく思うし、私の中の何かが救われる心地がする。あなたに届いたことが、私にとっての何よりの幸運だと思う。

私の考えや、私から見えているものは私の中にしかなくて、それを外に出すことにも、それを誰かの目に触れるところに置いておくことにも、何か、意味があるのだと思う。きっとその意味は私にとっても、私の文章を読んだ人にとっても、思いもよらないものだ。私はそれを予測することも、コントロールすることもできない。私は私で、真剣に文章を書くだけ。誰かの目に触れるかもしれない場所に置くことをやめないだけ。そしてたまに、何かを感じてくれた人から、「私は好きだった」と言ってもらえたら、幸せだ。その幸せが、いつまでも、私がものを書くことのモチベーションになる。

なぜものを書くのか、どうしてそれを公開するのか、自分なりの理由を探るたびに思い出すものがもう一つある。幼い頃、小学生の時に買ってもらったディートロフ・ライヒェの児童書、「フレディ」シリーズの中の、とあるシーン。

ゴールデンハムスターのフレディは、自分だけの自由と幸せを手に入れるため、文字の読み書きを覚え、人間とコミュニケーションを取れるようになった。フレディの住む家の主人であり飼い主でもある、好奇心旺盛な翻訳家のマスター・ジョンは、フレディが自分の仕事用のパソコンを使って文字を書いたことを受け入れるが、「きみが読んだり書いたりできることは、ほかの人には秘密にしておこう」と言う。それは、フレディやフレディの周りの大切な人を守るためだ。読み書きのできるハムスターがいると誰かに知られたら、フレディもフレディの大切な人も危険な目に遭うかもしれない、というのがマスター・ジョンの判断だった。フレディはその説明に納得し、了承した。が、次の2巻で、フレディはマスター・ジョンとの約束を破っていたことがわかる。
フレディは、自分がペットショップにいたときのことから文字の読み書きを覚えようと思ったきっかけ、目的を達成するまでに待ち受けていたさまざまな困難などを小説のようにまとめて、マスター・ジョンの運営するホームページに掲載していたのだ。
マスター・ジョンはフレディが秘密を破ったことにひどく腹を立てる。フレディがその文章を無断で公開したことで、フレディの脳を解剖しようとするディットリッヒという怪しい博士に、本当に目をつけられてしまったからだ。彼はフレディをきつく叱る。

「いいかい。作家はほんとうにいる人のことは書かないものだ。そうじゃなくて、作家はほんとうにいるだろうなと思わせる人のことを書くんだよ。」
 つまり、ぼくはほんとうの作家じゃないってことだ。

『フレディ2 世界でいちばんねらわれたハムスター』p.36

マスター・ジョンは、フレディの書いた話をホームページから削除しようと言う。フレディが了承すると、「問題はかたづいたから、あとは忘れることにしよう。くよくよしなくてもいいよ」とフレディをフォローする。

その後、フレディは同居している猫のサー・ウィリアムから、「ディットリッヒ博士がきみのことをどうやって知ったのか、説明できるかい。」と質問される。フレディとマスター・ジョンの一連のやりとりはすべてキーボードで行われ、文字を読むことができないサー・ウィリアム、そして同じく同居しているモルモットのエンリコとカルーソには、フレディがホームページに自分の書いた文章を掲載したことは知られていないはずだった。しかし、エンリコとカルーソはフレディが自分の書いた小説を、ホームページに載せたんじゃないかということに気づいていた。

「でも、どうしてぼくがホームページにぼくの話をのせたってわかるんだい。きみたちは字が読めないのに。」
「読めないだって。」
 エンリコとカルーソがケージから出てきたので、ぼくはおどろいた。エンリコはぼくの右に、カルーソはぼくの左に立ちはだかって、ぼくを見おろした。エンリコがぼくの肩に左手をかけて、ささやき声で言った。
「ぼくたちの秘密をうちあけよう。ぼくたち、ほんとうはよく読めるんだよ。」
 カルーソも右手をぼくの肩にかけた。
「ぼくたちは、きみの心を読むことができる。だって、ぼくたちはきみと同じだもの。」
「ぼくたちは、芸術家なんだ。劇やパントマイムのね。」
「きみも、芸術家なんだ。作家だろ。」
 それから、二匹はもっと低い声で、ぼくの右耳と左耳に、ささやくようにつぶやいた。
「舞台でやるパントマイムに、
 もし、お客さんがいなかったら、
 それは、読む人がいないのに
 ひとりで書いてる作家とおなじ。」
 それを聞いて、ぼくの胸のおくがあったかくなった。
 マスター・ジョンにはわからなかったこと、つまり、どうしてぼくが話をホームページにのせたかって理由を、エンリコとカルーソはわかってくれていたんだ。ほんとうの作家は、ほかの人に読んでもらうために書く。だから、どうしても書いたものを発表したくなるんだ。エンリコとカルーソは、そんなぼくの気持ちをよく知っていた。

『フレディ2 世界でいちばんねらわれたハムスター』p.40-41

この章には「芸術家の願い」という名前がつけられている。引用した部分は、ストーリーの本筋とはあまり関係がなく、あくまでさりげなく描かれているのだが、私は初めて読んだときから忘れられない文章だ。腰を据えて小説を書くとき、私はいつも、エンリコとカルーソが耳元でささやいてくれているような心地がする。私はどこにでもいる会社員で、作家でも、芸術家でもないけれど、彼らは私に、「きみも、芸術家なんだ。」と言ってくれる。だから、私は安心してものを書くことができるのだと思う。

「舞台でやるパントマイムに、もし、お客さんがいなかったら、それは、読む人がいないのにひとりで書いてる作家とおなじ。」

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