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三日坊主日記 vol.119 『錦の御旗』

慶応4年1月(この年の9月に明治と改元)鳥羽伏見で敗れた幕府軍は 、守口を通る街道を大阪城に敗走しました。それを追う形で、天皇の大阪親征があり大行列は3月20日京御所をたち、初日は八幡の行在所。翌21日夜9時過ぎ激しい雨の中を難宗寺行在所に到着されました。西本願寺門主は水路到着しお迎えされました。翌日は晴天の中ご出発。大阪の仮御所となった北御堂(津村別院)に入られました。この御親征には大阪遷都の計画もあり、三種の神器か文武百官も同行し、守口は一夜の帝都となりました。【難宗寺HPより】


住職に用があって、母の眠る寺へ行った(もちろん母の墓参りもね)。この寺の住職は、僕の映画『泥の子と狭い家の物語』で読経をしてくれた人。友達とまでは言えないが、長い付き合いのあるよく知る人である。


今日は仏事の相談事に出かけた。話が進む中で、明治天皇が大阪親征の折にこの寺で一夜を過ごされた話になり、その玉座が据えられたお部屋を拝見した。当時その部屋の周りがどういう作りになっていたのかは分からないが、御簾で区切られた玉座の部屋は、それほど広くない数寄屋づくり(で合ってるのかな)の部屋で、当時の厳かな雰囲気をそのまま残してある。


詳しいことは定かでないが、天皇陛下がお泊まりになる為に作られ、その後一度も、誰も使用していないそうだ。当時の天皇陛下は現人神であり恐れ多い存在だったろうから、泊まっていただけることはこの上ない名誉なことだと思う。そのために家も建てたし、その部屋は未来永劫大切に取っておくんだろうと思う。


とても名誉なことだとは思うが、それ相応の財力が必要だなと庶民的な心配をしてしまう。天皇がお泊まりになるようなお家はそんなこと心配する必要はないだろうし、そもそもそんなことを心配するような家にはお泊りにならないのである。知らんけど。


一泊のお礼にと明治天皇から贈られた錦の御旗も見せて貰った。真紅の錦に金色の菊の御紋。数多の武将が欲しがったアレである。ゴールデンウイークのスタートに相応しい、ゴールデンな体験をさせて貰った。


この寺には、後の大正天皇も皇太子時代にお泊りになったとか。母はとても由緒あるところに眠っているのだなぁ。



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