三日坊主日記 vol.235 『神社って時々恐ろしくないですか』
一昨日、南丹市というところへ行ってきた。
京都府のちょうど真ん中あたり。園部町、八木町、日吉町、美山町が合併して平成18年にできたらしい。市の北部は福井県と滋賀県、南部は兵庫県と大阪府、西部は綾部市、京丹波町、東部はは京都市、亀岡市に隣接しているそうだ。こう書くと交通の要所みたいだが、失礼ながらあまりそんなふうには見えなかった。実際にはどうなんだろう。
目的地は幡日佐神社。八木町のいちばん奥に鎮座するいかにも鎮守さまという風情の神社で、主祭神は品陀別命 (ほんだわけのみこと/応神天皇)と江戸時代に合祀された氷室神社の祭神で氷室命 (ひむろのみこと)。
応神天皇というのは第15代の天皇。あのヤマトタケルの孫で、お母上は神功皇后、巨大前方後円墳が有名な仁徳天皇のお父上らしい。氷室命は調べたけどわからなかったが氷の神様なんだろう。創建は不詳だそうだが、優に千数百年の歴史はあるようだ。現在の社殿は大正13年に再建されたものらしいが、経過年数以上に結構傷んでいるようにみえた。
天気は良かったのだが、境内は鬱蒼とした木々に囲まれてちょっと薄暗い。平日のためか、いつものことかはわからないが、参拝客もいないし社務所にも人はいない。静かでとても神聖な空気を醸している空間。というか、ちょっと恐ろしく感じる。
僕は趣味(というわけでもないんだけど)で、結構いろんな神社を訪れる。まあ、神社に限らずお寺にもいくし、教会にもいくんだけどね。海外へ行っても寺院や教会へはよくいく。いろんな神社にお参りしていて思うのは、神社ってなんでこんなに恐ろしいのか、ということ。すべての神社で感じることではないんだけど、まあまあの確率でとても恐ろしく感じることがある。
この幡日佐神社もちょっと恐ろしいような感じがした。もちろん僕にはそういう人に見えないものを見る力はないと断言できるが、それでもたまに感じるのだ。というか、感じるような心持ちになることがある。単純に天気だったり、人の有無だったり、手入れの行き届き具合で印象が変わるだけだと思いたいんだけど、どうもそうじゃない気がする。
得体の知れない恐ろしさというか、お寺では感じない種類の恐ろしさ。神社を建てる場所には、それなりの理由があるから建っていると聞いたことがある。なにかを鎮めるとか、結界を張らなければならないようなこともあるのかも知れない。いずれにしても、誰も答えは知らないし、分かりようもないことだけど。
これまででいちばん恐ろしいと思ったのは、吉野の山の中にある神社。室町時代に建てられた社殿がそのまま今でも使われているんだけど、境内に入った途端にとにかく恐ろしくて恐ろしくて居ても立ってもいられなかった。神社にお参りして恐ろしがるのも失礼な話だが、参拝どころではなかった。
しかし、なにかを恐れるということは良いことだと僕は思っている。特に得体の知れないものを恐れるのが良い。神であったり仏であったり、自然であったり。恐れるからこそ自重することができるし、謙虚でいられるのだ。それが多神教のよさであり、日本の良さではないだろうか。知らんけど。
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