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英国王室と日本の政権①


皆さん、こんにちは・こんばんは・おはようございます。「見たかな?観たよ!」の中の人、ひろ-macrobiworldです。


タイトルを観て、ん?
「英国王室と日本の皇室の間違いじゃないの?」
と思った方もいるかも知れませんね。

でも間違いでは無いのです。

「温故知新」
歴史の知識はこういう風に使う為に学ぶのさ!シリーズ、行ってみよ〜🎵
と言いたいところですが、その前に

今回と次回はどちらかと言うと陰謀論回になりそうなので、そういうのは苦手!と言う人はスルーしてくださいね。

三浦按針と徳川家康


「英国、史上3人目の女性首相誕生」にも書いたのですが、日本が英国王室と最初に接点(間接的ではありましたが)を持ったのは、
徳川家康です。

(因みに初訪英した日本人は、恐らくは奴隷貿易でスペインに買われスペイン船に乗組員として乗船していた2人。彼らが乗っていたスペイン船が英国船に拿捕され、英国船に改めて乗組員として雇われたことがきっかけで、1587年に英国に入国しているそうです。)

家康が顧問として引き立てた英国人航海士・三浦按針(ウィリアム・アダムス)が進言して、東インド会社を通じて、英国のエリザベス1世から武器を買い入れてますね。

これについての詳細は「英国、史上3人目の女性首相誕生」をご覧くださいね。

今回は日本の当時の情勢の話を中心にしたいと思います。

家康と秀吉


徳川家康と言うと「狸オヤジ」のイメージが強いかも知れませんが、若い頃は美少年で通っていたのだそうです。

正室(正妻)の築山殿と嫡男の松平信康は織田信長から武田勝頼と通じていることを疑われ、信長に命じられた家康自ら処断し自害を申し渡さざるを得なくなるなど、少年時代に今川家に人質に取られていた事も含めて、苦労の多い前半生でした。

そう言う苦労の中を生き抜いてきた人ですから、老獪で油断ならない人物になるのはむしろ当然だと思えます。



けれどもこの家康、築山殿亡き後ずっと継室(後妻に入った正室)を娶らなかったところをみると、
やはり自害を拒否した築山殿が家臣の手で殺害されたことや、信康に切腹を申し渡さなければならなかったことに関しては、相当精神的に堪えてトラウマになっていたのではないでしょうか?

事実、後に家康は築山殿について「女なのだから尼にでもして、逃してやればよいものを」と漏らしたそうです。(1)

にも関わらず豊臣秀吉の思惑で、無理やり秀吉の妹朝日姫を継室に迎えさせられる事になった挙句、当の姫は輿入れ後数年で亡くなり、その後はやはり継室を貰うことはしませんでした。

家康の場合、側室の数は多かったものの、正室はこの2人だけ。


特に朝日姫については

〉秀吉は政略結婚のために妹を強制的に夫と離縁させ、夫には500石を捨扶持として与えた。この時に日向守は面目を失って自殺したとも、剃髪して隠居したとも云うが、これも定かではない。〉Wikipediaより引用

と言うワケで、朝日姫自身も家康に輿入れ後3年ほどで病気で亡くなっているわけですから、“病は気から”と言いますが、家康にしてみれば何か思う所があったかもしれませんね。



秀吉と言えば信長の妹、お市の方に執着して、お市の方亡き後はその娘の茶々(後の淀君)に執着して側室に迎えたことは有名ですが、執着したのは(信長の後を引き継ぐ者として正当性を得る為に)織田の血にこだわったから…と言う説も。

それ以外にもあちこち女性に手を出し、寧々(北政所)を泣かせたり、仲が良く長年連れ添ってきた妹夫婦を、自分の思惑の為に強制的に離縁させ傷つけてまで利用した秀吉に比べたら、家康は人間の心を失っていないと言いますか、女性に優しいと言いますか…行動に誠意を感じますよね。



家康の側室が多いと言うのは、当時の時代背景や家康の立場もありますが、側室との関係性は男女の色ごとや単なる政略結婚ではなく、

(私がかつて家康のホロスコープを鑑定した時の印象としては、)例えて言うなら徳川の跡継ぎを確保して政権を安定させる為の、現代で言うところの
「チーム家康」=「会社のプロジェクトチームにおける上司と部下みたいな関係」だったんだろうなあ…と思うわけです。

家康が未婚の若い女性よりも、出産経験のある未亡人を好んで側室に迎えたと言うのも、それを裏付けているのでは無いでしょうか?

要は現代で言うなら、夫を亡くして生活に困っている子連れ女性を、「経験者優遇」の形でスタッフとして雇い入れているような感じ。両者共に需要と供給が一致したWin -Winの関係ですね。

金運と女性運の相関関係


余談ですが、占いの世界では東洋でも西洋でも、金運と女性運は同じ星で観るんですよ。四柱推命ではさらに健康運も同じ星で観ます。

世間的には家康は倹約家でケチだったと言われていますが(別の表現をすれば質素でものを大切にした)、健康オタクだったことでも有名ですし、他方の秀吉は金ピカ御殿の成金のイメージが強いですね。

ですから巷でよく言われる「男性のお金の使い方を見れば、その男性の女性に対する態度や考え方がわかる」と言うのは、案外当たってると言えるのです。

ま〜、秀吉と家康の2択で、どうしてもどちらかひとりを相手に選ばなければならないとなったら、私は家康を選びますねー。



一般的に見て、プレイボーイと言われる人には優しい男の人、多いでしょ。でも、その優しさは優柔不断さの裏返しだったり、ただ他者から嫌われたくないだけの八方美人さ故だったり。

秀吉は日本史上最も出世した男性ではあるけれけど、俗に「人たらし」と呼ばれるチャラさの裏に、そう言うエリートにありがちな自己チューで計算高いところが女性関係を通して透けて見えちゃうのが、ちょっとね…。

秀吉と寧々の結婚は当時としては珍しい恋愛結婚だったとも言われるのだけれど、寧々は確かにそうだったんだろうけど、秀吉は打算が働いていたとの説もあるし…。

狸ジジイだろうがなんだろうが、信頼出来そうな良い旦那様タイプの男性はどちらかと言ったらねえ…女性なら分かるでしょ?



ふたりにとっての主君、信長は最愛の女性だったと言われる生駒吉乃が亡くなった時に声を上げて泣いちゃったとか、荼毘に付されたあとも涙を流して呆然としていたと言う話があるらしい。

また家康は築山殿が亡くなった後、ショックだった故か秀吉に無理強いされるまで正室は娶らなかったわけだし、

信長&家康は「泣く子も黙る強面(?)戦国武将」の2人だけど、三英傑の中ではこの2人は、意外と純粋で可愛いところあるじゃん!
って感じなんだよね、、、

三英傑と呼ばれる(左から)織田信長、豊臣秀吉、
徳川家康の3人。



でも秀吉に関して言えば「女性を出世の道具にするなー💢」としか思えん(笑)


寧々は頭の良い女性だったみたいで、秀吉亡き後に豊臣家の中枢からは距離を置いて、悲惨な結末からは上手く逃れたけれども、

茶々も朝日姫も、秀吉の野心の為に利用されて、傷付けられた挙げ句に不幸な結末になってしまって、み〜んな可哀想としか思えん。

利用されても、結果的にそれで幸せになってるならまだいいけど、そうじゃなかったわけだしね…。


↑すみませんね、私情丸出しで書いちゃって。


その点、家康は築山殿の件以来、正室を不幸にしてしまうのを嫌がってか正室を娶ろうとしませんでしたし、数多い側室との関係はビジネスライクなWin -Winの関係で、上手くやっていた様に見えます。

この記事の本題では無いので、これ以上詳しくは書きませんが。



光秀を唆したのは誰?


本能寺の変は吉乃亡き後15年ほど経って本願寺との争いが終わった後に信長が暴走し始めて、それで辛く当たられてた光秀がブチ切れて、なんたらかんたらと言われているのですが、

その一方で明智光秀は頭は良いけど、真面目で融通が効かない官僚タイプの武将だったと言われています。(つまり秀吉とは正反対のタイプ。)

要は天下をとって太平の世を築いてくれそうな武将に“仕えたかった”タイプで、光秀自らが天下を取ろうなどとは考えもしなかったのでは。

どう考えても安倍元総理の暗殺じゃ無いけど、光秀単独犯は考えにくいよね〜(光秀ひとりじゃ、そんな大それたこと考えても出来ないんじゃないの?)と、私も黒幕いる説を信じるひとりなわけですが、

最新の研究では、光秀本人は本能寺にはいなかったと言う説が出ているそう。(首謀者は明智光秀の家老・斎藤利三だとする説が多いそうです。)(2)

とは言え、明智光秀の軍勢が起こした事には違いないわけで、じゃあ誰が唆したのか。

「黒幕説」
これがね〜、色々あるわけですよ。


有名なのは朝廷黒幕説と家康黒幕説。
でも秀吉黒幕説というのも、ちゃんとあるんです。

本能寺の変の後、秀吉のとった「中国大返し」は有名ですが、それって出来すぎてるでしょ。最初から知っていたのでは?仕込んでいたのでは?と。
やはり、そういう意見はあるのですね。

信長亡き後、お市の方が秀吉を嫌って、同様に秀吉に不満を持っていた柴田勝家に嫁いでいる事も引っ掛かります。(織田家家臣の中には勝家同様に、秀吉に反感を持つ勢力もいた。)

なんで?と。

光秀が命を落としたのは秀吉軍のせいでは無く牢人のせいだったと言われてますが、秀吉は一応は謀反人を追い詰めた功労者でしょ。

なのに何故、他の織田家臣から反発されたのか?

秀吉が信長の右腕としたら、光秀は左腕。
共に信長の両腕として、欠かせない人物だったはず。

秀吉の能力への嫉妬なのか?
天下取りへの野心が、見る人から見ると見え見えだったからなのか?
それとも本能寺の件について、何か(秀吉が暗躍しているような)情報を掴んだ人がいたのか?

秀吉黒幕説の理由として挙げられているのは、こんなところでしょうか。


もうひとつの黒幕説と派閥争い


他にはイエズス会黒幕説というのもあるみたいです。これまでに上げた説ほどは有力視はされて無いようですが…

ですが…もし万が一こちらのパターンだったとしたら、
安倍元総理ー織田信長
明智光秀ー山上徹也容疑者
イエズス会ー旧統一教会
になっちゃいますね。

信長は西洋の科学技術を取り入れる為にイエズス会の宣教師ルイス・フロイスと昵懇でしたし、(▶︎朝鮮総連を抑える為のコマとして、安倍元総理の祖父、岸信介が旧統一教会を日本に招き入れたと言われていますね。)

光秀の娘である細川ガラシャ夫人は、キリシタンだったわけですし。(ー山上容疑者の母親が統一協会信者。)

信長は上洛の為、少ない手勢しか同行させられなかった中で起きた事件(ースカスカの警備態勢の中で起きた安倍元総理狙撃事件)だったわけですし、

そういう意味ではパターンが被っちゃってますね。


実を言うと霊能者(チャネラー)さんでこの件の霊視をしてる方、何人か見かけたのですが、私が見た範囲では、黒幕は秀吉もしくは秀吉の家臣(黒田官兵衛とか?)だという方が多かったです。

(ただ光秀単独犯説を言う方は、ひとりもいらっしゃらなかったような気がします。)

勿論、どの説もそれを裏付けるに足るような史料は無いので、正解が諸説あるうちのどれなのかは結局分からないままのようですが、

そもそも歴史研究者の間でも、何で光秀が本能寺の変を起こすに至ったのか、その動機がよく分かっていないのが現状だそうです。

動機が曖昧で不明▶︎黒幕がいると考えるのは自然なことではないでしょうか。

黒幕の思惑通りまんまと踊らされた挙句、最終的に謀叛の汚名を着せられ罪人として呆気ない死を迎えた光秀は、あの世でさぞかし無念の思いで悔しがっているのでしょうね。

奇妙な一致


その黒幕説にも登場するイエズス会は、現在はカトリックの中では少数派で、極左集団(中国共産党との関わりが深いと言う説もある)でディープステートだとかディープチャーチと言われる勢力の一部だと言われています。

旧統一教会も、韓国では反日姿勢を教義に盛り込んでいることが日本でも話題になってましたけど、韓国は保守派も伝統的に親中派の国なんですよね…。

おまけに日本で巻き上げたお布施を、北朝鮮に送っていたとか、米国の旧統一教会に送金してたとか、ちょっと聞き捨てならないようなことも言われているわけです。

イエズス会の創立メンバーで宣教師の
フランシスコ・ザビエル

英国国教会vsローマカトリック


戦国時代末期〜江戸時代初期当時のイエズス会の後ろ盾はローマ教皇と、スペイン・ポルトガル。

英国はエリザベス1世の父ヘンリー8世が、最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンと離婚し、エリザベス1世の母アン・ブーリンと再婚する為に自らカトリックを破門、英国国教会を立ち上げています。(ー中世のブレグジット?)

そしてエリザベス1世の時に英国海軍はアルマダの海戦に於いてスペインの無敵艦隊を破り、以降英国は隆盛を極めていき、英国に「女王の時代は栄える」と言う名文句が生まれるきっかけを作りました。


実際、伊達政宗が当時イエズス会と対立していたフランシスコ会の宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使とする慶長遣欧使節団を派遣(3)した際、ソテロはスペイン国王に「政宗が日の本統一(倒幕)の為に支援を求めている」と手紙を書いていますが、英国が家康に付いていたことを知ったスペイン国王は、政宗に協力することを断ったと言われていますね。

それが元で伊達政宗は天下取りを諦めざるを得なかったと言われていますが、政宗本人は50歳までは徳川幕府に何かあれば、徳川に代わって自分が天下を取る狼煙を上げるつもりだったと、後年自ら語っていたようです。
(慶長遣欧使節団の出発が政宗数えで47歳の時。使節団の帰国が政宗52歳の時。)

ソテロさん、根拠のない話では無いものの、ちょ〜っと暴走気味でしたね〜。



こちらも今回の本題では無いので詳しくは書きませんが、
ローマ・カトリック(スペイン・ポルトガル)
vs
英国国教会(イングランド&スコットランド・ネーデルラント)

の構図と言うのはまさに今、地球上で覇権を争っている現代の『中露率いるbricks』  vs 『欧米先進国』と重なるところがあるのでは無いでしょうか?


単純に先進国vs新興国と言う括りで見るなら、

  • 先進国=ローマ・カトリック

  • 新興国=英国国教会

ですが、
日本側の視点で見るならば

  • 交易と布教をツールに植民地化を狙う政策を取るローマ・カトリック。

  • とりあえず経済的利益の確保を優先する英国国教会。

と言うことになりますから、
例えて言うなら政宗は、今で言う親中派になるのかと思います。


でも徳川幕府の中では3代将軍家光の時代、戦を知らない家光が、政宗から当時の戦話を聞かせてもらい「伊達の親父殿」と、家光からとても慕われていたと言われているんですよね。

政宗は正面切って将軍の家光に諫言することもあったようで、家光からの信頼は厚かったようです。

50を過ぎて天下取りを諦めた後の政宗は、家光の頼りになる忠臣として、評価を固めていたのですね。


徳川幕府と英スチュアート朝


さて17世紀に入ったばかりの頃、英国ではエリザベス1世の崩御に伴い、
(エリザベス1世に子が無かった為に、)
彼女の父方の伯母の息子で、スコットランド国王だったジェームズ6世がイングランド王ジェームス1世として即位。

それまで対立を続けていたイングランドとスコットランドはこれで事実上統一されます。
これが江戸幕府開闢とほぼ同時期の出来事。

  • 家康が征夷大将軍に就任ー1603年3月24日

  • スコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位ー1603年3月24日

因みに

  • オランダ商船リーフデ号の大分沖漂着が1600年4月。(「三浦按針」ことウィリアム・アダムスや東京駅八重洲口の地名「八重洲」の由来となったヤン・ヨーステンが乗っていた。)

  • 関ヶ原の戦いに勝って家康が実権を握るのは1600年9月。(この戦の時、家康軍はリーフデ号に積まれていた武器を使い、この事が後に大坂の陣で英国に大包を発注することに繋がったとも言われているようです。)


恐らく家康がエリザベス1世からカルバリン砲(大包)を購入したのがきっかけだとは思いますが、

  • イギリス東インド会社の商船の指揮官が家康にジェームズ1世からの国書を奉呈し、正式に日英国交を樹立するのが1613年。

  • 大坂冬の陣は1614年。

  • 大坂夏の陣は1615年。

そしてこの時代の英国王ジェームズ1世の息子が、「チャールズ1世」なのです。

  • チャールズ1世 1600年11月19日さそり座生まれチャールズ3世 

  • 1948年11月14日さそり座生まれ


エリザベス女王とチャールズ国王の間に、ひとりいるか、いないかの違いはありますが、
う〜ん、ってなりませんか?

私は…色々想像しちゃいます(笑)

ここまで読んで下さった皆様には、最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

長くなりましたので、今回はこの辺にしておき、続きは次回にしようと思います。


【参考記事】

(1) 徳川家康と女性エピソード。正室・築山殿や側室・於万の方、城主の妻など紹介 | 和樂web 日本文化の入り口マガジン

(2)『麒麟がくる』では地味だったが…最新研究が示す「本能寺」の真の首謀者 : 読売新聞オンライン

(3) 「南無阿弥陀仏、アーメン」寺が“隠れキリシタン”を追悼?伊達政宗との意外な関係とは

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