『リリイ・シュシュのすべて』に感じた、救いと希望

先日、初めて『リリイ・シュシュのすべて』を見た。

私はこの作品に救いのような、希望のようなものを感じた。「存在」への、「ここにいる」ことの肯定のようなものを。感情が新鮮なうちに、感じ取ったことをメモしておこうと思う。以下、映画の内容のネタバレとなる。

「B」=be=「ここにいる」こと

星野にリリイのライブのチケットを捨てられた蓮実は、会場の外でリリイのライブを見つめていた。曲の終わりに、出てきた文字がアルファベットの「B」だった。
このBの意味がわからなかったが、作品のことを考えているうちに、これは「~いる、~ある」という意味の「be」のことではないだろうかと思うようになった。

「ここにいる」「ここにある」ことへの肯定

リリイには、エーテルを見ることができる。希望は青のエーテル。絶望は赤のエーテル。エーテルは光の触媒とされている物質だ。リリイはエーテルを羊水として、音楽を産み出す。その音楽は傷ついた者、孤独な者の痛みを癒す。
掲示板には「これじゃまるで宗教じゃないか」という投稿もあったが、実際、リリイを愛する者たちはリリイに「救い」を求めていたと思う。それはやはりある種の信仰だった。ここは曖昧だが、リリフィリア(リリイを愛する者たち)には、リリイ自身を救いの神のように思っていた者がいたかもしれないし、あくまでリリイは聖なるもの――純粋な物質であるエーテルを、音楽という言語で彼らに届ける巫女、いわば預言者のような存在だと認識していた者もいたかもしれない。
とにかく、リリイはエーテルに覚醒していた。そしてリリフィリア曰く、リリイの音楽だけが純粋だった。

主な登場人物の中で、リリイに救われていたのは星野、蓮見、津田の三人。『リリイ・シュシュのすべて』という物語が始まる前から、リリイに救われていた星野。星野からリリイを教えてもらった蓮見。蓮見からリリイを教えてもらった津田。三人はそれぞれに痛みを抱えており、リリイの音楽に「ハマった」。この三人はエンディングでも、畑の中で、リリイの音楽を聞いている。
対して、リリイとドビュッシーが好きで、星野がリリイを聴くきっかけになった同級生である、久野。久野にとって、リリイの音楽がどのようなものであったかは語られない(「好き」以上のことはわからない)。が、久野とリリイの関係と、ほか三人とリリイの繋がり方には大きく隔たりがあるように見えた。
久野は、リリイに近い。私は、「久野にはエーテルが見えているのではないか」、と何度も思った。エーテルが光の触媒であるように、久野は彼女自身を触媒として美しい旋律を産み出す。久野はリリイと同じように、音楽を産み出す側の人間だった。彼女がピアノを弾くとき、彼女はいつもまばゆい光に包まれている。光の溢れ出す廊下に立ち止まり、そのまま座り込んで久野のピアノを聴いている蓮見に、ひとつの信仰の形を見た。蓮見は久野の音楽に、純粋で、透明なものを見出して愛していたのだと思う。久野の音楽は、透明で、美しかった。
……だから蓮見にとって久野のレイプは、本当にショックだったと思う。私も久野の存在や、久野の生み出す音楽に神聖さのようなものを感じていたから、彼女がレイプされて、涙の止まらない彼の気持ちがわかる気がする。「久野の音楽が汚された」という悔しさ、悲しみ。自分も彼らの仲間として、彼女や彼女の音楽を汚してしまったという罪。もう彼女の音楽は失われてしまったかもしれない、という絶望。
嗚咽を漏らす蓮見の、少し離れたところではもう一人の少年、星野が一人タバコを吸っていた。星野は久野をレイプするように指示を出した本人だが、星野にも、蓮見と同じような絶望を感じていたはずだ。自分にリリイを教えてくれた、もう隣の席でも、同じクラスでもない彼女を、汚させた。汚した。背を向けた彼のタバコの煙が白く、美しく立ちのぼっていたのが印象的だった。悲しい美しさだった。「透明になりたい」と切に望んでいた彼が、久野を汚しながら、彼自身も濁った煙を吸い、吐いていたのが、やけに印象に残った。あれは自傷行為だったのではないかと思う。星野も星野を傷つけて、汚していた。

蓮見や星野が絶望し、自分を責める中。久野は、絶望しきってしまうことはなかった。彼女は翌日、髪を切って学校に来た。その姿は、さながら出家した尼のようだった。時が経ち、その後のシーンでも彼女が髪を伸ばす様子はなかったから、あの出来事をきっかけに、彼女は「俗世を捨てた」のかもしれない。
津田が直前のシーンで、「もしデブになったら、モヒカンにしたら、仕事しなくてよくなるかな」と言っていたのが悲しい。悲しい対比に、皮肉になってしまった。津田は、口では「デブになったら」「モヒカンにしたら」と言っていたが、できなかったから。
その後、津田は空を自由に飛ぶカイトを眺めながら「カイトに乗りたい」「空飛びたい」と言い、実際に飛んでしまった。最後に津田が有言実行したことが、「デブになる」でもなく「モヒカンにする」でもなく、「空を飛ぶ」ことだったことが悲しい。しかしそれがただ「悲しい」だけの選択だったかというと、それは見る人によって変わってくると思う。私の解釈はいったん保留にする。

星野と蓮見/青猫とフィリア

星野と蓮見はかつての友人で、しかし現在はいじめっ子といじめられっ子(と言うと、星野の加害の残虐性が薄まる気がするが)の関係だ。しかし物語の後半で、彼らは「リリイを愛するもの」たちの掲示板で出会った、「同志」であったことが明かされる。
フィリアが管理する掲示板に集まった「リリフィリア」の中でも、青猫とフィリアの二人は、特別な関係にあったと思う。
久野のレイプ、津田の自殺のあと、彼らは掲示板上で会話をしながら、「同じ痛みの中にいた」。青猫とフィリアはリリイを介して出会い、互いの素性を知らなかった。まったく互いのことを知らなかったにもかかわらず、青猫とフィリアはリリイという存在を媒介して、「同じ痛みの中にいる」ことを共有しあった。「共鳴」していた。
リリイの曲名を叫び合うことは、リリイを介して「共鳴」することは、青猫とフィリアにとっての魂同士の会話だったのだと思う。あの時の彼らにとって、リリイは言語だった。相手と痛みを分かち合うための、唯一の共通言語だったのだと思う。

……物語後半に私が感じていたのは、彼らはリリイを愛する者たちであったが、リリイを愛する気持ちとは別に、リリイを媒介した先にある、同じように痛みの中にいる「他者」の存在を必要としているのではないか、ということだった。
それは青猫とフィリアに限らず、他のリリフィリアの中にも、そのような者たちはいたのではなかろうか。それは掲示板の投稿者の一人である、「くま」(リリイを愛し、エーテルを自分の言葉で理解しているファンの一人)の、リリイのライブの開催が決定した時の書き込みからも感じられる。「『みんな、俺のことを見つけてくれ!』」

希望は青のエーテル

星野の話になるが、彼の掲示板でのHNが「青猫」であることにも興味を引かれる。
リリイ曰く、エーテルには色がある。絶望は赤のエーテル。希望は青のエーテル。希望の色である「青」をHNに入れた彼の意図、そしてフィリアに「ライブ会場で会いましょう」と告げた彼が、自分の目印として「青リンゴ」を選んだことにも、まったく意味がないわけではないだろう。

私は、星野があのリンゴの「青」に、彼の希望を託しているのだと思った。会場でフィリアに見つけてもらえるかもしれないという希望。フィリアとリアルの世界で繋がり合えるかもしれないという期待。青リンゴには、掲示板上の存在である彼の、個人的なメールアドレスが書いてあった。
青猫は、掲示板上だけじゃなくて、フィリアと個人的なつながりを持ちたかったのだ。非常に俗な言い方をすれば、きっと「友達になりたかった」。あの瑞々しく、目の覚めるような青いリンゴに彼はどれだけの希望を託していたのだろう。待機列で青リンゴを顔に近づけながら、大勢のファンの中からフィリアの姿を探す彼の様子はどこか不安げで、その表情には子供らしい純粋さが滲んていた。彼がライブ会場にいたのは、リリイの音楽を聴くということ以上に、あの場で「フィリアに見つけてもらいたかった」のだと思う。

そしてフィリアは青猫に気づく。そしてその青リンゴの持ち主を見て、「青猫は星野だった」ということに気づいた。
対して星野は、気づけなかった。自分が探していた、人混みの中で唯一見つけたかったフィリアが、イコール蓮実だったということに(蓮見の姿を見つけた時、あどけない表情をしていた星野が、一瞬で「いじめっ子」の顔になったのが非常に印象的だった)。
星野は蓮見がフィリアだということに気づくことができないまま、いつものように蓮見をいじめる。チケットを奪い、コーラをパシらせ、リリイのチケットを投げ捨てた。
星野は蓮見の、イコールフィリアの愛していたリリイを、その手で奪った。星野は久野からも、津田からも、大切なものを奪っていた。その瞬間、蓮見からも奪った。星野は加害者で、蓮見は星野の被害者の一人だった。
蓮見はずっと星野と共にいたから、これまで星野が犯してきた罪を知っている。……もし蓮見とフィリアが別人だったら、「フィリア」は星野の罪を知らずに、星野と友達同士になっていたかもしれない。が、フィリアと蓮見が同一人物である以上、星野がこれまで犯してきた罪をすべて見逃すことは、どうやってもできなかったと思う。
蓮見には、「星野=青猫だから」というだけで、星野の行いのすべてを赦すことはできなかったはずだ。しかし、それとまったく同じ理屈で、蓮見は星野を憎み切ることもできなかっただろう。
星野は、青猫だったから。星野はいろんな人を傷つけて、いろんなものを奪って、蓮見一人が許したくらいでは救われないくらいの罪を重ねていたけれど、蓮見は蓮見であると同時にフィリアでもあったから、星野が抱えている「痛み」を、誰よりも知っていた。
フィリアしか、蓮見しか、星野の痛みを知ることはできなかった。リリイという言語によってしか叫ぶことができない、星野の叫び声を聞くことができるのは、あそこには蓮見しかいなかった。

「ここにいる」という叫び

ライブが終わったあと、星野は会場の外にいた蓮見の姿を見つける。蓮見が手に青リンゴを持っていることを確認すると、蓮見に「誰も声かけてこなかったか」と訊き、彼がフィリアに出会えなかったことがわかるとその青リンゴを持って帰ろうとする。
青リンゴを手に、人混みの中――日常に帰っていく星野の後ろ姿に向かって、蓮見は叫んだ。
蓮見は星野に叫んだ。それこそが、フィリアの、青猫に対する「ここにいる」という叫びだったのではないか。直前のシーンで、スクリーンに映る「B」の文字を、蓮見が見つめていたのが印象的だった。フィリアは、一度青猫から青リンゴを受け取ったにもかかわらず、彼がフィリアだと「気づいてもらえなかった」。フィリアだって、青猫に会いたかったはずだ。青猫と同じように、リリイのライブ会場で、青猫に出会うことを期待していたはずだ。
しかし、青猫は去っていく。フィリアが、蓮見が叫んでも、青猫どころか他の誰もが彼を気に留めることはなかった。
そこで蓮見が叫んだのは、「リリイだ! リリイがいるぞ!」。その瞬間、場は騒然とする。蓮見が叫んだライブ会場の方に向かって、「リリイに会いに来た」人たちが一斉に動き出す。
その波を掻き分け、逆行しながら、蓮見が歩いていくのは「星野」のいる方だった。

星野も騒ぎに気づき、リリイのいる方に動き出す。しかし、彼が「リリイに会いに来た」人たちに揉まれながら見たのは、蓮見の姿だった。
蓮見は、「リリイに会いに来た」人たちの中で、たった一人、「青猫に会いに来た」。
画面が薄暗いため何が起きたかはわかりづらいが、蓮見が星野に対して行ったのは、「星野の青リンゴを受け取った」「星野を刺した」という2点だ。
「星野を刺した」のは、復讐心からかもしれない。しかし、私にはそうは思えなかった。なぜなら蓮見が、星野の「青リンゴ」――星野の希望を引き受けたからだ。
星野に復讐するだけであれば、蓮見が青リンゴを引き受ける必要はなかったのではないか。蓮見は星野が目印に「青リンゴ」を選んだ意図を、リリフィリアとして、何となく察していたのではないかと思う。また、「青リンゴを受け取る」ことの意味は、あの掲示板を見ている者にしかわからないはずだ。それを「受け取った」。
蓮見が星野から青リンゴを受け取った時、彼らは目を合わせていたように見えた。星野は蓮見に青リンゴを奪われて初めて、その青リンゴを受け取った者が何者であるか、認識したのではないだろうか――フィリアが蓮実なのだと、知ったのではないだろうか。
無数の人の中でたった一人、フィリアに気づいてもらいたかった青猫が、フィリアによって希望の青リンゴを引き受けられる。このことだけでも、彼にとっては救いだったのではないだろうか。
彼はそれと同時に、蓮見によって刺されている。このことも、もしかしたら、蓮見による「仕返し」であるだけでなく、フィリアから青猫への「救済」であったのかもしれないと思う。
フィリア、そして蓮見は、青猫、そして星野が救いようもなく傷ついていたことを知っていた。「存在は傷」。傷ついた者はリリイの音楽によって癒されるが、癒されることができないほどに傷ついてしまった存在である星野を、蓮見はこれからも傷つけ続ける日常に帰すのではなく、殺す――肉体という「存在」から解放した。それは彼らの言語である「リリイ・シュシュ」という文脈においての、ある種の「救い」のように思えてならない。

癒えない傷、癒える傷

殺人は罪だ。だから蓮見は星野を殺すという罪を犯したことになる。星野を殺したことは、蓮見という存在に大きな傷をつけた(日常に帰ったあと、彼が嘔吐するシーンがある)。
しかし、彼はこれからも生きていく。リリイの、そして久野の、透明な光のような音楽を聴きながら。蓮見が負った傷は、今後きっと、そのようにしてだんだんと癒えていく傷だ。
対して、星野や津田の負っていた傷は「癒えない傷」だった。津田は空を飛ぶカイトに憧れて飛び、星野は蓮見に刺されて、その「癒えない傷」から解放された。津田は自分で、星野は蓮見によって「存在」から解放された。それはこの世界に救いのない彼らにとっての、唯一の「救い」であったように思う。
リリイがエーテルに覚醒したのは、朝と夜の間、夕方の時間帯だったという。エンディングで、死者である星野と津田が畑の中に立っていたのも、夕暮れの畑の中だった。死者である星野と津田、そして生者である蓮見が同じように、夕暮れの畑の中で、リリイを聴いている。生者と死者の境界が曖昧になっていたのは、あの場所こそが透明な場所、エーテルの存在する場所だったのだろうと思う。
癒えない傷を負った星野と津田の存在は、リリイの音楽に救われる。また、蓮見がこれから生きていく中で負う傷も、リリイの音楽によって癒される。蓮見は傷ついたり、癒されたりを繰り返しながら、これからも生きていく。

「リリイ・シュシュの意図するすべて」

私はこの物語を、存在に対する肯定の物語だと思った。存在への許しと、希望の物語だと思う。希望は青のエーテル、絶望は赤のエーテル。どこまでも続く緑色の畑。それらが朝と夜の中間地点、夕暮れの時間帯に重なり合って、透明な光となる美しさ。そこから生まれる音楽。傷つきながら生きていく者も傷つき果ててしまった者も、リリイによって救われる。

所感

「リリイ・シュシュのすべて」を見終わった私は、とても心地よくて、不思議な満足感に包まれていた。私は、この物語の中で、「救われたかったのに救われなかった」人がいなかったことに、何か優しさのようなものを感じたのだと思う。

いい映画だった。出会えてよかった作品だと、心から思う。

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