空飛ぶ円盤で感じた幻想

 1970年代、テレビや雑誌をにぎわせたのが「UFO 空飛ぶ円盤」だったりします。

 前のめりにその手の記事にのめり込んでいったのですが、一番の影響はいわゆる矢追純一の特番だったりします。今見直してもテンポの早い展開や編集によるミスリードへの導入など色々と参考になることも少なくありません。

 残念なことに、番組で取り上げた話題の多くは今日ではウソとわかっていたりしますが、それでも1%に満たないとはいえ、本当かどうかわからないものもあったりします。

 子供の頃に夢中になったUFOをオトナになった目で見直してみたらどう感じるのか? ここ最近はそんなことを趣味で調べていたりします。

 改めて文献を調べたりすると、本当にフェイクが多くガッカリすることも多いのですが、当時のUFO記事を書いている人たちの関係などが浮かびあがってきたりとなかなかに興味深かったりします。

 基本的にはあれだけUFO番組が流行ったのは純粋に「数字を持ってる」からだったようですし、ニュースではなくバラエティ番組としては取り上げざるを得なかったという事情はあるようです。

 いないはずの異星人の存在しないテクノロジーの象徴である空飛ぶ円盤。これは小説でもノンフィクションでもない新しい表現方法によるもうひとつのSF作品と言っても良いのではないかと思いはじめています。今風の言葉で言うのならモキュメンタリーというやつですね。物語の存在しない作品。それは商業作品で言うのならばビックリマンやガンダムに近しいディティールと情報の集積体と言えるのかもしれません。

 受け手は膨大な情報から架空の世界である天聖界や宇宙世紀の幻想を抱きそこに胆泥

 ひところ流行ったケータイ小説の場合もそこに書かれた物語ではなく、それを端末で読むことが大きな意味を持っていたのではないかと思ってます。つまり、膨大な情報量の代わりにケータイが幻想へ誘うガジェットだったのではないでしょうか?

 昨今のショートショートが脚光を浴びてるのもそのスタイルとスピード感が現代に最適化されていたことを発見されたことが大きいと思います。ウィットやアイロニーの効いたフェイクなツイートもしくはブログ記事と考えれば、ケータイ小説をより研ぎ澄まされたものに位置づけることができないでしょうか?

 いわゆる都市伝説や怪談(新耳袋などの実話系)もそうした新しいスタイルとの親和性が高かったからと言うのは乱暴でしょうか?

 今までは本の形でしか表現することができなかった文字の世界も、他のメディアと結びつくことで最適化すれば新しいジャンルを生み出しそうな気がしてなりません。

 自分の中でまだ考えがまとまっておらず、明確な言語化ができてないのですが、昔のUFO記事を掘り返してみて漠然とそんなことが思い浮かびました。

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